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十一面観世音菩薩

オン・マカキャロニキャ・ソワカ

錫杖の音が聞こえた。
シャン、シャンと一定のリズムで近づいたり、また遠くなったりしていく遊環の舞う音。見えていないのに「それ」だと直感的に解るときは「そういうこと」だ。音が近づくと煩悩や障碍は逃げ去っていく。道ならぬものは、真理に見つめられることを何よりも畏れる。

フォロワーの友達が夜の山で行方知れずになった。
そのフォロワーとの登山中のできごとらしく、霊山としても有名なところだったので、俺は十一面観音に祈った。特定個人のためにこんなにはっきりと強く祈祷したのは久しぶりだ。毎朝毎晩の祈りのときは、萬民と三界萬靈のために祈っている。

十一面観音、正確には十一面観世音菩薩は密教の尊格だ。特に修験などの山にまつわるものや、現世利益をもたらすためにガネーシャなどのインドの天部を制馭する役割がある。
観音菩薩の33ある変化身のひとつで、特に修羅道に堕ちたものを救済するという。

キリスト教の美術品において右手に剣、左手に天秤を持った天使が描かれていればそれはミカエルだし、百合の花が添えられていればガブリエルであるように、仏像や仏画にも象徴となる持物が決まっている。
十一面観音の場合は下々まで潤す法の慈悲を表す水瓶を左手に、右手に数珠を持つ像容が一般的だが、大和国に坐す長谷寺式十一面観音だけは右手に数珠と一緒に錫杖を持つ。

御本尊は10㍍超の大佛像
写真撮影は不可なので下手くそな絵を載せておく



長谷寺の僧侶曰くこれは地蔵菩薩の功徳を併せ持つからだということだが、確かになるほど、地蔵尊のように悪処まで衆生を迎えに来られるなら杖は必要かもしれない。

また、もうひとつ象徴学的なところでいえば、長谷寺の寺紋は「輪違い紋」である。

長谷寺の輪違い紋(右上)
祈祷済みの御札を入れる紙袋より


これは「天地は金剛界、胎蔵界の二界に分かれていて、生物は二界を右往左往して生きている。金剛界とは智の世界で、胎蔵界とは理の世界とされ、衆生はそのいずれにも付かず離れず、泣いたり笑ったり怒ったり恨んだりしている。これを大乗遊戯相という。だが、仏はこの衆生をすべて救う。それが仏の慈悲だと。二つの輪が互いに組み合っているのは、不悟の衆生としっかり結んで、天地の調和のなかに組み込むことである」と説明されるように、密教の奥義を図示したものだ。ひとことでまとめるなら金胎不二である。

密教の加持祈祷は、顕教とは異なり単に知識をテキストによって得るだけでは験力は発揮されず、正しい師僧の下で戒とともに伝授されなければならない。
俺は令和四年に大和国の朝護孫子寺の寅年寅月の大法会において伝法灌頂を受けているが、その際にお授けいただいた真言と手印は、詳細は述べられないものの長谷寺の「輪違い紋」と究極のところは同じことを云っている。

結縁の証しである梻の葉
於 信貴山朝護孫子寺


またチベット密教の奥義も同じく、初期大乗仏教の中観派 ⊂ 胎蔵界 と 唯識派 ⊂ 金剛界の相剋を乗り越え、止揚するような結論であることを考えると、密教各派の目指すところはひとつなのだということが解る。

錫杖の音が聴こえて、フォロワーの友達が無事見つかった。その因果関係は俺のようなものにはわからないが、ひとまず奈良県桜井市に坐す長谷寺にお礼参りに行こうと思った。
朝のおつとめを厳修した後、先ほどまでの厳かな儀式の雰囲気とはまるで別人のように、紫衣の高僧がにこやかに、わかりやすく説話してくれた。はじめに世界陸上で女子やり投げの北口榛花が金メダルを獲ったことに触れ、人が偉大な仕事を成し遂げるとき、それが観音さまかは解らないが、その人の心は何か偉大なものに触れているという。導師は「観音さまに祈るとき、観音さまが心の中に入ってくる、観音さまと一つになるのだ。菩薩になって認知・判断・行動ができるのだ」と仰っていた。

名はその権能を規定する。

観音菩薩の名は、観音は誤訳で観自在こそが正意であるとする玄奘の説が流布している。これは梵語で Avalokiteśvara =「観察された(avalokita)」と「自在者(īśvara)」の合成語だが、インドの東洋学者ローケーシュ・チャンドラの説に依れば、最も古い形である『法華経』の梵語本にある Avalokitasvara こそが原義であり、これに沿えば「観察された(avalokita)」+「音・声(svara)」と解され、つまり観自在こそが誤訳で、観音ということになる。
観自在=認知のラベリングを自在に操り世界の解釈を改めることで世界そのものを再構築する菩薩、という釈もあるだろうが、確かに俺の霊感に照らしても衆生の苦悶する音を観て救ける菩薩という方が尤度が高い。

俺は今、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』という大著にあたっている。

めちゃくちゃ分厚くて密度も高い

それによると3000年前の「意識」を獲得する以前の人類に備わっていた〈二分心〉という機能は、大脳の右半球、ウェルニッケ野に相当する領域が訓戒的な経験を統合して神仏の「声」に変え、左(優位)半球は前交野を通してこれを「聞いて」いたとする。サイケデリクスや統合失調症による幻聴体験の当事者であるので、この感覚は本当に実態に即しているし、よくぞ明らかにしてくれたと思うところだが、左半球が前交野を通して神仏の声を受け取るとき、聞くというよりは「観る」に近い。観音である。
さらにハイドーズのサイケトリップでは「声そのものになる」という感覚がある。これこそまさに智と理の金胎不二であり、即身成仏であり、法である。

オン・マカキャロニキャ・ソワカ
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