体罰と野球について

こんにちは。野球が大好きです。

高校野球と体罰について今朝考えていました。体罰はなぜ起こるのかを考えてみました。

体罰する理由

「監督は勝つために、先輩は後輩を蹴落とすため」ですかね。

体罰は昔は当たり前にありました。先生は生徒をぶん殴るもの、辛い練習を課すもの、殴られたら有難うございますの精神、というのがありました。背景には軍隊の精神、武道の精神です。この精神は元々は早稲田が広めました。戦時中、野球を守ろうとした早稲田の飛田穂洲先生が「学生野球はゲームではない、剣道や柔道と同じ、野球道だから」と捉え、アメリカスポーツを守ったという歴史があります。日本の学生野球は武道のように礼に始まり礼に終わります。グランドに挨拶をします。そんなのもこういった背景があるからでしょう。

だからボッコボコでした。

少なくとも僕が現役時代だった2000年代初めまでは高校野球では、指導者が選手を、先輩が後輩をボコるというのが残っていました。僕が見たことある体罰でインパクトあった事例をいくつか。

某C辯和歌山高校のT嶋監督はエラーした選手に静かな声で「ボール怖いんか?え?」と至近距離でお腹にボールを何球も投げつけていました。

某T邦高校のS口監督は見逃し三振した3番打者に対して「お前はオーラがない」と呼びつけぶん殴って1回裏から試合終了まで約2時間ちょい正座させていました。

某Y浜高校の某O倉部長は守備から戻ってきた捕手の首を捕まえてイニングが終わるまで裏で何かしてました。次の回僕が打席で捕手の顔を見たら顔が真っ赤で鼻にティッシュ詰めてました。

某U和学院の某M監督は選手を張り倒して頭を踏ん付けていました。頭を踏んづけるんです。プロレスラーかと思いました。

これは20年以上前なので時効です。

先輩後輩で言うと、某ピーL学園も元H神のS井や元K人のA井が後輩をぶん殴って出場停止になってましたよね。こんなの氷山の一角です。ピーL学園の知人は一つ上の先輩と学校ですれ違うときですら冷や汗が出ると言っていました。

PL学園て、一応イニシャルにしているつもりです。(←※PL学園からピーL学園に修正いたしました。10/28)

あれから20年、まだまだ体罰があるようです。

まずは監督の体罰。高校野球は2年半で全国大会が5回ありまして、全て出場することを目指さなきゃいけない野球校が全国に無数にあります。なぜなら野球校の監督は「甲子園に出て学校を宣伝して生徒を集める、寄付金を集めるため」にいるからです。本人がどう思ってるかは別ですが、学校はそれを仕事としてお願いしているでしょう。会社で「節税目的で野球チーム作ろうぜ!別に勝てなくていいからよ!持ってればいいから!」とヤクルトのようにはなりません。私立の学校は生徒を募集するために野球部を強くするのです。

結果を出さなきゃいけない。しかし、その時間がない。

どれだけ効率よくチームを強化するか。だから選手に考えさせて気づいた頃にはもう引退、ということが起こり得ます。ていうか、「考えるってなに?」からやっていると時間が足りません。

野球校に入ってくる中学生の8割は、野球を考えたことがありません。だって、中学時代に野球の才能が人よりあり、中学レベルでは何も考えずに本能と感覚で結果を残せるからです。だから3月まで中学生だった高校生に「考えろ」って言っても「は?」なわけです。人はつまづいたときに考えようとします。高校で今までどおりに打てなくなって考えようとしても考え方がわかりません。なぜなら考えたことがないからです。困ったときにすがる人は誰か?監督(コーチ)しかいないのですが、苦しくて苦しくてしょうがない状況で、100名の部員全員に2〜3人しかいない大人は一人一人に考え方を教える時間はありません。時間がないからです。そうなるとどういう指導になるかというと

「俺はこのやり方で成功したから俺の言う通りやれ」という指導になります。

大人の指示を守れないと、ふるいに掛けられるか、何度も練習をさせられるか、それでもできないと「俺の指示どおり動けないのか」とぶん殴られるのです。または「頭使って野球をやれよ!」と臨機応変なプレーができない選手をぶん殴ります。

大人もぶん殴らなきゃいいのですが、指導者本人の経験として、やってできなきゃぶん殴られていることが多いんです。経験を元にした指導になってしまうとやっぱりぶん殴ってしまいます。選手をロボット化して言うことを聞かせて、自分の経験に基づいた勝利の方程式に選手を当てはめるわけです。言われたことを素直にやる高校生は2年半何も考えないで野球をやるようになります。「監督に好かれることと怒られないこと」しか考えません。好かれるには言うことを聞く。怒られないようにするには言われたとおりにやるだけです。

算数ドリルもどこかから難しくなります。(かくいう私も分数が限界でしたがちょっとは勉強しました。)勉強って頭を使うじゃないですか。難しくなったときに自分で考えて答えを導き出すのが「考える野球」。最後のページの答えを見てわかったふりして解答書いちゃうのが「管理野球(仮)」です。最初の癖付けが肝心で途中からついていけなくなると挽回が難しいのは勉強も野球も同じなはずです。これが僕の推論です。

高校生になった中学生は、監督や先輩を見て育ちます。監督が言うことを聞かない選手を殴れば、言うこと聞かない後輩を殴ります。先輩がムカついて後輩を殴れば、後輩は後輩を殴ります。こうして暴力の連鎖は止まらなくなります。

ちょっと脱線しますが、

僕の友達に、超極端に考えるのが苦手なプレーヤーがいました。友人はやればできるようになっている小学校低学年で教科書を投げ捨ててしまい、中学はずっとオール1。体育が3というプレーヤーでした。遠投100m、50m6.3、神宮球場のバックスクリーンにぶち込むようなスターでしたが、彼なんかは何も考えない。来たボール打つ。九九がギリ。たまに間違える。彼は1番打者だったんですが打ったボールも教えてくれない。ていうか天才なもんで来たボールを打つだけだから覚えていないんです。

一方、僕は相手投手が一番嫌なことは何か、この場面で何が最善で何が最悪なのか考えています。状況は一球一球変わりますが相手投手を見ながらそれをじっと見ています。確率を上げるにはどうしたらいいか、どのボールを打つのが確率が上がるのか、などを考えます。なぜなら野球の才能がなかったからです。

監督は殴りはしないものの勉強しないスターに対して「スター!調子に乗るな!」と口酸っぱく言ってました。それに不貞腐れるスター。「なんだその態度は!」とますます怒られる画が昨日のことのように思い出されます。このへんも考えてないんですよね。物事の全てを考えていない。ある時言われました。「お前は怒られないからいいよな、俺はもう怒られたくないよ〜」と。「なんで俺だけ怒られるんだろう。」と。「学校の成績が悪くて態度が悪いからだよ」と言うと「怒られない高校行きたいな〜」と。自分の何が悪いか、なんで怒られるかは考えないんですよね。怒られたくないけど、怒られる原因を究明しない。理解しようとしない。打てなくて悔しいと、感情に任せて夜中まで素振りしたりするスター。素晴らしい情熱なんだけど、打てなかったボールもわからないし、なぜ打てなかったか考えてないので、その素振りはただの筋トレと刷り込みになってしまいます。打撃練習ではないんですよね。

高校の時のスターのエピソードですが、スターは数十校からスカウトされて特待生・寮費ただ、道具支給の学校にいきました。そこでもスターで1年春からスタメンで出て甲子園に2回出場します。3年時には副キャプテンになったんですよね。ただキャプテンと仲が悪くて監督から仲良くなれよと言われたそうです。

監督「お前ら仲良くしろよ。どっちが欠けても甲子園はいけないぞ」

キャプテン「はい。わかりました」

スター「こんなやついなくても甲子園行けますよ」

と言い放ちます。この発言に指導経験数十年の監督はスターをボコボコにします。10秒先のことを何も考えていないんですよね。ちょっと考えればわかるのに。監督が殴ると「はい、わかりました」と言ったそうです。(本人談)

年に一回くらい飲むんですが、子供が小学生になっていて少年野球のコーチをしているそうで「今思えばもう少し考える癖をつけておけばよかった」と言っていました。なんで上から叩くんだっけ?なんで上から投げるんだっけ?子供に説明ができないそうです。だって考えないで野球できたから。なんで打てないんだ?なんで抑えられないんだ?を言葉でアドバイスできないんですよね。とてつもない実力者で経験者であるのに指導者にはなれない「考えなかった人」の典型的なパターンの人です。こういう人ほど、自分が言われたことをそのまま言います。

「上から叩け」「上から投げろ!」「考えてやれ!!!」と。


脱線しました。

「考えるって何?」に戻りますが、考えることというのは学校の教科書と一緒で「問題=なんで?」を理解して「答え=こうすればいい」を探すことです。勝つには、点を取り、相手に点を与えないこと。それには相手投手を打つ、相手打者を抑える必要があるし、打てない時にどうやって点を取るか、抑えられない時にどうやって失点を防ぐかを考えること、何かしら結論を自分で出すことこそ重要なんです。その訓練は幼少の頃から鍛えておかないと高校野球で挽回するのが難しい。なぜかというと野球は挫折して辞めるスポーツだからです。

勉強やスポーツを通して本来学ぶべきことは、挫折した時に考える能力を鍛えることなのではないでしょうか。小さい頃から「監督に好かれるため、怒られないため」の脳みそになっているので「監督の言ったことしかできない野球」をやることは教育の一環の野球じゃないのでは?と思います。

「考える野球」を実践するにはどうしたらいいのか。これから考えていきたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?