うぬぼれ配信映画夜話 第6回 佐藤信介の生真面目さについて

 ずいぶん日が経ってしまいました。皆様お元気でしょうか。unuboredaです。
 最近は映画館に行くのさえ自粛してしまい、ぼんやりとゾンビや病が出てくる映画を眺めては漫然と過ごしておりました。スクリーンで作品を観ることに後ろめたさを感じる時が来るとは、と思う今日この頃です。
 気が滅入るニュースばかりが流れ、映画館の興行も中々振るわないという話を聞いて鬱屈は増すばかりですが、その中で明るいニュースの1つに佐藤信介のハリウッド進出がありました。

 漫画原作の実写映画を着々と撮り続け、ネットフリックスのドラマシリーズ、『今際の国のアリス』(2020)で名実ともに日本のトップクリエイターとして認知された作家です。全作品を観た訳ではないのですが、今回は佐藤信介のフィルモグラフィーについて語っていきたいと思います。



脚本家時代のもう一人の相棒 ー 行定勲との関係

 ハリウッドを意識した演出を武器に、漫画原作の実写映画化を描き続けた作家。佐藤信介が語られる際、このイメージからVFXやアクション演出に言及されることが多かったと思います。実際、長年タッグを組んできた下村勇二と共に、アクションとドラマをシームレスに演出してきたことが日本で唯一無二になれた理由の一つとして挙げられます。当然、下村勇二もハリウッドに連れていくでしょうが、そうなればロベルト・シュヴェンケ『G.I.ジョー: 漆黒のスネークアイズ』(2021)の谷垣健治と共に日本のアクション監督がハリウッドで銀幕を飾ることになる訳で、割と百害しかない分業体制にヒビでも入らないかと期待していたりします。

ですが、そのような娯楽映画のヒットメイカーという側面とは裏腹に、彼は自主制作からメジャーへと昇った当初、脚本家としてキャリアをスタートさせています。それも、市川準『東京夜曲』(1997)のような娯楽色の薄い90年代を代表する作家の映画に携わっている。佐藤信介を考える上で、このルーツは忘れてはならないように思えます。その中でもっとも数多くタッグを組んだのが、行定勲でした。

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              ー行定勲『ロックンロールミシン』(2002)

2020年の両者の躍進を考えると、行定勲『ロックンロールミシン』(2002)が映画史にもたらした意味は存外に大きかったと再評価すべきなのかもしれません。社会が設定した目標と個人のそれとが剥離した世界で生きる、未来のあてもない若者たちの日常をワンテイクと逆光を軸に描いた本作は、目標やビジョンを描けないまま人間関係にすがらざるをえない私たちの在り方を予見した、まさしくルーツというべき作品です。勿論、関係性に弛緩が入り込み空気は壊れていく様を1カットで表現してしまう行定勲の近作に比すれば習作の域を出てはいませんが、行定の作家性や色は本作ですべて出ているといっても過言ではありません。

 同時に、ルックやジャンルが大きく変わったにせよ、佐藤信介の根本にあるのは、この日本の若者が抱かざるをえなかった享楽と閉そく感なのではないでしょうか。

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              ー佐藤信介『アイアムアヒーロー』(2016)

 実際、監督作を見回してみると、未来を喪失した若者の話にしていることが非常に多い。『アイアムアヒーロー』(2016)は原作がそうだからで済みますが、『GANTZ』(2011)では、あらすじとは無関係なところで、主人公を就活中の大学生に改変しています。キャストの年齢や風貌に合わせて設定を変えたのだろうと最初誰もが考えていたはずですが、『今際の国のアリス』でも同じような改変をしている辺り、作家性故の確信犯なのでしょう。両者が社会から疎外された若者を象徴させたのが、どとこなく影の薄い山崎賢人だったことは示唆的です。


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佐藤信介の持ち味は、ジャンル映画においても、脚本家として培ってきた日本社会から疎外された個の視点を一貫して持ち続けてきたことにあるのではないでしょうか。重要なのは、彼がそのような視点と共に、どのジャンルでも生真面目さを持ち続けたことです。


佐藤信介の生真面目さについて

 今観返してみると、『修羅雪姫』(2001)は空間を生かせていないアクション演出の粗雑さに頭を抱えてしまうのですが、同時にやたらと堅い設定が目を引きます。同じく下村勇二が参加していた北村龍平『VERSUS』(2001)と比べてみると分かりやすいですが、『VERSUS』がアクションシークエンスの合間をキャラクター同士のおふざけで持たせるのに対して、『修羅雪姫』(2001)では重苦しいドラマが挟むことで話のテンポを落としているのが印象的です。特に伊藤英明と佐野史郎を中心とした反政府軍のエピソードは、果たしてここまで閉塞感で画面を停滞させる必要があったのかと、疑問に思わざるをえないものになってしまっています。当時はアクション演出のレベルに雲泥の差があったこともあり、北村龍平が先にハリウッドに進出したことは当然のように思われたでしょう。
 ですが、同時に『修羅雪姫』の設定や物語展開に、佐藤信介が躍進する萌芽のようなものが見えるのもまた確かなのです。未来を思い描けない若者が、彼らを消費し使い捨てようとする社会=システムの中で生き、反抗していく。『修羅雪姫』の重苦しさは、当時の日本社会が抱えていた閉塞感を描こうとした意志の表れであり、映画の出来とは別に見過ごせない作家性でしょう。この現代の日本に対する意識が彼の軸にあったことは、西谷弘『県庁の星』(2006)でも明らかでしょう。

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 地方の荒廃や官僚政治の腐敗、食品偽造問題といった諸々の要素を散りばめつつ、シュチュエーション・コメディのような設定から古き良きハリウッドの政治映画を再臨させてみせる本作は、現代日本において五本の指に入る名匠、西谷弘のデビュー作として今観ても全く色褪せない作品です。しかしながら、この作品が不可思議なのは、設定に比して、あからさまな笑いを誘うシーンが全く出てこないところでしょう。伊丹十三や三谷幸喜であれば映画はもっと違ったものになっていたはずです。ただただ、立場や階層が違う人たちが各々の真実を語り、それゆえに傷つけ合う様が描かれていくことに、私は観た当初驚きを隠せませんでした。『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』(2012)に出てきた謎の中国人刑事のようなステレオタイプが出てこず、外国人労働者が働く地方の貧しさがただただ刻印されている。だからこそ、本作は現代を見据えた傑作となっているといえます。ここで佐藤は、娯楽性と批評性、或いは生真面目さと映画は両立することの手ごたえを感じたのではないでしょうか。
 このような脚本家としての佐藤のルーツが、他の漫画の実写化を担ってきた監督たちとの差異に繋がっているように自分には見えます。本来はドラマの監督である三池崇史と被る部分はあるのですが、三池と違っておふざけやギャグといったものはほとんど彼の映画には出てきません。三池にせよ北村にせよ、或いは現在この手の映画のトップランナーになりつつある英勉もそうですがおふざけを差し込むことが娯楽映画の証だという風潮が日本映画にはあります。ある意味その究極の形が福田雄一だといえなくもないですが、そのようなおふざけが、果たして映画に必要なのでしょうか。英勉でさえ『東京リベンジャーズ』(2021)で封印していたように、現代を語るのに必要なのは、社会を見つめドラマを重ねていく生真面目さなのではないでしょうか。その結実こそが、『今際の国のアリス』に他ならない訳です。
   デスゲームという設定が新自由主義以後のメタファーであることはもはや古典的な図式でさえありますが、そこで展開される若者たちのドラマは、先に観たフィルモグラフィーの集大成といった趣があります。社会システム自体が私的としか思えない悪意を持っている、という鋭い視座も日本を描き続けた脚本家の面目躍如といったところでしょう。ジャンル映画趣味と社会派としての視点が入り混じったところに彼の作家性がある訳です。

役者の魅力

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 このような脚本家の経歴はもう一つの強みをもたらしているように思えます。それは役者の魅力を引き出す力の強さです。作品を観ていくとフィルモグラフィーを踏まえて役者をつかんだ映画が多い。佐藤健の無機質なところを十二分に刻印せしめただけでも『いぬやしき』(2018)は価値のある映画でしたし、『GANTZ』(2011)において、二宮和也に狂気と傲慢を見出していたことは先見の明があったというべきでしょう。端役でも記憶に残る配役が多くて、例えば『いぬやしき』で、佐藤健の父親に渋川清彦を起用させて、あえて何もさせないところなんか目を惹きます。西谷弘『昼顔』のようなことをさせたくなる俳優を、あえて何もさせないことで強い印象を残す起用法は、日本映画に精通していなければ出てこないやり方ではないでしょうか。

 下村勇二との二人三脚でアクションとドラマを並立させると同時に、ハリウッド的と形容されるようなルックへの拘りと邦画が持つ役者の魅力を両立させてきたこと。活劇と呼ぶにはいささかドラマ部分でクローズアップに頼りすぎだとも思いますが、佐藤信介が今の日本映画を語る上で見過ごすことのできない映画作家であることもまた確かでしょう。一方で、彼が邦画での蓄積をどのようにハリウッドで発揮するのかはいまだに読めないところでもありますが、『今際の国のアリス』の第2シーズンを含めて楽しみに待っていたいと思います。

個人的おすすめ3選

最後に、これは観ておくべきだという3作品に触れて終わらせたいと思います。

①『砂時計』(2008)

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TLで絶賛している方がいたので観たのですが、ツイッター包囲網さすがだなと思いました。今回つらつらと書いた佐藤信介の良さが一番出ている作品のような気がします。親世代の負債を引き受けた子供たちの物語を引き受けようとしながらも、青春映画の担い手が持つある種の先鋭さがないことが独特の印象をもたらしています。夏帆と池松壮亮がよい。

②『デスノート Light up the NEW world』(2016)

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今回これを書くにあたって佐藤信介の作品をかなり観たのですが、その上で本作がベストだという考えは変わりませんでした。細かいことは以前書いたのでそちらを読んでほしいのですが、ルックへの拘りを強く意識させた画面と若手実力派のアンサンブルは漫画の実写映画化でも異彩を放っていますし、そこで展開される物語もまた、原作さえも批評対象とする強い意志を感じさせるものになっています。アダム・ウィンガード版のように原作を中二病と突き放すことなく、漫画的キャラクターのカッコよさは踏襲しながら、知的ゲームがもたらす全能感を否定していく本作の在り方を私は断固支持します。
 佐藤信介は、アクションへの傾斜が強まるとドラマパートの演出がおざなりになりがちなのですが、本作はアクションが少ないためか外連味で映画が転がっていくので、画面が弛緩しない。「漫画の実写映画化」に駄作のレッテルを張られていた時期に公開されたがために酷評されていますが、数年公開が遅れていたらもっと違った評価を残したのではないでしょうか。後、佐藤信介は絶対に「夜」のがいいですね。『BLEACH』(2018)はそこで失敗していると思う。

③『今際の国のアリス』(2021)

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 少なくとも本作が世界を動かしたことの衝撃は計り知れないものであり、色んな意味で日本が持っていた文化の一つの集大成がここにあります。
 そもそも安里麻里『リアル鬼ごっこ3』(2012)の山崎賢人と熊坂出『人狼ゲーム ビーストサイド』(2014)の土屋太鳳(注)という組み合わせ自体、浴びるようにデスゲーム映画を観てないと出てこない発想なのですが、両者が特性を生かせるだけのアクションシークエンスを用意しつつ、社会=システムに虐げられてきたマイノリティや若者たちのドラマを展開していく手つきはまさに佐藤信介の真骨頂といったところ。ドラマシリーズという形式から各話ごとにアクションかドラマかといった目的意識がはっきりしていて、結果として1話1話がソリッドな作品に仕上がっています。
 演出の冒頭の全く映画的でないライン演出から映画的な長回しにつなげる手つきなんかに映像的強度とインディーズ的外連の両立が見てとれます。
 三池崇史の後を追いながらも、クソ真面目にドラマツルギーを全うしようとしていくラストに、私は漫画映画の力強い継承を見て感動しました。実際
スコット・フランク『クイーンズ・ギャンビット』並みのエポックだと思うので、未見の方は是非見てくださいな。


(注)そういえば最近思ったのですが、声優でもない土屋太鳳にミュージカルを任せる吉浦康裕『アイの歌声を聴かせて』も、どう考えても『人狼ゲーム ビーストサイド』を観ていないと出てこない発想だよなあ、と。クリエイターにはベストアクトが何かちゃんとわかっているよね!

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