文フリでのある特別なおきゃくさまのはなし

文学フリマ。
本好きのパラダイス、と僕は呼ぶ。ここでなければ出会えない本が無数に存在していて、出店している僕も、隣のブースに座っているあいつもこいつも、活字が好きそうな目で向かい側のブースを眺めている。
帰りの僕の鞄はいつも戦利品でいっぱいだ。出店してる方なのに。行きの時点でスーツケースに在庫とかディスプレイ用品とかパンパンに詰め込んでいるのに。
片付けの時に戦利品をどう持って帰ろうかと頭を悩ませるから、今回こそ絶対買いすぎないと誓うのだけど、結果は、まあ。……ね?
人間が学習できる生き物なら、経済って回らないと僕は思うよ。

東京文学フリマ36の戦利品
一人参加だったからちょっと控えめ
それ以前の文学フリマの戦利品
けっこう積み本にしちゃってるのに買い足す人間のおろかさ

文フリから毎回もらえる(たぶん毎回)無料の袋があるんだけど。こういう愚かな生命のために用意されているものだと僕は思っているよ。スーツケースが出店用アイテムでパンパンでもこれさえあればとりあえず持って帰れるからね!!

クソデカ図鑑が余裕で入る無料袋
5キロの猫も快適そう
写真を撮る時に勝手に入ってきてそのままお気に召されたらしい

そんな文学フリマに出店参加しはじめて早二年。様々な方に作品を手にとって頂けて嬉しい限り。僕のブースの規模は小さいし、来る人数、捌ける冊数なんてたかが知れているんだけど、それでも――『それでも』って言うよりは『だからこそ』かな――お手にとっていただけた方々の事は良く覚えている。
(※覚えてるって言うのは、リピーターの方の顔を認識しているって話ではない。なぜなら僕の人間識別能力はクソだからだ。それに加えて、僕はイベントの時にだけコンタクトをつけてくることが多いのだけど、随分前に作ったコンタクトをつけてるせいで度がちょっと合っていない。卓上ポスタースタンドにぶら下げられたお品書きが近づかないと全然読めない。複数回来てくださってくれている人がいるような気配はうっすらしているのだけど、ごめん、見えてない。もし言ってくれたらとりあえず両手を上げて喜ぶよ)
ブースの外観で立ち止まってくださった方、お隣さんのよしみで一緒におしゃべりしてくれた方、全然上手に運用できないツイッターから来てくれた方(僕はSNSのことを『Sそれって Nなんかの Sサナギ』の略だと思っている)、無口に一直線にここまで来て新刊をお買い上げいただくなり颯爽と立ち去っていくかっこよさの権化みたいな方。
僕のこんな小さなブースだけでも、本当に色んな物語が詰まっている。(もちろん、本を作っている時にも色んな物語が生まれている。素敵な表紙を描いてもらったりとか。その話もいつかできたら良いな)
その中でも、僕が一番印象に残っているタイプのお客様の話を今日はしようと思う。

彼ら・彼女らは決まって誰かと来ている。
一人で居ることはない。
だけど、見かけ上は一人で来ているように見えるかも知れない。一人だけがブースの前まで来て、同行者は少し離れたところでその様子を見守っているからだ。
物理的距離のある静かな同行者の存在に気付くのは、ブースの前まで来た一人が作品のお持ち帰りを決めた時。そわそわと期待に満ちた様子で、でも少しだけ不安の混ざった眼差しで同行者の方を振り返る。
僕は遊びに来てくださった方にゆっくりサンプルを見ていって欲しいから(ただ遊びに来てくれるだけで本当に良いのだ。財布の中身の限界は人それぞれだし、優先度もそれぞれだ)、基本的にはブースの中に居ても意識を異世界に飛ばしている。だから、彼らがどんな会話をしているのかまでは聞いてない。
彼らは小さな声で何事かをぼそぼそと相談して、それから相談に決着がついた頃に、ブース前の一人が僕の方に向き直る。
「これください」
小さな声が聞こえるのはその時だ。
ああ、買ってくれるんだな。嬉しいな。そう思って声の方を見てみると、そこには誰もいない。
あれ?おかしいな?確かに気配も感じていたし、声も聞こえたのに、と辺りを見回しても誰もいない。ふと思い立って、椅子から立ち上がって視線をおろしたところで、ようやくそのお客様が見える。
緊張の面持ちで千円札を握りしめた小さなお客様だ。たぶん小学生高学年か、ギリギリ中学生。少なくとも、高校生までは絶対いっていない。そんな感じな子がお客様として来ている。
少し離れたところではその子のツレ――両親だったり、祖父らしき人だったりする――が冷静な表情でこちらを見守っている。
そのくらいの齢の子が文学フリマに来ていることにも驚いたが、どうやら彼ら・彼女らは保護者から試練を課せられているようだ。「欲しい本があったなら、自分で買ってきなさい」、と。代金は保護者の財布から出ているようだが、欲しいものはちゃんと自分で欲しいとお店に人に言いなさい、と言うことらしい。
すごい。
意識が高い、と言うとなんだか昨今の言葉では悪口っぽく聞こえてしまうけど、でも意識が高い。いや、向上心が高い。それに応じる小さなお客様のチャレンジ心にもたまらなく心がくすぐられる。
来てくれてありがとう。君の貴重な読書本の中に、僕の本を入れてくれてありがとう。
そんな風に心がとっても暖かくなる。
その一方で、だ。

『本当に僕の本で大丈夫?????』

ってすごい思う。
いや、本当に。別にね、R指定描写があるとか、それに近い描写があるとかは、全然ないんだ。えっちなものは書いてない。それに、すごく過激な思想のものを書いているわけでもない。たぶん。だから、それくらいの子に読んでもらっても大丈夫だとは思っているんだけど。
一冊はミステリーだから人は(たくさん)死ぬし、まだまだミステリーは修行中だから最高品質とはちょっと豪語できないし。もう一冊はホラーだし、冒頭から化け物死ぬし。ちょっとグロいし。初めて文学フリマに出よう!と決めた本だから活字好きだからこそ、文字だからこそ表現できるものを書こうと思って書いてるからたぶん読みづらいし……いや決して誰もが楽しく読めるものを書けた自信がなかったことを言い訳しているわけでは……小説と詩の間のものが書きたかったのも本当のことで……(言い訳ゴニョゴニョ)。

何が言いたいかって言うと、そもそも子ども向けを想定して書いていないから、小さなお客様にお渡しするのはちょっと不安になるのだ。こんな僕が書いたものが、彼女ら・彼らの未来の糧になっていいものか、って感じで。

ものすごく率直に言ってしまえば、やっぱり、クォリティの話なのだ。結局。
僕が自分の書いたものにどれだけ自信を持っているかの話。僕が小学校・中学校の頃に読んでいた本は大きい出版社を通した市販の本ばかり。だからこそ、小さなお客様に対してだけは、きっと背負わなくていい不安をちょぴっとだけ背負い込んでしまう。
僕は今、自分が小さい頃に読んで夢を膨らませられたような、そんな本を書けているだろうか?
……正直とても自信がない。

大人相手なら「とりあえず読んでみて!!!」って気軽に言えるのにね。合わなかったら好みの問題だから仕方ないし、好きといってもらえたら嬉しい。そんな気軽さで構えていられるのに。
小さなお客様たちには、どうしたって『良いもの』に触れてほしいと僕は思ってしまう。子どもの目は無垢で、色んな前提知識がない(本を読んでる人なら知ってるはずのテンプレ展開とかのこと)からこそ。
こればっかりは実力なんてすぐにはどうにもならんものだし、良いものだと言う証明なんかできるもんじゃあない。読んだ人に何か糧になるものを書こうとは目指している。だけど、挑戦が必ずしも成功するとは限らないのだ。挑戦すらしなければ、成功することもないから果敢に突撃するしかないというだけで。

自分の書いているものはちゃんと、「文学」としてちいさなお客様たちに届いているか、っていうのが僕は一番不安なんだと思う。
真実の瞳で試されている気がしてとても緊張する。子どもの目はごまかせないと、僕は思っているから。
でも試される機会があったこと自体は本当に光栄に思う。

たまたま訪れてきた小さなお客様たちの未来を僕自身が知ることはたぶんないだろうけれど、彼ら・彼女らがいつか、この出会いがきっかけで将来の文学フリマ出店者側になってくれたら、僕は本当に嬉しい。コミケとかスパコミでもいい。
それだけで、きっと、今まで書いてきたすべてが報われる気がする。

……まあ、報われなくても、僕は好きなものをきっと書き続けるのだけど。活字と物作りがやっぱり、好きだからね。

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