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うぬぼれ映画夜話 第10回 庵野秀明『シン・仮面ライダー』(2023)と青山真治、内省の90年代について 


※ネタバレ有りです。

急遽金曜日が休みとなったことと、樋口真嗣『シン・ウルトラマン』(2022)を楽しめたこともあって、『シン・仮面ライダー』(2023)を初日に観に行きました。 平牧大輔『【推しの子】』(2023)が面白かったです。おしまい。

…とまぁこれで終わらせてしまってもいいのですが、白石和彌『仮面ライダーBLACK SUN』(2022)を含めてちょっと気になったこともあり、それについて書きたいと思います。というのも、どちらも弱者とテロリズムについての作品で、観た後あれこれ考えてしまったのです。

アクション演出についての批判 


 主題に入る前にどうしても指摘しなければならないことが一つあります。それは、庵野秀明にはもう、宮崎駿から受け継いだ画面力と活劇への嗅覚が完全に喪われてしまっていることです。
 『シン・エヴァンゲリオン 劇場版』(2021)からその兆候はありました。ヤマト作戦と呼ばれる一連のシークエンスにおいて、艦隊戦と各エヴァの位置関係はかなり不明瞭で、空間が全く演出されていませんでした。その中で、キャラクターの技と技とをアップショットの連続でつなげても、アクション=運動は起こりえません。だから、『シン・エヴァンゲリオン 劇場版』のアクションシークエンスは、『エヴァンゲリオンQ』(2012)以前の『エヴァ』では全く見られなかった、拙いものだと記憶しています。
 本作のアクション・シークエンスはそういった瑕疵がより鮮明に全編を覆っています。登場人物の撮る画角は寄りすぎていて全体像がつかめず、スーツ・アクションの一挙一動が画としてカットに収まっていない。それらをジャンプカットをはじめとした細かいカット割で誤魔化したとしても、運動にはなりえません。だから、本作のアクションはすべて死んでいるといってもいい。

 間をとる、という発想がないために、最初のカーチェイスも記号的な脚本の羅列になっています。原典の画を引用するショットやトリッキーなカット構成を「愛」と褒めるむきもありますが、原典は高練度のスーツアクションが屋台骨となっていたことを忘れてはなりません。そこを端折ってしまうことは、初代から平成ライダーまでに培った技術、今の日本映画におけるアクションの素地であり模範である伝統に泥を塗ったことに等しい。この点においては『仮面ライダー BLACKSUN』はまだ視聴に耐えるものでした。

 その代わりとなるのがCGによるファイトシークエンスですが、それもまたお粗末な出来前。そもそも、ゴジラやウルトラマンが人間より遥かに巨大な存在であったのに対し、ライダーはあくまで生身の人間が改造された、個人なのです。CGを使いすぎると身体性が削がれてしまい、迫力が減退します。
 『シン・ウルトラマン』は、ウルトラマンの神性が剝ぎ取られる過程でCGの質が下がっていく、アクションシークエンスが作品の主題に深く関わる作品でした。一方、『シン・仮面ライダー』からはそういったものを読み取ることが出来なかったので、CGによる安易なシークエンスはただただ苦痛でした。森山未来の佇まい位でしょうか。それもラストバトルで生かされることはありませんでしたが…。

  という訳で、アクション映画としては何もできていないに等しい本作の評価は、自分としてはワーストに近いものです。どれくらい評価が低いかというと、観た直後起こったオタクの拍手に対して「噓でしょ」と声を出してしまったくらいでした。
 しかしながら観終わった後、ある点についてずっとひっかかりを覚え、考えていました。本作が昨年逝去した青山真治の代表作『EUREKA』(2000)に対する返歌のように思えてならなかったからです。

テロリズムとトラウマ ー 青山真治『EUREKA』との関係性について

※ここからは青山真治『EUREKA』のネタバレも含みます。


スタイルは似ても似つかないけど

 本作の物語において、もっとも作りこまれていたのはショッカーの定義でしょう。ショッカーは巨大な人工知能の下、不幸を受けたものが最大限幸福になるように手助けする組織として存在するとされます。そこで、ある種のトラウマや悲劇を抱えた者たちが改造され、各々の幸福を追求していく。  
 冒頭で緑川博士が述べるように、その幸福は当人の欲望追求になっており、多くが全体主義的な他者否定へとつながっている。だからこそ止めなければならないと、仮面ライダーが立ち向かっていく。本作の物語は、マイノリティや被差別民族と怪人を重ね合わせた『仮面ライダー BLACKSUN』の流れをくむものになっています。
 本郷猛は緑川るり子と一緒に脱出したのち、ショッカーとその怪人たちをせん滅する旅を続けていくわけですが、そこで登場するのがるり子の兄、一郎です。一郎はエヴァでいうとこの人類補完計画のように、人間の魂に近いエネルギーを、ハビダット世界と呼ばれる別次元に送って一元化しようとしています。その発端となった出来事が、通り魔事件で母を亡くしたトラウマでした。そして、本郷猛もまた、その事件で父を亡くしたトラウマを抱え、強さを求めた人間だと終盤で明らかにされます。ライダーとして改造され暴力を行使する本郷猛の根底には、この事件を経たがための強さへの本能的な希求があることが、フラッシュ・バックで描かれていく。
 
 この偶有的なテロリズムでトラウマを植え付けられた兄妹と男の関係性は、青山真治が3時間半かけて『EUREKA』で描いたものとまさしく重なり合います。ロード・ムービーという形式や度々挿入される海を前にした心理描写など『EUREKA』との共通点を挙げればきりはないですが、自分はラストシーンの明らかな引用で確信しました。

 『EUREKA』は、バス・ジャックに偶然遭遇した3人のトラウマを巡るドラマです。事件に巻き込まれたことで、結果として両親を喪失してしまった兄妹は、まともなケアもなされずに放置されていました。そこで、母の喪失のトラウマから兄は衝動的に通り魔殺人を犯すようになってしまう。バスジャックされたバスの運転手だった男は、二人と自らをケアしていく過程でそれに気づき、彼を止めようとする。物語の中盤で、通り魔事件の犯人としてバスの運転手が疑われるシ流れがある通り、バスの運転手と兄は分身関係にあります。両者のやり取りによって、他者否定を誘発するトラウマと時代にどう向き合っていくべきかが、『EUREKA』では描かれている。

 黒沢清『CURE』(1997)の端的さと冷徹なシステムに対する返歌として、鋭いジャンプカットによって惨劇を演出しながら、映画を別の豊饒な時間で満たすことでそれを打ち消そうとしていく『EUREKA』は、青山真治の代表作であるとともに、現在も考えるべき問いを投げかけた時代を代表する傑作です。例えば、主人公の造形から見ても、内藤瑛亮『許された子どもたち』(2020)などはその返歌の一つでしょう。そして、ほとんどジャンプカットしかない、映画的豊饒さが喪われた世界の中で繰り広げられる『シン・仮面ライダー』の戦いが、主題としては青山亡き後の続きを描いている。だからこそ本作における戦いのほとんどが、分身同士の戦い、トラウマを抱えたもの同士の内省劇となっている。そのことの意味は決して小さくはない。
 本作における本郷猛が、他者を通じて暴力を抑制する術を得ていき、そして自らを犠牲にして願いをかなえようとする。その思いが、あくまで個と感情を軸に動くものに継承されるというあり方に、新しいヒーロー像を描こうとする苦心の痕が見えたのも確かでした。それは同時に、相模原連続殺傷事件から京都アニメーション放火殺人事件に対して、どう考えるかの庵野なりの答えでもあったように自分には見えたのです。

 ですが、一方で、そこに限界を感じたのも確かでした。それは庵野だけではなく、今年劇場で『EUREKA』を観た時に覚えた違和感とも通じた、内省の限界というべきものです。

内省の90年と、その限界

 庵野秀明と宮崎駿の最大の違いは、庵野がモンタージュとイメージによる内省の作家だったことです。その点においては押井より富野に近いかもしれない。事実、彼は『エヴァ』ののち、少女漫画や文学の領域でその力を発揮していきます。『ラブ&ポップ』(1996)から『彼氏彼女の事情』(1998)までの一連の作品は、若者のナイーブな内面を、イメージとモンタージュによって描く90年代を代表する作品でした。庵野が当時、『センチメントの季節』(1997)の榎本ナリ子と対談していたのも、両者が描いていた主題が時代を通底していたからでしょうし、『脂肪という名の服を着て』(1996)を書いていた安野モヨ子ともそういった話をしていたかもしれない。

このころ、身体論と内面についての話が多かった。それを自分も引きずっている。



 『CURE』から『EUREKA』の流れもまた、そういったナイーブな内省の時代を前提に作られた作品群です。癒しブームの裏にある荒涼を読み切った『CURE』が、同時に時代の産物だったことも確かでしょう。だからこそ『EUREKA』のロードムービーもどちらかといえば内省の旅として描写されます。
 しかしながら、相模原連続殺傷事件から京都アニメーション放火殺人事件、そして安倍晋三銃撃事件が起こった後で、今年劇場ではじめて『EUREKA』を観た時、「果たして内省で終わらせるべきなのだろうか」という疑問が、どうしてもこびりついて離れなかった。そうさせてしまった外的要因が存在して、そこにこそ焦点を当てるべきではないのか、と。

 だからか、私には庵野秀明『シン・仮面ライダー』がそういった内省の時代だった90年代を諸に引きずってしまっているように見えてしまった。本作は外部が全く描けていない。ショッカーのその設定は秀逸である一方、組織の全貌や世界観は全くわかりません。わからないまま、分身との闘いによる内的な葛藤のみが描かれていく。登場人物と世界の関係性が分からない以上、そのトラウマの重さも全く入ってこないのです。
 情報技術と人間の関係性を描いていた『シン・ウルトラマン』が明確な世界観を持っていたのに比して、あまりにも断片的で空虚で。だから、テーマを考えれば考えるだけ、つらかったことをここに記しておきます。

終わりに

 本作を撮る前からずっと、庵野はなぜ『彼氏彼女の事情』の続きを、あるいは安野モヨ子が描いてきたものへの返歌を撮ろうとしないのか、と歯がゆい思いを抱いていました。だからか、本作と青山真治の関係を結び付けた時、もう一人の作家が頭によぎった。『心が叫びたがっているんだ』(2015)で『彼氏彼女の事情』のセリフをそのまま引用した長井龍雪です。男女とナイーブな内面を岡田麻里と共に描き出した秩父三部作は、しかし、同時に地域と空間に根差した、青山真治の影響を感じさせる映画だった。
 だからかもしれない。本作で度々大写しになる海を観るたびに、庵野秀明が辿ろうとしても辿れなかった別の未来を思い描いてしまい、つらかった。『シン・仮面ライダー』についてあれこれ語っているのも、好きだったものが遠くにいってしまった、その成れの果てを観たという感覚からなのかもしれない。
 『仮面ライダーBLACK SUN』は逆に外部を描こうとした作品だった。けれども、その外部の描き方があまりに単純化された幼稚なものだったので、あれはあれで受け入れられなかった。安倍晋三をモチーフにしたキャラクターを裏路地で暗殺して喜ぶ、みたいなものをまともに取り合えるかと思うし、ここでも論じた三宅唱『呪怨 呪いの家』を踏まえてあんなものをよく出せるなと観た時は怒り狂っていました。雨宮慶太なら絶対にしないだろう、手抜きの怪物たちを見つめながら…。
 この二つの奇形的なシリーズは、なんとはなしに私たちが個人と社会の関係性をもってつかみ損ねている証左なのかもしれません。
 …そう考えた時、相方の岩井俊二はどう思って本作を観ているだろうかと、ふと思ってしまった。

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