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「トリプティック」第20話


佐藤の渾身の懺悔を聞いた翌日、巴は会社に「抗体検査キットで陽性反応が出ました」と感染症を嘯いて1週間の自宅待機を得た。

よくもこんな嘘をつけたものだと思うが、まともに就業できるほどタフな精神力の持ち合わせもなければ、佐藤と一緒の空間にしれっと居合わせ続けれる気力も存在しなかった。

「女なんて水みたいなものよ」

巴は窓のカーテンの隙間から零れる朝日を眺めながら、無意識のうちに独り言ちた。

それは失恋の痛手となどとは断じて違う。そんなロマンはどこにも見当たらない。

何をどう感じていいのかすら手探りの混沌と、どうにも抑えの効かないジェラシーの不穏な種火だ。

だってそうではないか。

私が愛したあの男は、私が好きだといいつのりながらもっと好きな人がいるとのたまう。
それが、同性の男であると。

一体世の中にそんな仕打ちを受けられる女が存在するのか?
これはたちの悪い冗句で、後味の悪い悪夢で、しかも結局そのどちらでもない不様な現実だ。
「現実」はいつもやさしい顔をしながら私の頬を打ってくる。
あいつらはいつも女神で、女神は女だから女の幸せに嫉妬する。
女の不幸を糧に生きていく性悪な存在なのだ。

しかし同時に、この混沌に悪態を付くことに恐ろしい後ろめたさが巴を苛む。
そうではないか。
佐藤が愛した相手が男だろうが女だろうが、同じ気持ちで接しなくてはいけない筈だ。
相手が同性だから、男だから、だから許せないとすればそれは明らかに性差別だ。
男性嫌悪、ミサンドリーではないのか?
失恋の涯にたどり着くのが、コンプライアンスに萎縮する現代社会という訳のわからない戸惑いに、巴はうんざりしてきた。

佐藤の唇を吸うことは、もうないのかもしれない。
ならば、一層のこと二股をかけて私を弄んでくれても構わない…

私は一体何を思っているのだろうか?

私の部屋に何度も来て、このベッドに並んで座りながら、ルイス・ブニュエルやらルキノ・ヴィスコンティを観ながら過ごしたあの日々はもう二度と来ないだろう。

あの日々に、私は幾度もこの男がやさしくハグしてベッドに押し倒してくれることを期待していた筈だ。
何も言い出せなかったのは私なのだ。

何故なら…

ベッドに入ったままの巴は本棚にある画集を見つめた。

その中にフランシス・ベーコンの回顧展の図録がある。

父の文夫と一緒に行った最後の展覧会。

20世紀最大の具象画家は「トリプティック」と呼ばれる三連作の大作を執拗に描いた。

人間とも獣とも肉片とも思えぬ者たちが、すべてを暴かれるような明るい密室でアクロバティックな姿をさらけ出す。

その日、獣性を知った私は逃げ出した。
姉の静は、きっとそれを知っているのだ…

あの日から、私は普通に異性に恋愛感情を持つことが極めて困難になった。

10年もの月日がかかったのだ。ここに来るまでに。

そしてやっと取り戻した人並みの感情は、昨夜無惨にも踏みにじられてしまった。

人を好きになることは、あまりにも辛すぎる…

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