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【学校での読書指導、読書推進に思う】


何度か同じことを主張していて、何度か似たような反論をいただいている。
その度に、色々考えなおしたり見つめ直したりするけど、先ほど類似の文章に触れ、やはりどうしても同じことを言いたくなったので、あえて言う。
読書好きな子にするために、という施策。
あるいは、学校の取組。
あるいは、担任の奨励。
私は、やっぱりどうしても「子どもを読書好きにさせる」っていう思想になじめない。
なぜ?
なぜ、読書好きにすべきなの?
語彙力を増やすため。
読解力をつけるため。
知識を増やすため。
理解力を、人生観を、俯瞰力を……。
と、読書には色々な効能があることはわかる。
学力向上のために読書推進、っていう理屈もわかる。
でも。
読書って、そんなことのために「させる」「しなくてはならない」「したほうがいい」ものなの???
同じことを、「生涯スポーツ」にも感じる。
健康のためにスポーツ、寝たきりにならないためのスポーツ、メタボ解消のためのスポーツ、ダイエットのためのスポーツ……。
それらの必要性はわかる。
わかるけど、それは内面の豊かさにつながっているのだろうか。
ここまで書いて、読書の強要も生涯スポーツの奨励も、「雑巾がけをして体を鍛える」に感じる胡散臭さと同じだと気付く。
読書の、スポーツの、そうじの本質は何か?
そんなことも考えずに、必要だから、あったら幸せだから、そうあるべきだからと押し付けているように私には見える。
重ねていうけど、学校が必要性を言うことは理解できる。
理解できるけど、一ミリも肯定できない。
それは本質とはかけ離れているし、そんなもののために読書を洗脳の道具にすることに、非常に違和感をもつから。
読書から学ぶことは多い。
読書は人格形成にも思考の構築にも大きく影響を与えることも否定しない。
生きることに読書が必要だと、強く思う。
本を読まない人生なんて空虚で無意味だとさえ思う。
でも、それは、上から、あるいは、外から押し付けられるものではない。
知りたい、読みたいという欲求は、内面から湧き出るものだと私は思う。
読書は他者との対話であり、歴史との対話であり、世界との対話であり、自分自身との対話であるのだから。
心の底から人生に本が必要だと思うなら、押し付けや圧迫、子供だましのニンジンで習慣づけるのではなく、本を欲するようなアプローチをしたい。
あたかも自然に湧いてきたような、あたかも気づいたら欲していたような。
そうでなければ、読書は義務でありノルマであり、つまりそれは人生における苦痛に他ならない。
内的自発性によって始まった読書は、その人の人生に位置づき人間をつくっていく。
人生になくてはならない時間を形成する。
それが、読書を愛するとか、本を愛するとか、作者や作品をリスペクトするということにつながるのではないか。
「○年○組は、8月に〇〇冊本を借りました」
という報告に、心から嫌悪と軽蔑の念を感じてしまう。
そして、読書ではない他の媒体で豊かに生きられる子がいるとすれば、それはそれで全くよいのではないかと、私は思う。

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