もうすぐ12月8日。

12月8日は、旧日本海軍連合艦隊が、ハワイの真珠湾にある米軍基地を奇襲攻撃した日。

奇襲、とは言っても計画では堂々と宣戦布告をして、間髪入れず、まだ相手の迎撃準備が整わないうちに攻撃する、という意味の奇襲作戦だった。しかし、布告を伝える役の外務省が暗号の解読に手間取り、米国に通告するのが攻撃より遅れてしまった。結果的に米軍と米政府は、自軍から被害の報告を先に、日本から宣戦布告はそれより後に受け取る事になってしまった。

…と聞く。勿論、諸説ある。
米国は日本の暗号などすべて解読・解析していて、「真珠湾の襲撃も事前に知っていた」とする説も根強い。「だからこそ、真珠湾に戦艦(アリゾナなど)はあっても、何故か米軍の空母はみんな出払っていたではないか」、と。説得力がある。

いや、でもその見方は日本側の視点に寄りすぎていないか、という考え方もあるだろう。
航空戦力を主力とした軍事作戦は、この真珠湾攻撃が史上初だったのだ。その頃はまだ独立した「空軍」すらない時代。それに、海軍と言えば戦艦(軍艦の中でも大火力を集中させた戦闘艦)が主役、という考えがどの国でもまだ支配的だった。
これを覆したのが、日本軍の歴史的な真珠湾攻撃だ。
だのに、何故米軍が、それに先んじて自軍の空母を何処かへ逃がし、戦艦を湾内に残したままだったのか?、という疑問が沸いても当然だろう。がとにかく、結果的に、米軍の空母は温存され、その後の日本軍にとって厄介だったことは間違いない。

布告が決定的に遅れてしまった失態は、作戦以前から山本五十六が「それだけは絶対にないようにしてくれ」と、懸念していたポイントだったという。だって、命を賭けて戦う全ての日本軍兵士の、名誉に関わる重要な点だから、と。
実際、懸念した通りになってしまった。
米国は「日本は卑怯者だ!」「真珠湾を思い出せ!」と映画などで喧伝し、自軍と銃後を鼓舞する為に、大いにこれを利用した。

日本海軍が何故、真珠湾を攻撃目標としたのか、その理由はやはり、開戦後の米海軍の機動力を初手でなるべく削いでおきたかった、という戦略上の意味が大きいだろう。
一方で、明治時代にまで遡ると、これとは別の理由も関係しているかも、と思えるエピソードがある。

ハワイは、今でこそ米国の一部だが、以前は太平洋の真ん中に独立した王国だった。
当時の列強がどの国もそうであったように、アメリカもまたハワイ王国を植民地にし、時間を掛けて段階的に自国領に組み込んだのだった。

巧妙な手口だ。最初は友好的に入り込む。武力の差は見せつけつつも「大丈夫、友好な関係なら問題はないはずだろう?」という体でしばらく付き合う。
その間に浸透工作を充分に進めたら、次は小さな事件を起こす。
それをネタに、「どうする気だ?怒っちゃうぞ」と脅す。相手がどんなに下手に出ても「それじゃダメだ!まったく、これだから未成熟な国は…」とマウントを取り続け、「責任取れ。何か寄越せ」と不平等な条約を押し付けたりを何度か繰り返した後で、最終的に「ああもう、限界だ。お前ら国家として未熟だし、相手にならんからこの際、俺達が代わりに統治するからな、文句ないな?」と、表面的には合法的に、その国を乗っ取る。

この件りは途中まで、日本の近代史の中でも「思い当たる史実を知ってる」人は多いはず。日本だって危なかった、って事。そうならなかったのは我々日本人の祖先が明治の頃から必死に、この国を護る為、頑張ってきたお陰様。

アメリカだけじゃなく、当時はまあ、イギリスもスペインもポルトガルもフランスも、大体同じ手口で世界中に植民地を増やしてた。浸透工作の中で、政権への不満を煽る事もやる。その国の弱体化、国民との分裂を工作する訳。

明治時代は、ハワイにおいてもアメリカによる取り込みの途上にあって、ハワイ王国がようやく気付いて「このままじゃマズい!このままじゃヤバい!」と思って水面下であがき始めた。
日本の皇族とハワイ王族との政略結婚もした。将来性が見込めて自国の味方になってくれそうな他国と関係を強化する。政略結婚なんて、もうこの時代でも既に古いやり方の部類だろうけど、関係ない。もうハワイは背中に火が点いてた。やれることはしなければ。

アメリカの付添(という名の見張り)無しでは公に外出もままならない立場だったハワイ国王が、ある時、アメリカ大使に同行して貰って来日し、ホテルを抜け出して密かに明治天皇とお会いになった。「何とか力になって欲しい、アメリカに乗っ取られてしまう。対抗できるのは日本だけだ。アメリカと戦って欲しい」。そういう旨を嘆願したという。
明治天皇は静かにそれをお聞きになった後、大変気の毒に思うけれどアメリカと向かい合うには、今の日本では国力が違い過ぎる、期待には沿うことはできない、とお断りになったという。双方お辛かったと思う。

その後のハワイ国王族の末路については割愛する。

こういう経緯が過去にあった上で、数十年経って代替わり後の昭和16年(1941)に真珠湾攻撃と考えると、何も関係なかったかも知れないけど、いや作戦の何処かにちょっとだけ、誰かの脳裏にそうした文脈を思った人があったかも知れない、と考えてしまう。

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