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死ぬまで

ゆるふわ無職くんは「死ぬまで生きるしかない」という言葉を胸に秘めて──正確にはブログ記事(https://yrfwmsk.com/152-2/)として公開してくれているが──生きているらしい。

俺は彼のことをかなりクレバーで、常に中道の視点を忘れず、しかも良心的な人だと思っているので、きっとそれは長い時間と批判的思考をかけて研磨されたポリシーだろうと思う。
抽象的な人生の指針を決定するにあたって、思考のリソース(=思考の深さや時間)が有限である以上、「何を言うか」よりも「誰が言うか」の方が大切じゃないですか。

しかし「誰が言うか」の点に関しては再現性も客観性も乏しいような、俺とゆるむしょくんとの関係性の中でしか見出せない価値なわけで、俺個人としてはそれはもうとりあえず信じるに値するものだが、「何を言うか」という観点=内容についても少し考えてみたい。
なぜなら俺は人の“魂”だったり核(コア)の部分に触れるのが何よりも大好きな変態だから。加えてそうしたコミュニケーションこそ「本当」だとも思ってる。
ゆるむしょくんの核(コア)はきっとユニークな風光を観せてくれることだろう。



20世紀最大の哲学者のひとりであるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の中で「死は人生の出来事ではない。人は死を体験しない」と書いた。これはすごい哲学者だから(=誰が言うか)とかでなく「何を言うか」のレベルで俺もその通りだと思っている。人は「死にゆく自分」を認識できたとしても「死んだ自分」や「自分の死そのもの」を認知したり、体験することはできない。つまり死とはその意味ではどこまでも“他人ごと”であって、自分ごととしての死はまったく「語り得ない」のである。

ちなみにウィトゲンシュタインには兄が4人いたが、そのうち3人は次々と自裁している。ウィトゲンシュタインの生涯とはつまるところ、(遺伝的にも環境的にも)兄たちのような自死衝動との闘争にほかならなかった。
まぁ先にネタバレしておくと、彼自身は前立腺がんで62歳の天寿を全うするまでは文字通り「死ぬまで生きた」。

ウィトゲンシュタインの有名な「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」という言葉は、周囲の無理解や孤独、憂鬱、当時激しい差別のあった性的指向などの苦悩に苛まれながらも、生涯死に対して沈黙を守った彼の実践的哲学だった。
真理は実行されなければならない。

彼を生かしたもの、それは揺るがぬ哲学以外にも、キリスト教への信仰や情熱を傾けることのできるライフワークによるものだったと考えているが、煩雑になってしまうのでここでは割愛する。



語り得ぬ死、多くの人にとって“他人ごと”の死を「完全に終わること」への恐怖=実存的な自分ごととして実感できる人は限られている。
ゆるむしょくんの過去記事や代表作『 徘徊する肉塊: ウォーキングニート』などから拝察するに、それは「存在の不可解さ、頼りなさ」とともにニーティング・ライフの中で見つけたものだろう。
彼は寝そべることで根源的な苦しみを発見したのだ。

人は死ぬまで生きることしかできない。
逆に、死んだように生きることは可能だ。自分ごととしての死を体験できない以上、それこそが人にとって究極の“死”の体験だと俺は思う。次点で遺された人たちに忘却されることだろうか?(これはいつかどこかで書くが、仮にすべての人に忘れ去られたとしても、今、お前が死んだように生きることよりも全然“死んで”いない)
やりたくない仕事に就いて自分を殺して頑張ることを“死”と受け取る人もいれば、広く信じられている努力義務を放棄して寝そべる姿に屍を観る人もいることだろう。死んだように生きることについての感じ方がそのどちら側にあるにせよ、死ぬまで生きればいいし、死ぬときは死ねばいい。

まぁしかし、ひとまずは、死ぬのは一度「完全なシラフ」になって「正しく現実を認識できる」ようになってからでいいと俺は思う。おもにインターネットで人口に膾炙しているような「抑うつリアリズム理論(depressive realism theory)」はある側面からの正しさしか捉えることができていない。生物としての死は不可逆だが、智慧の完成は無限の未来へと広がっているからだ。そしてお前はまだ死んでいない。鬱病患者は四聖諦のうちまだ一つ目しか現観できていない。
もしお前が自分ごととしての“死”を発見したならば、そしてその重さに耐えられないときは、生きて念佛を称えるといいだろう。

無限に繰り返される生と死の流転を観じ、すべての行為(カルマ)を極楽浄土に廻向せよ。
この苦界での快楽追求ゲームをまったく捨象し、法(ダルマ)を欣求し続けるのだ。


南無阿弥陀佛

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