見出し画像

やりなおしている

やりなおしている。そう思う。過去の、いつかの、やりなおしを生きている。輪廻とか、そんな話ではなく。もっと短いスパン。きのうだったり、1年前だったり。幼少期だったり、思春期だったり。あのときのアレを。


あくまで現実に生きた日のやりなおし。それが現在の自分に課された日々であるような。来る日も来る日もやりなおす。といっても、同じ日はない。歴史は繰り返すのではなく、歴史に対する人間の判断や行動が繰り返す。と、たしか中井久夫が書いていた。そう、人間はどうしたって繰り返しちゃう。だから、やりなおす意志を絶やさずにおく。


ずいぶん内省的になったと、数年前の日記と現在を比較して思う。ことばが内側へ向かい始めた。やりなおして、やりなおして、ようやく。これは良いこと、たぶん。文章も以前より比較的ととのっている。少しはマシになった。


人は、問いを聞くのだと思う。「話を聞く」とは、問いを聞くこと。 さらにそこから、問われる者としてのみずからを照らすこと。いつも問われている。逆にいえば、問われなければなんら聞こえない。同様に、目にも入らない。問いを聞き、問いを見ている。


ただ問いを深めたい。聞く耳と、見る目を保つために。話す口だってそうかもしれない。書く指も。しかし毎度、ありきたりなことばかり書いたり話したり。きのう生まれたみたいに。なんせやりなおしだった。「あたりまえ」を再発明/再発見して、ひとりおどろいてばかり。まったくね。


高校生のころ、数学の教師に「幼稚園からやりなおせ!」と怒鳴られて意気阻喪したけれど、いまなら「それもいいっすね」なんつって笑える。やり残したことは、どの時間にもかならずある。その時だけではとてもとてもやりきれない。いかなるときも、やりきれていない。悲しくても楽しくても。だから、もう、ずっと、やりなおしている。







にゃん