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「ペンキ屋はbarにいる」3

30になって実家の塗装業を継いだ僕は、覚王山の異界のようなバー、Love Potionに通うようになった。
実家が池下ですぐ隣町、帰りの方向なので週一ぐらい仕事帰りに寄るようになっていた。

当時は17時半から店を開けていたかな。
余りはっきりと覚えてないが、軽く引っかけて帰る積もりだったので、自分はいつも一番客だった。
次の客が来る前には席を立つのが常だった。

僕が来るきっかけになった、階下の自作アクセサリー屋のオーナーは結婚して店のバイトを辞めていた。
後で聞いた話では、客で来ていたサックスプレイヤーがベタぼれして口説き落としたとのこと。
かなり歳の差があったと聞いた。
その方は独身でプレイボーイだったが、結婚後奥さん一筋になり遊びも一切止め、仲間のジャズプレイヤーはみんな驚いていた。
確かにクールさと親しみやすさの両方を持った、雰囲気のある謎めいた美女ではあった。

久し振りに店に来たら、知らない女性がバイトしていた。
この奇妙なバーは、カウンターをバイト一人に任せていて従業員もいない (大体狭いし客席も少ない)
Lunaと名乗ったその娘はちょっと変わった娘だったが、何が変わってたか口では上手く説明できない。

僕と一緒で音楽の趣味がひどく雑食系で、クラッシックから洋楽、邦楽何でも聴く彼女とだんだん話もあってきた。
彼女はシンガーを目指していて、バーのオーナーのジャズドラマーのU氏にレッスンを受けるようになったが、そうなるまで結構な時間を要した記憶がある。
そのうちに彼女は独り立ちし、Love Potionに出入りしていたU氏の知人ミュージシャンと共演することで徐々にジャズ系のライブハウスに出演するようになった。

僕は初めて知り合いにミュージシャンを持った。
ジャズは詳しくなかったが、彼女の歌は素人のそれではなかった。
ざらっとした寂寥感を伴ったmy funny valentineや、歌を超えて祈りになったover the rainbowに僕は酔った。
その声には心を打つサムシングが間違いなくあった。

歌に専念する為昼の仕事を選んだLunaはLove Potionを辞めた。
毎月彼女の送ってくれるライブスケジュールのDMだけが僕との繋がりになった。

1年ほど経っただろうか。二月ほど彼女の連絡が途絶え、3ヶ月目にDMがきた。
胸騒ぎというほどではなかったが、僕は何となく気になって新栄のSwingにLunaを聴きに行った。

その時初めて、彼女の口から喉に変調をきたしたことを聞いたのだ。
幸い大事ではなかったが、まだ試運転の状態で手探りだと彼女は俯いた。

その日はセッションでなく、彼女が初めてやりたかった自身のバンドの御披露目でもあった。
確かピアノとベースのN氏のトリオだった気がするが、せっかくの初舞台に、本調子でない声を覚束ない様子で手繰り寄せようとする彼女の姿が少し痛々しかった。
ライブの最後、Lunaは今の自分にとって最も大切な曲だととうとうと語った後、僕にとっては初めて聴く「Everythimg Must Change」を歌った。

それは決して忘れられないほど悲惨なパフォーマンスであった。
声の出ない彼女を聴くのは初めての体験だった。
ボロボロだった。この状態で選ぶ曲ではなかった。
しかも激しく熱いアレンジが施され、バンドと彼女の整合性は脆くも崩れ、バラバラのままに交わることもなく終わりを迎えた。

聴いてこれ程辛い演奏は後にも先にも記憶に無い。
だが僕は、震えそうな程激しく心を動かされたのだ。

僕には彼女のやりたいことがはっきり伝わったのだ。
何がしたいのか、何故この歌なのか、敢えてこれに挑んだのかが。
言葉では説明できない。それこそが音楽だ。
プロとすれば明らかに失格のパフォーマンスだろう。
しかし彼女は、それをやらなくてはいけなかった。
それでもやるのが創造行為なのだ。

数年後、ピアニスト大石学に見出だされたLunaは、そうそうたるミュージシャンをゲストに迎えデビューアルバムをリリースした。
レコ発の凱旋ライブを、名古屋を代表するジャズの老舗LOVELYに聴きに行った僕は、その堂々としたパフォーマンスに酔った。

アルバムタイトルとなった「Everythimg Must Change」は大石学によって静かでドラマチックな曲に生まれ変わり、Lunaの歌は初めて画龍天晴となった。
その切ない祈りは今もこの胸にある。

アルバムを聴く度に僕は、今でもEverythimg~の最後のフレーズ「music make me cry」を覚えるのだ。
「歌」には何かがある。
その魔法を使える者だけが、この焔を感情に放つのだ。

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