長い間夢小説を書いてきたオタクが気づきを得た話

夢小説と出会って大体20年になる。完全創作話や、二次創作でもカップリング話、イラスト、漫画などを書いていた年もあったので、20年まるまる夢小説を書いてきたとは言えないが、そのうち15年ほどはなんらかのジャンルで夢小説を書いていたはずだ。今も書いている。
そのことを恥ずかしく思ったことはないし、今もない。楽しく書き続けてきたし、これからもより一層楽しんで書くと思う。

しかし今回、もしかしたら夢を好きになってから初めて、自分の中の夢創作にまつわるスタンスに対して否定的な言い方をするので、夢を好きな人はどうか飽くまでこれは私の話であることにご留意いただければ幸いである。

2020年7月5日、私はとあるついーとに出会った。

みかみ(@mmmikami_)さまによる、『審神者として生きてみた話です』である。

こちらを拝見した際、私を襲った衝撃は大きかった。なぜなら、私は長く夢小説を好み、読み、書き、過ごしてきたにもかかわらず、こんな風に『生活の中にコンテンツを実装』したり、『対話』を行ったことがなかったからである。(キャラクターを解釈することを対話と言うことはある)

これは、『私はハイファンタジー作品ばかり好きになりがちだし……』『自分が目の前にいるように話しかけてくるタイプの作品にハマる方が珍しいし……』というような次元の話ではないように思った。

最初の方に仰られている「楽しいは自分の中にある」は私も強くそう思う。けれど、私は『実際に本丸を持つ審神者として生活をする(意識する)』ような試みは一切してこなかった。
『刀剣乱舞というゲームを通して、プレイヤーは実際に審神者として歴史遡行軍と戦っている』『刀剣乱舞というゲームこそ時の政府が開発した歴史遡行軍と戦うための手段である』というような発想はしていたにもかかわらず、である。
(キャラクターになりきる文化は通過したことがあるが、今回は作中で『自分』として用意された立場に実際に自分を置くことなので、所謂『なりきり』とは異なるものとして考えている)

端的に言うと、私の今までの夢創作活動は、エンタメや快楽のコンテンツとして消費するだけのものだったのではと感じたのである。
美しい風景はいつだって頭の中にあり、今目の前にある風景を持ち込むことはない。遠くに居る誰かのために写真を撮っておこうという発想もそうだ。twitterで頻繁にやりとりをする人に見せようという気持ちは私の中にもある。しかし、現実のものを架空の世界に送ったり、その逆をするのはいつだって夢創作の中だった。現実と地続きではなかった、という意味だ。

私が夢創作を通して酷く快楽的にキャラクターを消費しているのは、多分間違ってないと思う(繰り返しになるがこれは私の話であって、他の人の話は今していない)。
話の描き方における技巧、話としての完成度。もっと文章が上手くなりたい、もっと絵が上手くなりたい、という強い気持ちは昔も今も持っている。それを悪いと思ったことはない。良し悪しの問題ではないと思っている。
しかし、あまりにもそちらに傾倒するあまり、会話を疎かにしてはいなかっただろうか。みかみさまの活動が眩しく、フレッシュに感じたのは、私自身がそのような感性を磨いてこなかった証左ではないだろうか。

非常に恥ずかしい話で恐縮だが、神話や聖書、ノンフィクションであろうと『作品』という形態を、『エピソード』というくくりになるものの恐らくほぼ全てを半ば架空のものとして、コンテンツとしてしか見てこなかったツケのようなものを感じている次第だ。この『恥ずかしい』感覚は、「誰かの気持ちや生き様を想像して意識しつつ生きる」事に対する疎さに対するものだ。瞬間的に、偶にならできても、生活の中に取り入れているとは言いがたい。私の性質や能力の限界もあるのかもしれないが、仮に多少できたとしても『その時一番考えている相手一人』に絞られる。

2020年7月5日現在、刀剣乱舞には80を超える数多くの刀剣男士が実装されており、みかみさまの本丸にも多くの刀剣男士が在籍していることと思う。全ての刀剣男士が在籍していなくとも、大変な数だ。彼らを統べる審神者として意識しつつ生活するのは、少しずつ在籍数が増えていく事を考えても軽く想像するだけでパンクしそうだと思ってしまう。(今の今まで至らなかった考えだが、どこかの本丸では、育成数を絞ってそれ以外は連結・刀解するというようなこともあるのだろうか。あるのかもしれない)きっと、生活のほぼ全てを費やしてやっと……というところだろうか。上手くやっていけるのか不安しかないが、私が同じような試みをするなら、まずそこから彼らと話して決めていくことになるのだろう。と、考え始めると、少しわくわくしてもいる。

みかみさまは、この活動を『物語のようなもの』『一つの作品みたいなもの』としている。他にも、私のtwitterのタイムラインには、実際にキャラクターが生活どころか人生に対して強く影響しているフォロワーがいる。それを本に纏めた人もいる。私に足りていないのは自分の身にも起こっているはずの『物語のようなもの』『一つの作品みたいなもの』に対する感性なのかもしれない。私はそれを、創作活動による仮想空間でしか感じることができないでいる。しかし今回の『気づき』は大きな発見だ。今までスタンスの違いだろうと思っていたし、それでいいとも思っていたが、自分のそういったある種の諦めを打破しうる可能性を感じたのだから。

快くついーと掲載許可をくださったみかみさまに改めて、そして重ねて感謝致します。ありがとうございました!

余談1:みかみさまの漫画による活動の纏めを拝見した際に、漫画や文章としてまとめ、発表することによる『力』を感じた事もまた事実である。形にする以上なにかしらの『力』は存在するであろうとは言え、私は作品の持つパワーが弱点だとでも言うのだろうか。
余談2:夢創作において私は『夢主はアバター』派あたりにぼんやり生息している。


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