うぬぼれ配信映画夜話 第3回 三宅唱『呪怨 呪いの家』について② 呪いの在り方とオウム真理教の関係について

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 前回は作品分析の前段階として、先行論と高橋洋の作家性について書きました。今回はそれを踏まえつつ、作品分析に入りたいと思います。

呪いとは何なのか

 まずですが、本作の最大の特徴は呪いの効果範囲がどこからどこまでなのか、よく分からないという点にあります。 

 第1話のタレントとその恋人である深沢のエピソードこそ「呪いの家に足を踏み入れたがために呪い殺される」という呪怨らしいルールの跡が見てとれていましたが、その後の聖美のエピソードから「彼らが不幸になるのは呪いというよりも自業自得では」と思わせるような話になっていきます。どこまでが呪いでどこまでが人の悪意によるものなのか、はっきりしないのです。その後のエピソードはさらに不可解で、第4話の夫婦のように家に入らなかったにも関わらず呪われている人物が登場したかと思えば、主人公の心霊研究家や家の管理人のように家に踏み込んでいても特に何も起こらない人も出てくる。呪いのルールは曖昧で規則性が感じられないのです。
 また、呪いの所在を示す怪異の在り方も、各話ごとにてんでバラバラです。母の夢に死んだ哲也が実体としての質感を以て現れるのに対して、友人を彼岸へと誘う女子高生の幽霊は、ディスコという非現実的な空間において、暗がりに揺蕩う影として表象される。スクリーミング・マッド・ジョージの手による特殊造型も出てきたかと思えば、不気味な犯罪者の霊が直接的に襲いかかってくる場面も見受けられる。話が進んでいくにつれて呪いの表象が一つの像を結ぶどころか、拡散して分裂していくような印象をもたらしています。

呪いの起源と社会の抑圧

 Jホラーによくある展開として、恐怖の由来が何なのかを突き止めようとしていく起源探しがあります。登場人物たちが恐怖の原因を探ることで、その解決策を模索していく訳です。ミステリー調のこの展開は、恐怖の存在、日常や社会を脅かす亀裂を、理屈や理由をもって説明することでただの現象として捉え、秩序を取り戻すことを主眼としています。理由と原因が分かれば、呪いを解く方法も分かる、という訳です。ですが、この展開には問題がはらんでいます。というのも、恐怖=呪いが示唆するものは、社会の暗部だからです。
 恐怖映画における基礎的な論文であるロビン・ウッド「アメリカンホラー序説」では、ホラー映画の《怪物》は「抑圧/他者の二重の概念を具体的に劇化したもの」、社会が抑圧してきた存在や社会が抱えている矛盾が反映されているという指摘が為されています。(注1)人種(吸血鬼、狼男、魔女など)や科学技術など、その社会の人々が無意識に恐怖するものがそこに反映されているというのです。実際、別の異性に恋心を抱いたがために殺される伽椰子の恨みを軸にした『呪怨』が女性を抑圧する日本の男性社会を象徴していると、海外では言われています。剛雄が伽椰子を殺す原因が不倫への疑惑であることは、社会状況の変化により優位性が揺らいできた男性の女性に対する不安が反映されている、と。

https://www.amazon.co.jp/Japanese-Horror-Cinema-Traditions-World/dp/074861995X/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=Jay+McRoy&qid=1615636153&sr=8-2

 そう考えると、呪いを解くという行為は社会の秩序を元に戻すことで現実の問題をなかったことにする効果を持つことになります。同時に、呪いの原因が特定されれば、問題が具体的な例外として人々に関係ないものとして捉えられてしまうかもしれない。(注2)

雑多な幽霊表象

 だからこそ、近年のJホラーは秩序を崩そうと、呪いの存在を特定の何かに収束させないようにしている。『呪怨 呪いの家』のバラバラな恐怖表象はそのような多重性を持っているといえます。第6話に至る流れの中で、ある程度呪いの家で起きた事件の概要は知ることができます。家には監禁され、子どもを産まされた女性がいた。産まれたはずの子供は失踪し、女性は死体で発見された。その数年後、移り住んだ家族の子どもが神隠しにあった。そういった陰惨な事件の積み重ねから呪いの家が形成されたことが窺える。ですが、折り重なった呪いの起源が何かは不明瞭なのです。もしかしたら、呪いの元はもっと別のものにあるかもしれないという含みがラストに込められている。
 最終話において、霊能力者である哲也の母が遭遇する、黄土色をし、ぼろ布を着た女性の霊もまた、息子である哲也が見た白い服の女性の霊とはイメージや演出のされ方に大きなズレがあり、何かしこりが残るような印象をもたらしています。このように、雑多な恐怖現象が折り重なったまま閉じられる『呪怨 呪いの家』において、「呪い」は一つの理由や因果によって語ることができない不気味なものとして表象されている訳です。
 余談ですが、『呪怨』の元祖である清水崇は、『樹海村』(2021)でこの呪いの在り方を推し進めていて、『呪怨』以上の理不尽なものとして「コトリバコ」が登場したりします。(注3)

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 さて、このような一つの原因によって語られない呪いが、宮崎勤やオウム真理教といった日本の凶悪犯罪史と結びつけられていることこそが、本作を解く鍵だと私は考えています。凶悪犯罪自体が、そういった多角的な視点抜きに語ることができないものだからです。
 第4話の冒頭「M君」に主人公が呪いの家についての情報を聞くシークエンスで、Mは「オカルト系のオタクでは検討がつかない、事件・犯罪系もフォローしていないと」と語っています。「呪い」をつかむためには多角的な視点が必要だということは本作で明示されている訳です。(注4)そのような視点は、オウム真理教に対してカメラで追い続けながら、現状のマスコミの在り方に異を唱えてきた森達也のスタンスと重なるように思えるのです。

森達也という作家


 森達也は、テレビ業界とマスコミに対する不信感からテレビ業界を離れて一人でオウム真理教を追い続けたドキュメンタリー作家です。特にオウムの末端信者を記録し続けた『A』(1997)と『A2』(2001)が有名ですね。ホラー映画と関係ない作家のように見えますが、実をいうとホラー映画と接点が結構多い。というのも、「マスメディアが映し出した既存の物語に亀裂を生じさせ、虚実や現実認識を再認識させる」という営みは、デジタルビデオの粗い画像を前提に虚を描いていくホラーと親和性が高いからだといえます。事実、森達也のスタイルや思想は、ホラー映画の作り手にかなり意識されている。例えば、同じフジのドキュメンタリー部出身の長江俊和『放送禁止』シリーズは明らかに森の問題意識を踏襲したものでしょう。森達也自身も、三宅隆太のドラマシリーズ『デッドストック ー未知への挑戦』に招かれて1話撮っており、そこでもマスメディアにおける「真実」の曖昧さを語っています。森達也には『オカルト』というズバリの本もありますね。当然、高橋洋は森の作品や著作に接しているはずです。特に重要なのがオウムを総括した『A3』だといえます。

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鏡像としてのオウム


 森達也のオウム観を触れる前に、その前提となっている書籍について言及しておきたいと思います。大澤真幸の最高傑作『虚構の時代の果て』(1996 )です。

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 大澤真幸はセクハラ問題など多くの問題を抱えた存在ですし、内田樹と同じで一時期書きすぎた結果薄利多売な印象もありますが、彼の最も優れた批評が、若い人に勧めづらい時代性を纏っていることは不幸なことです。
 重要なのは、この批評が『電子メディア論』(1995)と姉妹編となっていることでしょう。大澤はメディアによって虚実が崩れた現代日本の産物としてオウム真理教を捉えています。オタク文化などを含めた日本における現実認識の虚構化を指摘しているので、今だと庵野秀明『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(2021)を考える際の副読本としてよいかもしれません。このメディアと社会が産んだ怪物としてオウムを考える視点を、森は『A3』(2010)で深掘りしています。
 『A3』では、地下鉄サリン事件はなぜ起こったのか、誰が指示を出したのかを考えるために、実行犯になる教団幹部や元信者、その他周囲の人々へのインタビューが紙面の中心です。その結果、どうも警察がいうような強固な支持系統はなかったのではないか、ということが分かってくる。
 森は地下鉄サリンが起こった原因について、麻原という教祖のトップダウンによるものでも、幹部達の暴走でもないと考えます。そして、両者の相互作用による結果だったのではないか、という結論にたどり着く。オウムの本質は、麻原本人にあるのではなく、信者や外縁に存在する警察やメディア、私たち一人一人に分散している。情報によって駆動した危機意識が相互に往還されることで増幅された結果が一連の事件だったというのです。
 麻原と弟子を「レセプター(受容体)」と「ニューロン」の関係と喩えた森は、オウムの構造と同様のものを、日本社会のメディアと視聴者が有していると捉え、私たちの排外性や不安もオウムの暴走に加担していたのではないかと推測しています。オウム真理教とは弟子の危機意識と不安、そして我々の恐怖によって暴走した「仮想の特異点」であった、と。


 連載初回、 僕は麻原について、以下のように綴っている。   
 巨大な質量は 巨大な引力で自らを封じ込め、 内側に限りなく陥没することでさらに質量を増大させ、 遂には時空までも捩じ曲げて、あらゆる情報を貪欲に吸収し ながら自己収束し、やがて質量や重力が無限大ですべての情報 が( 光 さえも)脱出できない暗黒の特異点となる。  
 ブラックホール生成のこのメカニズムをメタファー(暗喩)と考えれば、法廷における麻原の内面が崩壊する過程と、かなりの領域で重なることは確かだ。でも大前提である巨大な質量を、人間的にも宗教者としても彼が保持 していたとは思えない。精神が崩壊した最終解脱者など明らかに論理矛盾だし、悪ふざけも甚だしい。
 きっと仮想の質量なのだ。   
 ならば本質はどこにあるのだろう。 必ずどこかにあるはずだ。  
 結論から書けば、本質は分散していた。仮想の特異点の周辺。そこに配置 されているのは、 側近である幹部信者たち。さらに一般の信者たち。そして 外縁には彼らを包囲するこの社会。警察やメディアや司法、そして民意を形成する僕たち一人ひとりだ。   
    この周辺と麻原との相互作用。そこに本質があった。  
    連載初期の頃、一審弁護団が唱えた「弟子の暴走」 論について、僕は( 直感的な)同意を表明した。 二年半にわたる 連載を終える今、僕のこの直感は、ほぼ確信に変わっている。ただし弟子たちの暴走を促したのは麻原だ。 勝手に暴走したわけではない。そして麻原が弟子たちの暴走を促した 背景には、弟子たちによって際限なく注入され続けた情報によって駆動した 危機意識があった。視聴者や読者の要求に応じてメディアが社会の危機意識 を煽るように、弟子たちは麻原を、今危機が迫っているとの情報によって絶えず刺激し続けた。
                         ー森達也『A3』 

 狂気は中心的な個や何かしらの起源によって生成される訳ではない。周囲の空気から相互作用によって増幅され顕現していくものであり、私たちの在り方と無関係ではない。『呪怨 呪いの家』における「呪い」とは、このような悪意の相互作用によって増幅された空虚な特異点なのではないでしょうか。オウム真理教が外部や他者を組織から取り除いた結果自家中毒に陥ったように、私たちもまた呪いと悪意を相互に増幅させている。その媒介としてメディアが存在する。メディアによって呪いが運ばれ、悪意が伝播していく『呪怨 呪いの家』の世界観は、オウム的な狂気に陥った日本の在り方を表象しているように自分には見えます。
 次回は、この視点を踏まえつつ、先行論で論難された第4話について考え直してみたいと思います。ではまた次回。
 




注1 robin wood”An Introduction to the American Horror film”1979(『「新」映画理論集成〈1〉歴史・人種・ジェンダー (歴史/人種/ジェンダー)』フィルムアート社、1998、所収)

注2 だから、東京の中心でゴジラがメルトダウンするという高橋洋が夢想するゴジラのラストは、日本人は戦中期の狂気を忘れてはならない、というメッセージが感じられます。

注3 清水崇『樹海村』(2021)についてはこちらで記事を書いているので良かったらどうぞ。

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