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「ペンキ屋はbarにいる」4

毎回記憶をたどりながら書いていたので、思った通りにはいかない出来が歯痒いながらも、かといって下書きやノートをとった訳でもないこの雑記。
ちょっとは楽しんでもらえれば幸いです。

以前ふれたフリーランス時代、僕が契約していたキッチンスタジオは自然塗料の小売りをしていた。
ロハスのはしりである。
その塗料をドイツから輸入販売していた有名な日本の塗料メーカーの社長はキッチンスタジオのショールームを気に入り、よく遊びにこられていた。

「岡田さん、神谷デザインって聞いたことありますか?」
ある日、ショールームに顔を出したその社長から尋ねられた名前を、自分は知らなかった。
「なんでも手掛けたお店が必ず売れるそうで、何年も先までデザインの予約待ちになってるそうです」
僕は懇意にしていたスタッフの古さんと顔を見合せて、お互いの意識の片隅にその名前を留めおいた。

話を聞いて暫く後、新聞にも取り上げられた神谷デザインは、勿論今は日本を代表する店舗設計事務所になっているそれだった。

僕の池下の実家から近い覚王山に見慣れぬバーが出来たのはそんな頃だった。
残業の後、よく飲みに行く間柄だった古さんと行った頃は、それほど周知されてないせいか客もそこそこだった。

後日、覚王山バーは、昔バーテンをやっていた神谷自身がオーナーで、かつて自分が住んでいたアパートの一階を潰して設計したバーであることを知った。

僕はジンかウォッカをロックで飲んでいたが、そのうちにそれはスコッチに変わり、そしてシングルモルトとなった。

実家の塗装会社を継いだ僕は、古さんとの交流が途絶えた後、独りバーに通うようになった。
最初はグレンリヴェットやスキャパをロックでやっていたのが、マスターや客から教えられていくうちに、ラフロイグやラガブーリン、カリラになどの癖の強いアイラモルトのストレートに替わっていった。
ピートの効いたスモーキーな味わい、舌にまとわりつく痺れるような酩酊感が僕の人生に強い何かをもたらした。

アルコールは、僕の中で覚醒した。

その頃から自作の小説を書き始めた僕は、夜な夜な自分の部屋でラフロイグをキメながら机に向かった。
酒税が変わる20年前は、モルトは随分安かった。
あの当時、もう潰れて無くなったディスカウントショップでは一本2500円程度で買っていたが、今では倍になってとても買えない。

飲んで書いてると、意識に更にドライブがかかった。
変な話、飲むほどに意識が研ぎ澄まされていき、まるで何かが憑依したかのように書き続けることができた。
1日10枚はざらに書いた。今流にいえば神っていたのだ。

最初に脱稿まで至った「処女作」を、半年の間に300枚書き切った時、忘れもしない、1週間ほどその余韻に溺れつづけた。
ライターズ・ハイとでもいえばいいのだろうか。
その感覚は他に類するものはなく、敢えていえばセックスで得られるエクスタシー以上のものとも思えた。
勢いのままに、さらに執筆を重ねていった。

覚王山バーのバーテンの洋也さんが独立して参道に自分の店を持つこととなったのは、僕が自作の3作目を本にする時と重なった。
小説で僕は覚王山バーを全く違う形で再生し登場させたが、換骨奪胎したバー「遥」のマスターは、洋也さんがモデルだった。

モルトとバーが通奏低音のように全編に配られた物語は、僕の行き付けのバーやモルト、きっと自分のその時代へのオマージュであったのだと思う。

開店準備に忙しくなった洋也さんに代わって多くシフトに入った、今では多治見で有名なうどん屋のオーナーになっている木本さんに出来上がった小説をプレゼントした。
木本さんは自分の若い頃を思い出したと優しい面持ちで語り「村上春樹の若い頃みたいですね」と言った。

僕は一度も春樹を読んだことがなかったのでびっくりした。
村上龍の影響下にはあったが、それは全く想定外だった。

未だに村上春樹は読んでいない。
多分これからも読むことはない。

自分の店の準備をしていた洋也さんに本を渡してもらうよう頼んで店を出た数日後、覚王山バーの近くで偶然洋也さんに会った。

その時のことは今でも鮮明に記憶に刻まれている。

洋也さんは僕を見つけ駆けよってきた。
彼は今にも泣きそうだった。

「岡田さん…」
その後、言葉が繋がらなかった。
明らかに胸一杯の感情を言葉にして伝えたい、けれど何を言えばいいのかわからない、そんな人を、僕はおそらく自分の人生で初めて見たのだ。

それは僕自身にとっても衝撃的だった。

彼がその後何を呟いたか、はっきりとは覚えていない。
感謝の言葉をもらったことだけは記憶にある。

僕は、自分の行いで自分の親(ちか)しい人の心を打ったのだ。

人の人生は、望んでも叶わないことばかりだ。

僕は小説を書いたことではなく、自分が想像もしなかった何かを人と共有出来たことが、自分の人生の1つ到達点だったのだと後で知ったのだ。

思い出は、振り返る必要は無いが、美しくあってくれればそれでいい。

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