うぬぼれ配信映画夜話 第1回 デビット・フィンチャー『Mank/マンク』

さてnoteに場を移して記事を書いてみようと思いました。皆様はじめまして、unuboredaと申します。普段は「いびつなロケット13号」というサイトで映画評を書いていたわけですが、

①単純にヒット数が少ないので、ポータルサイト変えてヒット数増えないかなと淡い希望を抱いている。
②ブログ内で閉じた映画評ではなくて、ツイッターのタイムラインや他の言説と連動するようなオープンな批評の在り方というものを模索してみたい。(ツイッターのTLを浪費することなく、蓄積としてある程度形に残していきたい。)
③文体や画像の使い方を含めて、どうせ書くなら新しいことを模索したい。④有料記事を作りたい。

といった諸々を考えまして、こちらに記事を書いていこうかと。配信サイトで観られる作品で、映画史に記録されている訳ではないけど、後々を考えると重要な旧作を発掘したり、新作について語ったりしようかなと考えて「うぬぼれ配信映画夜話」としました。月1位で更新できたらいいなぁ、と考えているので、宜しくお願いいたします。

デビット・フィンチャー『Mank/マンク』について

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サイレント映画を疑似的に再現した『Mank/マンク』の予告編を観た時、何か狂気に近い執着を感じた人は少なくないはずだ。実際自分もこの予告にやられた口で、年末の楽しみとして座して観ようと友人に話しまくっていた記憶がある。



…だが、実際に観終わった後残ったのは、奇妙な違和感だったことをここに告白したい。スタイルと照明への偏執的な拘りを味わいながらも、心のどこかで語られる物語と古典的スタイルが齟齬を起こしているように感じたのだ。

「想起」とならない回想 ー 同時代作品との比較から

 オーソン・ウェルズ『市民ケーン』(1941)の共同脚本家としてクレジットされたハーマン・J・マンキーウィッツの人生の曲折を描く本作だが、その時代背景についてはもう他で語られ尽くされたものであるからここでは問題にしない。当然、劇中でも『市民ケーン』がそうだったように時間軸の操作が為されている。マンクがハリウッドで新聞王ハーストの近くにいた頃の「過去」と、『市民ケーン』の脚本を孤独に書いていく「現在」とを交互に描いていく。問題としたいのは、この時間軸の平行と古典的なスタイルの齟齬である。同時代的な作品と比較した際に、両者の組み合わせによる手触りが何か奇妙な感じを残すのだ。

 同様の物語構造を採っているグレタ・ガーウィグ『ストーリー・オブ・マイライフ 私の若草物語』(2019)と比較するとわかりやすい。『ストーリー・オブ・マイライフ』では、現在と連関したエピソードとして過去が連続性をもって語られていく。そのため、観客は、画面で展開されていく「過去」が、登場人物たちが現在的な意味をもって思い起こす「想起」として受け取り、感情移入していく。

 近年の過去と現在を語る映画の多くは、過去を主観的な色合いを帯びたものとして記憶に接続させ、それによって感情や情緒に訴える原動力としている。実際去年の日本映画を見渡しても、岩井俊二『ラストレター』(2019)や沖田修一『おらおらでひとりいぐも』(2019)、大庭功睦『滑走路』(2020)と主観として過去を描写していく映画は列挙にいとまがない。土井裕泰『罪の声』(2020)の原菜乃華が最後に映るシークエンスが極めて感動的なのも、このようなナラティブが働いているからだといえる。

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 だが、『Mank/マンク』はそうはなっていない。古典的なディゾルブによる場面転換はそういった「現在」と「過去」の接続を阻害し、両者を別個の空間や時間として認識させていく。しかも、回想の幕開けに使われるのは、タイプライターのト書きという、およそ主観とはほど遠い偽りであることの誇示なのだ。だから、この映画はフェイクニュースが跋扈する現代への批判ととして単純に了解することもできない。

 現代のトレンドから距離を置いた『Mank/マンク』の回想は、どこか他人行儀な空虚さを抱えている。虚構性を帯びていると言ってもいいかもしれない。

年末ピクさんとヒサゴさんが議論していたように、やたらヤツレて老人のように見えるゲイリー・オールドマンの風貌をはじめとして、時間の取り扱いが奇妙であり、真実味を持たせようとしてない印象さえ与える。風貌については、同じくハリウッドの脚本家を描いたジェイ・ローチ『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(2016)と比較するとわかりやすい。実際海外の記事のいくつかで使われている写真も似ているどころか、対比のように見受けられる。

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↑『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』、傑作だぞ!(*'ω'*)

父が書いた脚本を映画化するという、フィンチャーの思い入れが強い作品であるはずの本作が、どうしてこのような手触りになったのか。それを紐解くために、トッド・フィリップス『ジョーカー』(2019)に対するフィンチャーの批判と、彼の奇妙な「完璧主義」について考えてみたい。

フィンチャーによる『ジョーカー』批判と思想


 本作の前にデビット・フィンチャーは、『ジョーカー』について、スコセッシの影響を踏まえつつ思いっきり批判している。『セブン』(1995)や『ファイトクラブ』(1999)を撮ったフィンチャーが何故?と一見奇妙な感覚に陥るのだが、本作を撮るまでの道筋を考えると、なんとはなしに分かるような気がする。
 フィンチャーが古典映画に対するある種の信仰を持っていることはよく知られている。たとえば、藤井仁子が『ゴーン・ガール』はスクリューボールコメディの変奏だと指摘しているように、フィンチャーはある時期からヒッチコック的な主題や古典主義を、現代的な趣向を絡めて蘇らせることに腐心してきた作家である。『マインド・ハンター』(2017)の手触りも過去の映画を想起するものだったが、そのようなスタイル自体に「普遍」や「真実」への強い希求があるように思われるし、この主題は物語にも強い影を落としている。
 故に『ジョーカー』と彼の作品では、狂気の質が異なっている。フィンチャーが描く狂気は、ある種の「普遍」に到達せんとした人々が陥っていくものだ。『ゾディアック』(2007)の新聞記者や『マインドハンター』の刑事達、或いは『セブン』の犯人も「普遍」へと到達しようとし、それ故に自分の人生を歪め、深淵を見てしまった人々として描写される。何か理想的な実在を求めながら、そうはならない人間の不完全さにフィンチャーは執着しているのだ。対して、『ジョーカー』には「普遍」に対する憧憬、スコセッシも描いていた「夢」が消え失せてしまっている。それは「夢」は実在しないという現在における幻滅の現れだといえるが、フィンチャーにとってその絶望は「軟弱なただの病」と見えたことは想像に堅くない。彼は「映画」を、美学的な観点から普遍と信じる作家なのだから。


 とすれば、『マンク』の古典的ハリウッドに対する再現もまた普遍への希求であると考えられ、現在的な想起から距離を置く本作のスタイルについても合点がいくように思われる。その希求は物語にも反映されている。

 ラスト、ハーストとの決別とクレジットを巡るウェルズとの対峙を同時に描いていくクライマックスで印象づけられるのは、マンク自身が過去と現在どちらでもそのスタンスを変えない、ぶれない存在だということだ。勿論、ウェルズにクレジットに載せろと主張する背景には、自分を舐めてかかったハーストに対する強い反逆の意識があるのは疑いようのないことだ。だが、その反逆が並列的に重なり合うことで、権力者に楯突き自己を貫こうとする皮肉屋としてのマンクの矜持は、時間に毒されない、普遍の個性として表出している。同時に、そこに在るべき父の姿を垣間見ることは可能だろう。

虚実の問題と彼の完璧主義について

だが、ここまでの思考ではもう一つ疑問が解決したことにはならない。タイプライターのト書きが示すように、フィンチャーは個の作品自体が虚である可能性をほのめかしているからだ。何故、普遍的な主題に虚実を絡めてしまうのか。そこについて考えるために、彼の奇妙な完璧主義について議論を重ねていく必要があるだろう。

 フィンチャーは完璧主義者だとよくいわれている。本作でもその一端として、選挙のシークエンスでテイクを100回以上重ねた、というエピソードが紹介されていた。


 だが、このような話を聞くたびに、極めて素朴な疑問が思い浮かぶ。というのも、当該の選挙のシークエンスを見たときに、100回以上テイクを重ねた超絶ショット、と呼べそうなものはどこだか、さっぱり分からないのだ。
 彼の映画を思い返したときに、たとえば黒沢清の『CURE』(1997)のラストのような、極めて鮮烈な印象を持ったショットがどれだけあっただろうか。自分は『マインド・ハンター』の大学で妻と会うシーン位で、後は流れるような物語叙述に身を任せている中で、よくも悪くもショットに気を取られたことはほとんど記憶にない。誤解がないように付記しておくが、これは決して下手と言っている訳ではなくて、本当に流れるように物語が進んでいき、ショットを意識させないまま映画が終わる印象があるのだ。だから、彼の映画を観るたびに、満足感と一抹の奇妙な感覚に陥ってしまう。だからこそ、そこに100ものテイクを重ねていると聞いて、本当に?という疑念を抱いたのだ。
 だが、先の普遍主義を踏まえると、フィンチャーが希求しているのは古典作品や老練な映画作家が到達している技巧を技巧とは思わせない境地だと考えられる。私はあまり映画史に詳しくないからフィンチャーが理想とする作家が誰とは思い浮かばないが、(フィンチャーは『ヒッチコック/トリュフォー』のインタビュアーの中で一番ヒッチコリアンだが、ショットの捉え方はヒッチコックとかけ離れている)例えばクリント・イーストウッド『運び屋』(2019)のような、水が流れていくかのような自然なショットのつらなりを理想としているのではないか。だからこそ、フィンチャーの映画においてショットが前景化されることはないのかもしれない。技巧を抜き、真を得るために何十ものカットを重ねていった結果、物語が前景化されていく。


 その在り方を夢想した当初は、映画作家としての意識の高さを勝手に想像して、嘆息した。だがよくよく考えると、そこに見られるのは、作品の登場人物のように狂気的な執念にかられているフィンチャーの不完全さのようにも見える。

不完全な完全としてのフィンチャーのスタイル

 イーストウッドは早撮りで有名な映画監督である。リンクを貼った記事で言及されているように、ワンテイクに拘ったスタイルで作品を量産していった。それを踏まえると本当に力を抜いて撮った結果が『運び屋』であったことは想像に難くない。それでも、あれだけ映画なのだ。

 一方で、フィンチャーは無の境地に至るためにただひたすら演者とスタッフにリテイクを強いていく。そのスタイルは「普遍」を求めながらも、フィンチャーが「普遍」に到達していないことの証左に他ならない。当然、フィンチャー自身もそのことを強く自覚しているはずだ。本作のどこかまがい物のように見える細やかな照明も、デビット・ロウリーやジェニファー・ケントのように画面サイズをスタンダードにしなかった選択も、「古典」を再現しようとしながらそこに到達しえない現代の映画作家の偏執をあえて表出させようとしているかのようだ。

 故に、本作は時間軸と物語叙述のレベルでは「普遍」を志向しながらも、細部によってニュース映画と同様の虚構性がほのめかされている。物語のラスト、人間の不完全さを示す言葉で閉じられたそれは、到達しえなかった父への餞であると同時に、たどり着けないことを自覚しながら普遍を追い求めてしまう自らの世代へのレクイエムなのだろう。


画像は映画.comから借用しております。

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