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幽体離脱を夢見る

私は
「自分の身体に自分の魂が存在している」
ということから逃げ出したいと思っている。

何年も前からどうしても諦めがつかず、
「推し」そのものになりたいと、
幽体離脱を夢見ているのだ。
推しの体に入り、
もう私自身をやめてしまいたいからである。

初めにそれを感じたのは、
14歳の引きこもり時代、
暗闇の中でゲーム実況を見ているときだった。
ジェイソンとして
次々に若者を殺していくホラーゲーム。 

暗闇の中で、
私の視界にはゲーム画面しか映らず、
私は私であることを忘れていた。
配信者の操作するジェイソンに、
私自身が追いかけられているのだと思い込み、
「このまま死にたい」
「このまま殺してくれ」
と考えていた。 

暗い夜に森を走って逃げている。

冷や汗をかきながら呼吸が浅くなる。

もう死ぬ。

これで死ぬ!

しかしふと気がつくと、
大阪堺市の実家、
ゴミ屋敷と化した自室の押し入れの中にいる。

こっちが現実だった。


「のめり込む」という範疇を
少し越えてしまったような、
自我を失う感覚に私は取り憑かれていた。

ボーッと1点を見つめ、
少しずつ力が抜けていく。

体と体外との境目は、
いちいち見なければわからない。

体を少しも動かさないように力を全て抜き、
そして目を閉じたとき、

どこからが自分の体で、
この世のどこにどんな形で存在しているのか。
それがわかるだろうか。

そのまま目を開く。
どれが自分だろうか。
これは何の感覚だろうか。


そんな気持ちで推しの動画を観るのである。
ジェイソンに追いかけられたあの日のように、推しの世界は私の世界になる。
あの、輝かしくて苦しい人生を歩んでいる
と思い込む。

私は、
置いてけぼりにされた私の体が
力を抜いて動かせないまま
そのまま気付かずに
死んでしまって構わないと思っている。

私が擦り切れるほど読み込んだ小説、
『Kの昇天』はそんな話だ。
乗り移るかのように
自分の影を見つめ続けたKが、
そのまま海へ落ちて命を落としてしまう。
だが、これは不幸な話ではない。
Kが死んだのは
完全な乗り移りに成功したからで、
それは彼の望みだった。

「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」
喬はそんなことを思った。

梶井基次郎『ある心の風景』より

これは『Kの昇天』と同作者の
別の作品からの引用だ。

私は彼の作品にとても救われた。
誰にも話せなかったこの感覚を知っていたのは、今のところ彼だけだ。

彼の没後90年。
私は未だ、
これが現実にならないかと夢想している。

頭に過る人もいるであろうから触れておくと、存在する病名として「離人症」というのがある。多重人格(解離性同一性障害)が有名だが、
いわゆる解離性障害の1種である。
病状として、
自分自身に対して現実感がなくなり、
奇妙な感覚に襲われる、
などとネットに記載されていたが
どうだろうか。
今更考えてももうどうしようもなく、
どうでもいい論点か。

現状、
輝きのない、静かな、
地に足の着いた日々が続き、
それに明確な終わりはない。
地味で平凡な、日常会話の愛想笑い。
延々と真っ直ぐに伸びた社会の道は、
広大に見えて身動きが取れない。

爽やかな大草原の中に置かれた、
狭苦しい電話ボックスに
たったひとり
閉じ込められている様な気分である。



私は今日も電話ボックスの中から、
仲間たちと共に
草原を駆け回る推しを見つめている。

見つめ続けて見つめ続けて、
そのうち私も同じように草原を駆け回る。

走っては転び、泣き喚く。
しゃがみこんで虫を見つめる。
突然に思い切り叫ぶ。
気持ちよさそうにごろんと寝転ぶ。

私も

夕焼けが赤く染めていく。
秋の匂いがする。
白い歯が光る。
彼は笑っている。
とても素敵でとても眩しい。
笑い声は高らかだ。

私も

彼のさらさらとした肌に、冷えた風が当たる。余計にさらさらとする。

陽は沈む。

空は青い紫へと変わる。

彼は走る。

スピードをあげていく。

どんどんと進む。


私の視線は届かなくなる。

彼のことが見えなくなる。


日の沈んだ真っ暗な草原の中
ぽつんと存在する電話ボックスには
私の死体がひとつ入っている


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