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ラストトーキョー、新宿の「みんな」

お昼に家で蕎麦を食べながら、NHKのドキュメンタリー「ラストトーキョー」の再放送をみた。“はぐれ者”たちの新宿・歌舞伎町。俳句一家の屍派が登場する。北大路翼さんの句「ウォシュレットの設定変へた奴殺す」で父が腹を抱えて笑っていた。「ほんとそう思うよ!」と共感を示しながら。大いに心当たりのある感情らしかった。水の勢いゆるめてごめん、と思った。

屍派の拠点、砂の城で「全員が自分の話ししてる、この美しさを撮ってほしい」と北大路さんが冗談っぽく言う。美しいかはわからないが悪くない光景だと思う。わたしはよく知らぬ他人の噂話が嫌いだ。幼稚な考えだと釘を刺しておきつつ、心の底では自分の一切を他人にどうこう言われたくないと思っているし、他人のことをとやかく言いたくもない。

自分の見た、感じた、近しく親しい範囲に心を砕きたい。できるだけ繊細に切り取って。わたしの築いた生態的地位(ニッチ)だけ。そしてあなたのニッチも聞きたい。ひとつだけある地位。孤高の生態。そんな姿を互いに語ることができれば、聞くことができれば。それは「美しさ」にもなり得るだろうか。自己を押し込むためではなく、ただ、あなたとわたしの存在する位置を確からしくすることばだけを。

と思いつつ、どうも「自分の話」が苦手なところもある。素直に心をひらけない。「ラストトーキョー」はちょうど芝居っ気のない素直な人々をよくうつしていた。NHKのディレクター柚木映絵さんによるセルフドキュメンタリー。つまり、まるごと「自分の話」でもある、そんな構成。

カメラの介入によって生じる特有の素直さもあったかと思う。突っ込んだ内容でも余計な意地や見栄を張らない、なだらかな柚木親子の会話が心地よかった。それぞれの年月がじんわりと重なりなじみあうような会話の運動が見てとれる。

「新宿の地下には主が住んでいて、人々の足音を食べて生きている」という、柚木お母さんの想像力にはっとする。「新宿のネズミ」を自称する母親。それは彼女が生きた場所で築いた、生態的地位の名である。

はぐれた感覚。あぶれた人々。わたしもそう。他人が何の気なしに「みんな」と口にするとき、その無邪気なくくりに自分は含まれていないのだろうなと思う。テレビをつけてもラジオを聞いても、底冷えするような空々しさが滲み出してくる。マスから、どこかで決定的にはぐれてしまった。「みんな」に焦がれる気持ちと、含まれたくもないヒネた思いの両面で距離を測っている。

しかし、どんな“はぐれ者”にも居場所がある。「いる」とは、弱さなのだと思う。居場所はそれぞれの弱さが附合する場所のことだ。弱いところに人は居着く。そして弱さでつながる。「ここに居たい」と思える場所には、自分の弱さがあらわれている。シーンとして露頭する新宿の人々の居場所は同時に、人々の弱さの形態でもあった。

いっぽうで人間には仲間の不在を受け入れる強さがある。みずからもまた、いつでもいなくなれる。そこに人の切なさと心強さがある。愛しさも忘れてはいけない。いないものを思える。「いる/いない」の認識がそこまで截然と分けられてないのだろう。フィクショナルな次元でつながりを保てる強み。

言い換えれば、移動できる強みだ。遥かむかし、ご先祖さまがアフリカからえっちらおっちら歩みを始めた強みだ。いまもまだわたしたちは飽きもせず歩いている。ひとつの場所に居続けることはない。歩みを止めては新宿の地下で足音を食べる主が飢えてしまう。

いつもたくさんの人が歩いている。新宿へ行ったら思い出して、ちょっとだけ足音を大きくして、想像してみる。みんなが新宿の主に足音の餌をやっている。そんなくくりの「みんな」の輪の中へなら、わたしも入れるから。いい話を聞いた。






にゃん