マインドフルネスは文化の盗用か? (Mindfulness and Contemplative Engagement) #269
パーソンズ美術大学のTransdisciplinary Designでデザインを学んでいます。選択科目で「Mindfulness and Contemplative Engagement」という授業を受講していたので、その学びをまとめてみます。授業は8週間のオンライン授業と二日間のリトリートで構成されていて、映像授業と論文から知識を学びながら簡単な瞑想ワークもするという形式でした。
マインドフルネスの定義と効果
まず、この授業で出会ったマインドフルネスの定義を書いておきます。
「今この瞬間の経験に気づいて受け入れる」というシンプルな定義ですが、マインドフルネスの目指す状態が端的に表されていると思います。この授業ではマインドフルネスの効果をいくつも学んだので、代表的なものを紹介していきます。
畏敬の念が増す
燃え尽き症候群を防ぐ
創造性を高める
他者・世界への共感力が増す
デザインにも応用できる
リーダーシップを高める
このように、マインドフルネスを実践している人へのインタビューや科学的な実験によりマインドフルネスがもたらす効果が証明されているようです。
マインドフルネスは誰のもの?
マインドフルネスは仏教の瞑想に由来しており、ティク・ナット・ハンやジョン・カバット・ジンらによって西洋(主にアメリカ)を中心に広まりました。前述のように今では科学的に様々な効果が証明されて、宗教色を取り除いたマインドフルネスとして受け入れられています。これまで瞑想の実践者が経験的に「瞑想はいいぞ」と感じて何千年も受け継がれてきたのが、科学によっても「瞑想はいいぞ」と証明されているのが面白く感じました。
ただ私が気になるのは、マインドフルネスの科学的な効果ばかりが押し出されている点です。「クリエイティブになる、リーダーシップが高まる、共感力が増す、ストレス軽減になるからマインドフルネスがオススメです」という功利的で未来志向の視点は「今ここ」を大切にする本来のあり方と矛盾している気がするのです。そもそも仏教的な瞑想は具体的なメリットがあるからするわけではないはずです。
もしも瞑想に実利的な効果があるとしてもあくまでも副産物であり、各々が悟りに近づけるかどうかの話であるはずなのです。科学的・統計的に言えばサンプル1であると切り捨てられるとしても、瞑想というのは本来極めて主観的な経験であって他人と共有できないものです。不立文字という教えがあるように、言葉では伝えられないものを理解するために瞑想があります。
また、マインドフルネスと仏教的な瞑想は方法も違います。たとえば、この授業内で体験したマインドフルネスの多くは呼吸のタイミングや頭に思い浮かべる内容、注意を向ける対象などを音声で指示するスタイルであるGuided Meditationでした。一方で、私がNew York Zen Centerで体験しているような坐禅にはそうした音声ガイダンスはなく、ただひたすら座るだけ&歩くだけです。
マインドフルネスは文化の盗用?
もともと仏教的な修行だった瞑想をマインドフルネスとして広めるのはCultural Colonization(文化的植民地化)ではないかという問いも初回の授業でありました。西洋文化がオリエンタルな雰囲気を利用しているならば、文化の盗用として見ることもできるでしょう。
もちろん、マインドフルネスを初めて学ぶ人にとっては、科学的なメリットを示してくれたり言葉による指示がある方が受け入れやすいでしょう。一方で、さらに興味を持った人がマインドフルネスの歴史を学んで「せっかくなら坐禅やヨガもしてみたい」と思った時にも深掘りできる道を用意することも大事だと思いました。
仏教自体も約2500年の歴史を経て様々な宗派に分かれているように、時代によって受け入れやすい形にアレンジされるのは自然な流れです。ただ、現代人の価値観に基づいて科学的でない部分を切り捨ててしまうのではなく、科学的ではない部分にも何かしらの意味があると思って「とりあえず教えに沿ってやってみる」という姿勢も必要なのではないでしょうか。
まとめ
マインドフルネスの効果が科学でも証明されていることを学べた一方で、仏教的な瞑想における西洋や科学に合わない部分が軽視されている恐れも感じました。科学と宗教、統計と経験。両者のバランスを上手く取る方法はあるのでしょうか?
異文化の方法論を取り入れるとはどういうことなのか? 科学的に証明できない個人の主観的な体験をどのように扱えばいいのか? デザインを学んでいる身としては、そんな問いを考えていきたいと思います。