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40歳からの必死のパッチ

この世に生まれてきて40年余り経つが、金賞とか特賞とかを貰ったことといえばお習字だけである。

誰にでも何か一つは特技があるもの。
私には字が綺麗だというたった一つの特技を神様が与えてくれたようである。

8歳から稽古を始め、20歳で師範免許を取得したが、私の師匠は私が25歳の時に亡くなってしまった。

書道で大成するためには、先ずは所属する会派を決めなければならない。

師範免許を取得したからにはいずれは書道で食べていきたいという気持ちもあったから、私は師匠の所属する会に所属する予定で当時は師匠に付いて、所属する会の会合という名の飲み会などにも参加していた。

周りは気難しそうなじいさんばかりで、最年少の小娘だった私には何が何やらであったが、ニコニコお酌などをし、リクエストされればラブ・イズ・オーバーも歌って差し上げたりしていたのである。

その間に結婚、妊娠もあり、一旦書道を休憩しなければならなくなった。

あとひと月ほどで長女ドカ弁が産まれるという時になって、師匠が他界してしまった。胃がんだった。

子どもの頃からずっと稽古をつけてくれ、私を可愛がってくれた師匠の死は衝撃であった。

私はこれから誰を頼ったらいいのだ。

なんでも相談にのってくれ、分からないことがあればすぐに教えてくれる師を失った書道家の卵は行き場を無くしてしまった。

そこからは子育てをしながら、管理事務所で働きながらと、ながらの合間の書道しかできなくなってしまった。

独学しか道が無くなったわけである。

師匠は毎日書道展で受賞するような力も才能もあった素晴らしい書道家だったが、毎日、読売などの大きな書道展は会派ごとに後ろ盾があり、どこにも所属できていないジプシー書道家の出る幕はない。

ジプシー書道家として、誰にも負けない素晴らしい傑作を書いて偉業を成し遂げようという気力も根性もなく、ただ一人で書き、依頼があればお金をいただいて書す。そんな中途半端な書道家は私が望む姿ではなかったが、ある種出来レースが暗黙の了解である狭き門を前に、挑むだけの勇気がなかったのである。

しかし転機は訪れた。
note.muのサービスが開始されたことをきっかけに、普段やっている仕事の延長として書道を販売したりしているうちに、海外のネットショップまで始めるきっかけになる出会いがあり、本格的に筆を持ち、猛烈に努力を始めた。

そして、あれだけ逃げていた書道展への欲が出てきたのだ。

絶対に諦めたくない。何としても賞を受賞したいのだという強い気持ちがムクムクと湧き出してきたのである。

今は毎日筆を持ち、部屋中を半紙で埋めつくしながら作品を作っている。

やらずに逃げるのは何とも悔しいじゃないか!

いつ、どこで、何がきっかけでチャンスの神様が味方してくださるかは誰にもわからない。

一度きりの人生、楽しみながら、苦しみながらも挑戦する気持ちだけは忘れたくはない。

ジプシー書道家の必死のパッチの挑戦ははじまったばかりなのだ。

#エッセイ
#cakesコンテスト





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