「行事が終わると学級は荒れる」は本当か
むかし、むかし。
行事にバカみたいに時数をかけていた時代があった。
例えば学芸会の劇発表に20時間とか。
いかに素晴らしい発表を見せるかが目的。
「素晴らしい」とは、演技がうまいとか気持ちがこもってるとかセリフを間違えないとか声が大きいとか、そういうこと。
演じている子どもたちが劇に入り込んでいたら、それはすごいと高評価。
そうなるように時間をかけて練習し、教師があれこれ指示を出し、その通りになるように何度もさせる。
そうやって猛烈に学芸会に心を燃やさせるから、学芸会が終わった途端にもぬけの殻になる。
急に目的を失い、糸の切れた凧のように子どもたちはふわふわし始める。
結果、学級が荒れる。
それじゃあまずいよね、時数はちゃんと守ろうぜとなる。
で、行事時数きっちりの10時間で仕上げる。
指導内容を精選したり休み時間に特訓したりして時数キッチリに仕上げる。
なんだ、時間かけなくてもいい劇できるじゃん、子どももちゃんと満足感もって取り組んでるぞ。
でも、やはり行事が終わると子どもたちは落ち着かない。
ちゃんと既定の時数を守ったし、前みたいに学芸会一色にしていないのに落ち着かない。
私はかつて、行事のために時数を使いすぎるから、日常を行事一色に染め非日常にしてしまうから、行事後に学級が荒れるのだと思っていた。
でも、どんなに時数を守り、日常の授業を滞りなく行っていても学級が荒れることがあった。
なぜなのだろうと考え続けてきたが、最近その理由がわかって来たように思う。
それは、日常との乖離が物理的なものではなく精神的なものであるから。
日常と行事は当然物理的に乖離している。
だから、物理的乖離を縮めるのには限界がある。
だって違うものなんだから。
しかし、日常と行事は、精神的距離は地続きである。
よく、「行事を通して」とか「行事は日常の現れ」とか言われるが、つまりはそういうことだ。
問題は、「行事を通して」「行事は日常と地続き」をどのように捉え考えているかということである。
私は、日常学級で大事に指導していることが、行事指導でもされているかということであると思っている。
その指導が子どもたちに意識され、行事の中で具現化されているかということでもあると思っている。
例えば、日頃、自主性を大事に指導していたとする。
なのに、行事指導になった途端、教師の言うように動け、セリフを間違えないように覚えろ、と指導する。
よりよい表現方法を助言するのではなく、教師の指導通りに動かす。
セリフを間違えた時にどうすべきかを考えさせるのではなく、間違えないようにさせる。
こうしたところに日常指導との乖離があり、そうした乖離の連続が、子どもたちに無意識に違和感を覚えさせているのではないか。
一貫性のない指導への不信感、不安を増幅させて日常に戻るから、行事が終わったから落ち着かないように見えるのではないか。
もちろん、祭りが終わったあとの喪失感は少なからずある。
だから祭りを凡庸に終わらせ、日常との差をなくそうとするのでは、祭りをする意義、祭りを通して育てるという視点が薄くなる。
そうではなく、日常であろうが非日常であれろうが、大事にすべき指導に一貫性があれば、大きなぶれなく日常を生きることができるのではないだろうか。
それが、日常の育ちが行事に現れ、行事を通して子どもが育つということではないかと思う。
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