僕の神様は小林賢太郎だった

18から21くらいまでの間、僕はラーメンズの小林賢太郎を神聖視していた。

それまでの僕は俗に言う長尺コントをちゃんと見た事がなくあっても東京03のライブの動画を少し拝聴した程度であった。

初めて見るラーメンズのコントはまさに衝撃の一言だった。

シンプルなモノトーンな服装と簡単な小道具から繰り広げられる星新一のショートショートのような摩訶不思議でシュールな世界観に僕は心を奪われた。

裸足で舞台の上に立つのも、時々笑いよりオシャレに走る展開も今考えると少しアレなところはあったけど当時の僕はそんなことかけらも気にしていなかった。

当時ラーメンズ公式がYouTubeで無料で公開した100本のコント動画を貪るように視聴しそれに飽き足らず他の公演の動画も視聴してライブDVDも購入した。

特にラーメンズの脚本担当(ネタを書いてる方を脚本担当と呼ぶのは今思うと少し...)の小林賢太郎はまさしく僕の理想であり神様でありキリストだった。

僕の祈りは小林賢太郎に捧げられ彼は僕にサブカルチャーの扉を開いてくれた。

受験生の僕は勉強から逃げるようにラーメンズのコントに溺れていった。

大学ではもちろん演劇を始めた。
なんなら服装もラーメンズのコント衣装に近いモノトーンな物で揃えたし演劇も役者をやりながら自ら脚本を描いた。描いてる内容は勿論劣化ラーメンズ。裸足で舞台の上に立ったりもした。

演劇サークルの皆はそんな僕を排斥したりせず、むしろ優しく受け入れてくれた。
彼らもちゃんとラーメンズが好きでバナナマンの長尺コントが好きで沙村広明や古屋兎丸の漫画を読み村上春樹や夢野久作の小説を読んだ。

成熟した方々から見たらサブカル初心者のような振る舞いも18歳の僕からしたらそれは異質で異端で僕が憧れた学生生活だった。

Amazonの中古で買ったボロボロの戯曲集(ラーメンズのコントの台本)にはマーカーペンで線を引いて特に好きだった「条例」というコントはセリフを完コピして友達と一緒に演じていた。

僕の描くラーメンズの劣化の劣化の劣化でもはや何がしたいのかも分からない少しギャグが入ってるだけの脚本も彼らは喜んで演じてくれ、お互いを褒め合って、側から見たら暗くて陰湿でダサい集団だったかもしれないがそれでも僕は充実していた。

しかし月日は僕を変えた。

僕の感性が成熟したのか成熟を通り越して腐ってしまったのか分からないが徐々に熱が冷めていきあれだけ偉大に見えた小林賢太郎がただの人間に変わっていった。

トドメは小林賢太郎の一人舞台だった。
ラーメンズを活動休止させてからソロ活動をしていた小林賢太郎の舞台、既に熱が冷めていた僕にとってそれは面白くなかった。

小林賢太郎が面白くない。これは僕にとってあり得ないことだ。
もちろんたまに滑ったりもするだろう、それでも殆どのコントは面白い、そう思えるはずだった。

舞台の上でおどけて見せる男性を僕は見ていられなかった。

神様は死んだ、僕が殺した。
ユダは僕だった。


社会人になってから思うことがあるが人には神様が必要なんだと思う。

地球上の殆どの部族で神様と思われる存在が確認されるようにきっと何か神聖なモノに縋ると言うのは人間の根幹に刻まれた基本設定なのだと僕は考える。

神様が神様である必要はない。
人によっては子供が神様かもしれないしパートナーが恋人かもしれない。それは仕事だっていいし欲しい物であっていい。
人には縋るものが必要だと思う。

僕の神様だった小林賢太郎は死んだ。
そして未だに次の神様を僕は見つけられないでいる。

僕は僕の神様が早く見つかることを祈る。
何に祈っているのは分からない


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