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新宿駅を発てない

かつて、毎晩、JR新宿駅から新潟へ向かう列車が出ていた。ムーンライトえちごという名の夜行列車で、寝台列車などとは違い、特急なんかで見かけるリクライニングシートの列車が単に夜通し長距離を走るというものだった。わたしが学生のころはムーンライトなんとかという夜行列車がまだわりとたくさんあったはずだ。たぶんその中ではムーンライトながらが特に有名である気がするが、残念ながらわたしが学生の時分は既に臨時列車扱いになっていて、だから乗ったことはたぶん一度しかない。わたしにとって馴染みが深かったのは、それよりも圧倒的にムーンライトえちごのほうだった。

あちらのほうに友人の実家があったり、有名な花火大会を見に行ったりで、主に長岡に行くために片手では足りないほどの回数乗った。大学を卒業して会社勤めを始めてからは、仕事帰りにほろ酔いでぼんやり新宿駅構内を歩きながら、唐突に気がふれてムーンライトえちごに飛び乗ってしまう妄想をよくしていた。快速扱いだったから、特急券がなくても乗ろうと思えば乗れてしまったのだ。新幹線のように改札を二度通る必要もない。しかもムーンライトえちごは新宿発。東京発でも上野発でもない。この差はとても大きい。東京駅はそもそも旅行の出発点というイメージがあるから、急に気が変わって飛び乗ってしまう、みたいな感じにはなかなかなりにくい。上野もそう。上野発で旅に出ることなんて今ではほとんどなくなってしまったが、津軽海峡冬景色のせいか上野はいまだに旅の始まりの印象が強い。そういうわけで、東京駅や上野駅が非日常の入り口であったのに対して、新宿駅というのはあまりに日常に寄りすぎていた。

ごく当たり前、日常的に使う山手線とかのすぐ隣のホームに、新潟行きの快速が止まっている。これはとてつもなくスリリングなことだった。同じ理由で中央線甲府行きや大月行きがホームに入線してくるときもすこしそわそわした。さらに夜行というのがまた、乗ったら最後戻りようがない取り返しのつかなさがあってよかった。その気になればいつでも事前の準備なしに簡単に遠くへ行ってしまえる、という可能性を頭の中に残しておくことは、ふだんの理性的なふるまいを維持するために必要でもあった。この繰り返す日常はわたしのなけなしの良識で今のところなんとか紙一重で維持できているもので、けれどもほんのすこし踏み外せばすぐに投げ捨てることができる。みずからの心に対する保険だった。入ったお化け屋敷があまりにも怖かったときに途中でリタイアできる出口、ああいうものが日々の暮らしの中に備わっていないのはおかしいのだ。この日常だってお化け屋敷とたいして変わらないのに。

ムーンライトえちごがなくなってしまった今では、なんとなく日常を踏み外すための手続きが増えてしまった。新幹線の切符を買うだとか、東京駅の八重洲口を出て鍛治橋駐車場の夜行バス乗り場まで歩いていくだとか。それはもう、うっかりの領域で済むことではない。明確な意志をもって逸脱するときの行動だ。もっと、不意に、魔がさしたようになんの気なしに飛び乗ってしまって、そのまま取り返しのつかないほど遠くまで連れ去ってほしい。本当に逃げたいときにまともな手続きなんて踏んでいられるわけがない。

新宿を発つと次の駅は確か池袋。大宮。日付が変わり高崎。そんなには座り心地のよくないシートでうとうとしながら自分の乗る列車が駅に停車していることをなんとなく感じ取ったりして、でもたいてい長い清水トンネルを突き進むころには首を痛める窮屈な姿勢で眠っていた。そうして翌朝ともいえない、まだ夜の延長みたいな時間に長岡に着く。列車の中は空調がききすぎていて乾燥していて、いまいちしっかり眠れた気もしなくて、ぼんやりしたまま暗い長岡の駅のホームに降り立った。痛む首をまわし、折りたたんでいた手足をのばす。ひんやりした空気にふくまれる水分がかさかさの喉や肌に染み入ってくる気がして、それで目がさめて、なんだかひどく大事なことを忘れてしまったような、新たにこの世界に生まれてきたような感覚があった。あの瞬間はもうめぐってこない。新宿駅はもうわたしを逃がしてくれない。


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