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ザスパって「会社」でもあるんだよね

試合結果とは別に、「ここのところのザスパ、なんか変わったね」と思われている方は多いのではないでしょうか。自分もその一人です。

設営撤収をやっていると、スタッフのみなさんと接する機会も増えます。また、実は前橋の祭りへの参加なども仲間と共にやらせてもらったこともあり、こちらも違う立場でクラブと接します。どちらも長くやっていると、その時々のスタッフの雰囲気から感じるものがあります。特に事業会社としての株式会社ザスパ(旧 草津温泉フットボールクラブ)についてです。
もちろん、事実関係を確認しているわけではないので、主観と憶測になりますが。

結局、何が言いたいかというと「これからザスパという会社は面白くなりそう」ということです。

大西さんの「夢」

先月、撤収中に怪我をしてしまい(みなさん、ご迷惑をおかけしましたm(__)m)あまり動けなかったので久しぶりに「サッカーがやってきた - ザスパ草津という実験」を読み返したり、昔話を書いたので、更に昔のことを思い返したりしていました。

「大西さんの夢」と言っているのは、たしか J 昇格初年度シーズン終了後のサポカンだと思いますが、そこで当時社長であった大西さんがお話になっていたことです。

だいぶ記憶が曖昧で、文字起しされたものも良い物が見つからなかった(クラブでお持ちでしたら再公開を!)のですが

「ドイツ留学した時のことですが、地域のトップチームが、地元のチームと試合をする。村の人がラインを引いて準備したり、おばあちゃんが誰それの息子だと応援したり、試合後もそれを肴に子供から老人まで楽しむ」

と、言うような内容だったと思います。

当時は、J昇格が決まったばかり、プロスポーツすら良くわかっていなかったのでピンと来なかったし、もっと華やかなものでしょう? という印象でした。

設営撤収応援隊が始まった頃は、「これのことかな」とも思いましたが、そんな浅いものではなく

地域と共に在りたい

という、ことなのかな。と、今は解釈しています。今も時々思い出し、設営撤収応援隊のヴォランティアやその他の活動が続いている根底にもなっています。

ザスパには何も無かった

設営撤収でご一緒した、あるザスパ経営者の方から「社長になってみて、びっくりするくらいお金が無かった」という、お話を耳にしたことがあります。
お金はもちろんですが、決定的に「地域とのつながり」が無かったのではないかと。

他のクラブでも、もちろん最初から有ったわけではなく、多くの時間や多大な苦労を払って得たものであると思いますが、ザスパには、J昇格の経緯やその後のクラブ状況から、望んでいてもそのことに向き合う時間さえ無かった。あるいは、それを忘れて無理な強化へと突き進んでいた? などと、思っています。

サポーター仲間と話したことが有るのですが、ザスパは、「試合の日に敷島にぽっと現れるだけ。前橋周辺に居ない人にはそれすらない」のではないか。生活の近くに無い。
そんな思いから、前橋のお祭りや清掃ボランティアへの参加を動きました。
祭り参加がゴールですが、それまでの過程、七夕であれば飾りの材料をなるべく地域で調達したり、お昼を食べたり、だんべえ踊りであれば、だんべえ踊り教室という地域のコミュニティに入っていったり、「ザスパを応援している者が地域に居る = ザスパが地域に在る」を意識しました。これはクラブにはリソースや諸々難しいことかもしれません。むしろサポーターだから出来ることなのではないかと思います。

もう時効だと思うのでお話ししますが、祭り参加などの時に「ザスパ」という名前を使うことが非常に大変なことでした。商標や選手の肖像権など守らなければならないものがあるのはわかりますが、当時はその「守る」意識が非常に強かったと思います。J リーグに上がったのに、なぜ応援してもらえないのだろう? でも、守るものは厳密に守ります。
ザスパ「を」応援してください。と、言うばかりでザスパ「で」何かをすることがとても大変、むしろ、出来ない。そんな感じでした。仲間内で「ビッククラブ病」なんて言っていたこともあります。

話が逸れました。

それぞれの役割が有ったのだと思います。

事業会社の方向性というか、雰囲気は小さな会社(失礼!)では、巡り巡ってやはり「経営者」の方々なのだと思います。

まずは、J昇格直後の不祥事です。今思えば、あの時はああするしか無かったのかな、とも思います。奇しくも、「サッカーがやってきた - ザスパ草津という実験」の帯は、件の仮設スタンドの写真ですw 止まったら終わりの経営は想像できない苦労も有ったのでしょう。J に上がりさえすれば何とかなるという見通しもあったのかもしれません。堅持さんがあのまま社長だったらどうなっていただろう。と、思うこともありました。

この後、突然の経営者交替。病を押して、試合興行とトップチーム運営のみで精一杯だったのだと思います。

完全に現場の方で、状況を打開するためには、勝ちしかない。J1に上がるしかないという方針の方。
J に上がりさえすればなんとかなるはずだった興行も営業も上手くいかず、それでも勝てば全て上手くいくはずだからチーム経費は落とせない。
これも一因となって訪れた経営危機に外部から経営に当たる方を招くことにもなります。

コストカットを使命とした方。

増資を成功させることが命題だった方。

設営撤収はコストカットの一環で始まりました。スタッフは出入りを繰り返しながら減少傾向。今では許されないような時間を業務にあて、みなさんとても大変そうでした。自分も雇用される立場なので何となくわかりますが、うわ、これは大変だ。という感じです。目の前の作業をこなすだけで精一杯。なにか新しいことを考えたりは、とても無理ですよね。

別の目的を持っていたと思しき地元の有力者。あのまま成就していたらと思うとゾッとしますが、当時のパートナーが残ってくれていたり、良くも悪くも地域の認知度は上がったり、手腕(剛腕? 強引?)の一部は認めざるを得ない部分もあります。ただ、雰囲気はご想像通り、とても良くなかったです。
それから、あの時のメンバー外の選手を撤収に参加させます。というのは、もう二度とやらないで欲しい。見るからに罰ゲームでしたし、怪我でもしたら元も子もない。本当に誰も幸せにならないことだったと思います。

J3 となってからは、昇格というムーブメントは有りましたが、あんなにクラブ、パートナー、サポーターが一つになれたのは、ひとえに奈良社長のお人柄のおかげだったと思います。

そういえば、J3 のロゴって J が白抜きってお気づきですよね。バック中央の通称 J 看板を設置撤収の時に「早く色付きにしたいですね」なんて会話をしていました。

と、良い悪いではなく、歴代の経営者の方々はそれぞれ、その時の役割を全うされていたのではないかと思います。

今の森社長の就任が発表された時に、もしかしてザスパは本当の「経営者」を得られたのかもしれない。と、思いました。

今は、自分の接する範囲では雰囲気はとても良いです。過去最高と言っても良いかもしれませんし、新しいことをやってみる熱のようなものも感じます。イベントや試合興行以外の部分についても、ザスパ「で」なにか出来ることがとても増えているように感じます。制限の多い状況を考えると、とてもすごいこと、とも思います。

試合興行が事業の柱である以上ある程度仕方のないことですが、チームの勝敗とは別の、ザスパという会社が地域にある価値を高めていって欲しいなと思っています。前述のようにあるべきものが何もないような状態はあまり変わっていないので大変なこととは思いますが。

大したことはできませんが、これからも自分の出来る範囲で関わっていきたいですね。なんと言っても、楽しいので!


大西さん、だいぶ遠回りしてしまいましたが、徐々に地域と共に在るクラブになっていますよ。きっと。

おまけ

甲府さんに大敗のあとですが、設営撤収に関わり始めてから訪れた小瀬の小さなバナーの多さに興味を覚え、同時に経営難も表面化している時期だったこともあり調べてみると、解散危機と海野さんのお話が出てきました。同じことが出来る訳ではないですが、とても参考になるし、プロスポーツの見方の一つとしてとても面白いなぁと思いました。クリーニングの話がとても好きです。

私事ですが、おそらくJリーグ初観戦は、2000年代最初の頃、たまたま訪れた小瀬(当時の彼女が山梨...どうでも良いw)で後半から入った甲府さんの試合だったと思います。今思えば、ちょうどそのストーリーの最中だったのですね。スタジアムの中にはこんな世界があるんだ!と驚いたものです。
中学の部活(バスケw)が終わって帰ってから「ダイヤモンドサッカー」(誰も知らないw)を観ていた程度にはサッカーに興味はあり(経験はなし)、J 開幕から TV 中継は観るけど、チケットを取って田舎から出かけるほどではなかった。そんな者には、地元にプロスポーツクラブが出来たというのはとても嬉しいし、価値のあることです。

自分の子供の世代に、群馬のエンターテインメントの一つとして当たり前となってもらうためにも、10年後、20年後にザスパは群馬に残ってもらわなければなりませんね。

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