うぬぼれ配信映画夜話 第8回 岩井俊二『ラスト・レター』における風景とラストについて

はじめに



 評価は様々なれど、岩井俊二が90年代の日本映画を代表する映像作家であり、それ以降の日本映画を方向づけた作家だといえます。特にアニメーションへの影響が色濃く、新海誠や京都アニメーションといった作品の映像表現をはじめとして彼のスタイルを踏まえた作品群が、2000年代の主流だったことは確かです。
 ですが、そのようなアニメーションの演出法を並べた際、岩井俊二の作品から受け取る印象はまた違ったもののように見えます。殊、風景描写に関しては新海のそれとは明らかに手触りが異なっている。このことの意味について、先行論を整理しながら、今回考えてみたいと思います。
 また、最新作である『ラスト・レター』(2020)と『チィファの手紙』(2020)は、別の国、別のキャストで同じ物語を映画化した作品となっています。また、本作が過去の代表作である『ラブレター』(1995)を強く反復していくことになっていく。この度重なる語り直しの意味についても演出に結びつけて考えていけたらなと。岩井俊二は語り尽くされた作家だとは思うのですが、ちょっと批評について思うところがあり、今一度、作中の登場人物に倣い、たどたどしく同じことを繰り返し語り直してみようかと考えた次第です。



岩井俊二の影響と変化


 逆光を伴った強い印象を焼き付ける人工的な画面作り、デジタル黎明期に手ぶれなどを意識に取り入れた撮影、MTVやアニメーションに近い変則的なカット割…。それらを組み合わせることで、若者が経験した一瞬を鮮烈なイメージとして切り取って見せた偉大なるナルシズム(自意識)の作家。テレビドラマ出身であり、既存のフィルムや劇映画の文法にとらわれない在り方から批判されることも多かった監督ではありますが、間違いなく日本の90年代を代表する映像作家であり、そのスタイルは多くのフォロアーを生むことになります。
 その最たる存在が、新海誠でしょう。岩井俊二の物語や映像表象を踏まえつつ、それをアニメーションの枠組みから先鋭化させていくことで、加藤幹朗が絶賛した鮮やかな情景を軸に自意識を描き出すスタイルは、日本のアニメーションを規定づけた作品でした。同時に、京都アニメーションもまた山田尚子を中心に、主観性を軸にした表現を突き詰めていくことになります。
 そういった影響史は、『打ち上げ花火 横から見るか下から見るか』(1995)のリメイクにも現れています。ですが、近年の岩井俊二自体はそのようなスタイルから距離を置いている節がある。
 その点については、いくつか指摘がなされています。例えば、宮崎大祐は盟友だったカメラマン、篠田大介の死を契機に、岩井俊二が今までの人称的なスタイルを捨てて、ドローンをはじめとした、無人称のカメラを作品の軸にしていることに注目しています。

篠田が撮影していた以前/以後で岩井の作風はあきらかに変化している。一九九四年のデビュー作『undo』から二〇〇四年の『花とアリス』までつづいた岩井と篠田の協働は、岩井が発見したみずみずしくゆれうごく被写体たちに篠田の手ぶれをともなう手持ちカメラが迫り、彼女彼らの〈永続しない永遠〉を画面に定着させるというところに賭金があった。
(中略)
しかし、二〇〇四年に篠田が亡くなると、岩井は監督としてしばしの沈黙期に入る。そして震災をはさみ八年の月日が流れ、満を持しての復帰作『ヴァンパイア』でカメラで握ったのは岩井自身であった。この、篠田以外は自分の映画は撮れないのだという宣言にも見える決断から岩井は積極的にステディ・カムによる撮影を導入するようになる。ステディ・カム撮影は篠田の得意とした古典的移動撮影や手持ち撮影と異なり「揺れ=ブレ」を徹底的に排し、観客に「無人称」のような、抽象的な視座を提供する。つまり岩井はそれまで篠田が岩井映画にもたらしていた、思春期の不安定さや即物性をすくい上げ乱反射させる、粗く、おぼつかないまなざしを断念し、誰のものでもない透明なまなざしで世界をとらえることを選んだともいえる。その後岩井の撮影は篠田の愛弟子である神戸千木が引き継ぐことになるが、ステディ・カムやドローンを多用するこの無人称スタイルは今日までつづいている。それはまるで揺さぶり迫らずともこの世は既にノイズと混沌に充ち溢れているのだから、映画はただそれを記録すればよいのだとでも言っているようである。
              

宮崎大祐「誰のものでもないまなざし」
(注1)


  この演出スタイルの変質は、岩井俊二の現在を考える上で極めて重要な指摘です。事実、そういったカメラは『ラストレター』の冒頭から現れます。美咲の葬式が為された後、骨壷を抱く娘たちの姿をスローモーションで印象づけ、彼女たちが乗った車をドローンによるだろう、俯瞰ショットで撮っていく。この風景は、新海誠の情景とは別の、突き放すような厳しさを湛えています。ただ、この風景を「非人称」と名付けるべきなのかについては議論が必要な気もします。もう少し、映画の諸要素について見ていきましょう。


ラスト・レターの物語

本編は時間軸が錯綜しており、物語をカットの順番通りに考えると少し状況が見えにくいところがあります。ですので、ひとまず時系列で出来事をまとめて、前半のシークエンスについてあたらめて考えてみようと思います。

一、過去=親世代の青春時代
1、乙坂鏡史郎、遠野姉妹と出会う。

2、乙坂鏡史郎が妹の裕里を介して姉の美咲に手紙を送る。

3、妹の裕里が姉に手紙を渡さずに代筆、バレた際に鏡史郎に告白して振られる。

4、姉の美咲が手紙のことを知り、卒業の答辞を一緒に書くことを提案する。

5、どこかのタイミングで鏡史郎と美咲が付き合い、別れる。鏡史郎は小説「美咲」を出版して小説家になる。

二、現在=子供世代の苦悩
6、美咲は阿藤洋一と駆け落ちのような形で結婚、二人の子供を産む。

7、阿藤は、DVなどをしたのち、失踪する。

8、美咲は精神を病み、自殺

9、映画の冒頭へ 葬式で同窓会の話が出てくる。美咲として裕里が出席したところを乙坂と再会、メールでのやり取りをする。

10、裕里の夫がメールを見て携帯を破壊。裕里は美咲として、乙坂に手紙を送り、やり取りをはじめる。

11、実家の住所に届いた手紙が、美咲の娘である鮎美に読まれ、返信を書く。

12、裕里と乙坂が再び出会い、乙坂は美咲の自殺を知る。

 冒頭部、現在パートから物語が語られるために少し見えにくいですが、裕里と乙坂の両者は、過去のやりとりを意識的に反復しています。12で裕里と再会した時に、鏡一郎は「最初から分かっていた」と語っていますし、そもそも前半部でのやりとりは、最初に裕里が美咲の死を伝えていれば起こっていない出来事なのです。『チィファの手紙』という題が示すように、手紙の主体は妹にあり、妹の手によって過去は復元されていくことになる。

 なぜ、そのような行為をしていくのでしょう。現実の死を露呈させる前に、迂回して過去を再演していくやり取りは、どこか演劇的な装いがあります。この手紙のやり取りについて渡邊大介氏はジャック・デリダの「代補の論理」を用いて説明しています。

文字は本来、記憶を埋め合わせるための補足物として用いられる。ところが、それはしばしば書き記すうちに記憶に取って代わり、むしろその忘却を促してしまう(忘れないようにすると、忘れてしまう)。すなわち、何らかの本体や起源にその外部から(あるいは事後的に)埋め合わせるために現れた偶然的な補足物(代理物)が、つねにすでにその本体や起源の内奥に侵入し、それを汚染し取って変わってしまうというダブルバインド的な事態、それが代補の論理である。なるほど、この物語の登場人物たちの紡ぐコミュニケーション(メッセージ)は、その意味で互いに何らかの代補として機能している。高校時代の鏡史郎/チャンの姉に対する思いをしたためたラブレターを届けるはずの妹の「代行業」は、同時に、むしろ彼女自身の思いを逆に彼に濃密に伝えることになる。また、亡くなった姉に代わって鏡史郎/チャンに手紙を送り続ける妹は、そのことで彼に姉の死を伝えることにもなるだろう。そこには確かに、代補の論理が満ちみちている。そして、それはやはり手紙=エクリチュールというメディアの物質性がもたらすコミュニケーションのズレから必然的に派生したものだ。

渡邉大輔「「代行業者」たちの物語 ー『チィファの手紙』『ラストレター』に見る代補の論理」
(注2)

メディアによる表象(指示内容)は表象されるもの自体とは常にズレを抱えており、メディア自体の特性や発信者によって付与されたメッセージが本来伝わっていくものを置き換えてしまう。メッセージが発信者が意図しない受け手によって物事は転調していく郵便性も相まって、手紙のやり取りは多くの人を巻き込んでいくことになり、結果として「現実の死」から別の意味が滑り落ちていく。というより、そうなる儀式として、過去を反復していく訳です。
 『love letter』のラストでは、プルースト『失われた時を求めて』を登場します。そのこと端的に示すように、岩井作品では過去を現在形で想起させるものとして手紙は機能しています。同時にそのような演劇的=儀式的な振る舞いの中で、自らの在り方も別の意味を帯びてくる。『ラスト・レター』で展開されるのは、そういった過去の現在化だといえるでしょう。
 そして、重要なのは、私たちの前に再びドローンによる俯瞰ショットが提示されるのは、まさにそのような語りの最中なのです。

二度目の風景について

 それは裕里が鏡史郎に手紙を送るシークエンスで登場します。自分への当てつけで、夫が犬を二匹飼い、散歩が大変だと書かれた手紙が、松嶋奈々子のナレーションによって表象されていく訳ですが、そこで彼女が散歩していく様がドローンとズームを交えた俯瞰ショットによって描かれます。ここまでだと先の俯瞰と同じく個人の思うようにならない世界そのものを表象しているように思えます。ですが、その超俯瞰は、彼女が電話する様子を捉えるミドルショットに接続されているのです。彼女自身の実在と俯瞰が同じズームによって有機的に接続され、ナレーションが被さることで、彼女の認識の一部に取り込まれている。手紙という書く行為は、同時に主観が俯瞰風景を捉える機能を持っており、ここでの俯瞰ショットは「無人称」とは言えないものになっているのです。本作における風景の意味、あるいは主観の在り方を考える上で、この変化は重要でしょう。だからこそ、手紙のやり取りは小説という、一人の男が紡いだ物語の問題へと広がってきます。

一人称の否定と住野よるの影響について

※月川翔『きみの膵臓を食べたい』(2017)と狩山俊輔『青くて痛くて脆い』(2020)のネタバレ有り

 鏡史郎は自分と美咲の関係を踏まえて小説「美咲」を書き、それを出版したことで小説家となっていました。以降は泣かず飛ばずらしく、小説教室の仕事をしていく傍ら、自らの仕事への疑念を抱えて生きています。そんな中裕里から美咲の死を聞いた彼は、その元凶たる元夫に会いにいく。そこで問いつめようとした鏡史郎は元夫から「おまえの人生と美咲は何も関係がない」「次はお前の一人称で語るな」と逆に自らの主観を否定されることになる。彼の美咲に対する想い=男性性は一度外部に否定されることになるのです。

 鏡史郎を中心とした後半の物語展開は、月川翔『きみの膵臓を食べたい』(2017)を彷彿とさせます。中年男性が死んだ恋人のことを回想していくという構造も似ていますし、時間を超越して届く手紙がキーパーツになっていることも同じです。しかも、語り手である中年男性が恋人の発言から職業を選択し、その在り方に迷いを抱いていることも共通している。同時に、唐突に外部が訪れることで、君とぼくで紡がれた物語自体が否定される構成になっていることに特質があるように思われます。

 『きみの膵臓をたべたい』では、外部は通り魔として召還されます。病気で死に至るまでの二人の計画が中断されることで、両者の関係性は世界それ自体が持つ偶有性と残酷さによって否定される、というわけです。
 住野よるはそういった展開をさらに一歩進めて『青くて痛くて脆い』では、そのような「二人の世界」が男性性の身勝手な欲望に転嫁されうる様を描いていました。ここ数年、セカイ系やノスタルジーとしての物語の在り方自体を批評的に捉えつつ、その上でアニメーションと援用しながら、主観を持つ個人と客観世界との関係性が描写していく流れが邦画にはありました。狩山俊輔『青くて痛くて脆い』(2020)ではアートアニメーションで「二人の世界」が象徴的に描かれていましたし、ほかにも大森立嗣『星の子』(2020)や沖田修一『おらおらでひとりいぐも』(2020)などが挙げられます。


当然、自身でアニメーションを監督し、庵野秀明と盟友といってもいい関係にある岩井俊二もそういった流れを踏まえていたはずです。だからこそ、そのような文脈と軌を一とするように、本作では一度主観が否定されることになる。風景描写と重なるように、そこでメランコリックな男性性として主観を否定して見せるのです。どことなく自己言及的な「ぼく」として鏡史郎が設定され、その幼年期を『君の名は。』で声優をつとめた神木竜之介が演じていることで、本作は過去の岩井俊二とそのフォロアーの世界観への批評となっているわけです。


 ただし注意したいのは、本作の主観に対するアプローチは、『青くて痛くて脆い』で為された強い否定とは趣が異なっていることでしょう。『青くて痛くて脆い』では、前半はフィルターを用いた人工的な画面を中心にし、それが後半には全部取り払われます。そのような転調からも明らかなように、自らが構築した世界観が否定され崩壊した後でなければ真に関係を築くことはできないことが画面に暗喩されていました。ですが、『ラスト・レター』は、一人称で書かれた主観が、第三者にわたることによって別の意味を帯びる様が描かれています。本来美咲に送ったはずの手紙=小説が、娘たちにとってある種の救いとして再解釈され、結果として美咲の死とは別のありえた可能性を提示する。虚構=読まれる客体として主観に新たな意味が付与されることで、主体自体もまた自らの世界に価値を見出し救われる。『君の膵臓を食べたい』における自己再生を、本来関係が結ばれるはずのなかった他者によって為そうとする岩井俊二は、個の主観や独自性を相対化しながら、同時に尊重し、開かれたものとして捉え直そうとしている。

 結城秀勇は、本作のこのような在り方から岩井俊二が「公共の場」を構築しようとしたのではないかと指摘しています。

このプライベートとパブリックがほぼ同一化する地点こそが、もしかすると『チィファの手紙』『ラストレター』というふたつのかたちをとって繰り返し映画化される必要性そのものなのかもしれない。単なる抽象化ではなく、世界のどこでもおきうるという一般化でもなく、世界と個人とのあいだに「ほとんど同じことが繰り返される」ことが可能な公共の場を見つけること。
そして、その公共の場が決して「国家」のようなスケールではあってはならないことこそが、『チィファの手紙』『ラストレター』という二本の映画が存在しなければならない理由でもある。

結城秀勇「公にされた私信『ラストレター』」(
注3)

ここまで端的に本作の在り方を示した指摘はないという位完璧な指摘であり、自分が話す内容はここから一歩も出ていません。ですが、一言だけ付け加えることがあるとすれば、本作はだからこそ、結城秀勇氏が語るような「全く同じ話」にはなっていない。ラストにおいて、両作品は対照的な終わり方を迎えることになります。

『ラスト・レター』の奇妙なラストについて

渡邉大輔氏が論考の終わりで、言及するのが『チィファの手紙』のラストであることが象徴的ですが、『ラスト・レター』は奇妙な終わり方で閉じられます。母の答辞を鮎美がたどたどしくも読み上げていく中で、答辞を読んだときの美咲がイメージとして想起される。ここまでは予想されるべきラストです。ですが、そこから過去に母の葬式が行われた前後、鮎美が颯香と共に歩いていた河原へと戻るのです。カメラは俯瞰から彼女に近づいていくと、カメラは彼女に寄り、その横顔を映します。彼女が風を受けて後ろを振り返る、その瞬間で映画は閉じられている。

 このシーン、初見では解釈が全く出てこなかったことを記憶しています。何故、母が死んだ直後の過去に戻るのか。ここで彼女の横顔を映す意味は何なのか。ですが、先の議論を踏まえて、『チィファの手紙』のラストを改めて見比べた時に、少し糸口が見えた気がしたのです。対になっているのだ、と。

 『チィファの手紙』でも、『ラスト・レター』と同様に答辞は朗読されます。ですが、それは各の登場人物たちの復唱であり、しかもその媒体は「小説」というパブリックに流布されたものを介してなのです。各登場人物がリレーのように小説の一節を読み上げる中、書き手であったチャンが中国の都市を見据えています。視点ショット、『ラスト・レター』では禁欲的に用いられなかった主観視点によって都市が現出し、登場人物が共有するパブリックとして答辞は表象される。そこには、未来に対する気持ちの力強さが感じられます。

 この『チィファの手紙』に比して、遺書として答辞を読み上げる鮎美の声はたどたどしく、今にも立ち消えてしまいそうな弱さを湛えています。ティム・バートン『ビッグ・フィッシュ』(2004)のラストを彷彿とするような、親世代のようには未来を信じられない不完全さがそこに込められている。だからこそ、回想されるのは、自分を突き放した世界そのものと風が吹いたという不確かな感触なのではないかと思うのです。『ラスト・レター』は極めて私的な領域に刻まれた言葉として、遺書を持ち出している。

 ラストの時制は過去であり、風の感触は間は彼女しか知り得ないものである以上、想起だといえます。重要なのは、この想起に、ドローン撮影による無人称の俯瞰が持ち込まれていることです。自らが知覚しきれない何かに思いをはせる。主観ではない、別の視点を取り込むことによって自らの立ち位置を認識する。そのような「客観」とも「主観」ともいえない在り方を本作のラストは象徴しているのではないでしょうか。そして、そういった彼女だけの俯瞰は、『チィファの手紙』における共有された主観ショットと対となっている。どちらも演出法と描かれているものがズレていることで、主観と客観とが入り混じったものとなりながら、二つの在り方が公的であり私的でもある、或いは、そのどちらとも言い切れない新たな視点を、別々に描き出しているのです。

「打ち上げ花火」の下と横と…

 以上見てきたように、岩井俊二作品における「風景」の変容は、私的な内面をどう共有していくのか、或いは個人個人がどう連帯するのか、といった主題の中で、変化していったといえます。その中で、同じプロットを別々の視点から描き出したのが、『ラスト・レター』と『チィファの手紙』だったといえるでしょう。
 なぜ、このような方式をとったのか。自分の推測ですが、アニメと実写による双方向的な映画化企画やリメイクの在り方が発想の元にあったのではないでしょうか。
 近年の日本映画では、実写とアニメ、双方から映像化された作品は一定数存在します。先に挙げた『君の膵臓を食べたい』もそうでしたし、『思い、思われ、ふり、ふられ』(2020)も同時期に製作と公開が為されています。また、自作の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(1995)もアニメでリメイクされています。自身もアニメーションで『花とアリス』を再作した岩井にとって、同じ話を別の視点やスタイルで描き直すことの意義は強い希求があったのではないか。
 元々、岩井の社会への視点は独特で、それは『friends after 3.11 劇場版』(2012)にも表れていました。3.11という大文字の悲劇を、あくまで友人関係の中での対話という私的領域から捉えようとしていく本作もまた、様々な立場の主張や話が点描されていきます。本来一義的に捉えるべきでないものを、複数の視点から語っていく在り方でなければ、多様でそれぞれ違う内面を持つ個人が点在し関係している社会を描くことはできないのではないか。そういった意識が、二つの対となったラストに見える気がしたのです。『ラスト・レター』だけでは、茫漠とした未来の不確かさと世界の厳しさに消えてしまうし、『チィファの手紙』だけでは、個人が抱えた孤独や世界観が喪われてしまう。二つの作品は、誰もが理解しえない個人の主観を、世界へと接続していく新しい在り方への模索のように、自分には思えるのです。


終わりに

 いかがでしたでしょうか。鮎美がそうであったように、今まで語られたことや指摘されたことをたどたどしくなぞっていく形で岩井俊二の在り方について考えてみました。それゆえに、書こうという気が中々起きなかったものでもあります。ただ、現在の批評は、ここからスタートすべきなのではないか、という思いがあり、今まで長々と書いた次第です。

 昨年度、『群像』と『すばる』双方で批評の賞が終了しました。自分は『すばるクリティーク』に映画評(堤幸彦『ファースト・ラヴ』と黒沢清『スパイの妻』を中心とした論考です。どっかで発表するので、お楽しみに!)を送っていて、色々誤字が酷かったのでまぁ受賞はないな、という感じだったのでまぁいいとして、(『アニクリ』とかに再投稿する下り辺りでブラッシュアップされて完成形になるという。いや校正はしているのですけどねぇ…)選考委員の総評を聞いていて「それは違うのではないか」と思ってしまったのですよね。
 経緯が経緯だけに雰囲気がお通夜なのはまぁ仕方ないとして、「既存の枠組み」に対する否定的な意見が繰り返し出てきて、全てがやり尽くされてしまったという絶望がそこに漂っていた。推測なのですが、ある種研究で使われた枠組みやコードを用いたものや先行論が多い対象を捉えたものをことごとくありきたりと一次審査で落としたのではないでしょうか。だからこそ、最終選考に残ったものの批評対象が、先行論が少ないものになっていたのだと思います。ですが、自分にはそれは、批評家のエゴイズムが嵌った袋小路にしか見えなかったのです。
 昔にどこかで書きましたが、現在は作品自体に現代思想が意識的に用いられる時代であり、人口に膾炙した作品については一斉に批評や分析がなされ公開されていく世界でもあります。そこで、誰もが語っていない対象を選ぼうとすれば、語る対象は大きく狭まります。同時に、分析のツールとしてのコードはあらかた出そろっている。それらを使わないようにとしていけば、それはもはや分析にもならない。語られてこなかった評伝が受賞作となるのも当然の帰結でしょうが、納得など出来る訳がない。
 そういった鬱屈を今年になって持て余していて、Twitterなどの言及もほぼ休止状態の中考えた中、自分が得た結論として、批評は批評それ自体の記銘性を捨てる必要があるように思えるのです。私たちは何かを対象に語ることは、あくまで二次的な創作物に過ぎないし、そこで語る内容もまた、誰かが語ったことの反復か無人の荒野に向かう行為にすぎない。そういった地点から、それでも作品について語り直していくことで、作品の価値を捉え直していくことに意味があるのではないか。幽霊であり残像である、無人称の批評…。そういったものを少しずつ書きとどめていこうと思うのです。
 未熟さを自覚しつつも、書き続けていこうという宣言を、ここでしておきたいと思います。また、いつか。

(注1)~(注3)夏目深雪編『岩井俊二: 『Love Letter』から『ラストレター』、そして『チィファの手紙』へ』所収

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?