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【教師の仕事の入り口って】

勤務校には20代がたくさんいて、いつでも自由に授業参観してねと言ってある。
だから、ふらっと色んな若手が教室にきて授業を見ていく。
先日は若手の他に30代後半の先生も参観にいらしてた。
その時間は学活で、地域の中学校区で取り組んでいる「いじめ標語コンテスト」の標語づくりをしていた。
毎年恒例のことだから、書け―と言ったらそれなりにみんな書く。
でも、それって意味がない。
まあ、この標語の取組自体どうよ?と思うところはあるけど、書く以上、何をどう書くかを指導するのが大事だと思っている。
で、まずは何を書くかを話した。
けんかとの違い、いじりとの違い、このケースではどうか?この立場ならどうか?と様々な立場と場面を想像させた。

もしいじめられているのが自分の兄弟だったら、兄弟がいじめられているのに周りにいる人が誰も助けてくれなかったら、将来自分が親になって我が子がいじめられていたらと想像させていくうちに教室の空気が変わっていく。
じゃあ、自分が第三者だったら本当に「やめろ」っていえる?次は自分がターゲットになるかもしれないよ、それでも言える?解決方法はそれ以外にないの?
というと教室はシーンとなる。

ほんとうのところ、当事者にならないと分からないんだよ。
その場に居合わせないと分からないんだよ。
本当の気持ちはね。
でもさ、だからこそ想像力なんだよ。
こうしたら相手はどう思うんだ、その後ろにいる親や兄弟や友だちはどう思うんだ、自分がこうしたらどうなるんだとあらゆることに想像を巡らせて行動することでしかいじめはなくならないと思う。
だから、きれいなことばで表面をなぞるような標語なんか書いても意味がない。
普通のことばでいいし、ありきたりの中身でいい。
でも、そのことばに心がちゃんと乗っかっているかが大事さ。
想像力を膨らませて書いてごらん。
と話した。

その後、どう書くかというスキル(七五調がいいよとか視点を定めるとか)を少しだけ話して制作時間。
どの子も一生懸命考えていた。
たくさん悩みながら書いていた。
中には日本語としておかしいものもあったし、気持ちだけで書いているから伝わらないものもあったけど、私はそれでいいんだと思っている。

子どもたちのその姿を見て、30代の先生は泣いていた。
子どもたちが一生懸命考えるその姿に心が揺さぶられたのだと。

そうか。
私たち教員の仕事の入り口は、やっぱり、子どもの一生懸命をいかに引き出すかなのだ。
いかに本気にさせるかなのだ。
「わかる」「できる」「より高度なものを志向する」は、一生懸命の先にあるものなのだ。
そう思う。


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