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「なくし方」の表現形

2019年11月5日(火)

湖のほとりで、ご年配の方々が集合写真を撮っていた。和気あいあいとたのしそうに位置を確認している。しかしカメラを向けられ、「撮ります」となると全員が一気に静まりかえるのだった。息を殺すように。空気が張り詰めるの。それがまたおもしろかった。

なんてことのない習慣的な光景かもしれない。でも変だ。写真に音声は入らない。さわいでいたってかまわないはずなのに。「魂が抜かれる」と本気で信じているかのよう。あるいは「いまからわたしたちは写真になるのだ!」という固い意志統一が図られるかのよう。

「写真に撮られる」のではない。もっとずっと能動的に「写真になる」。そのためにポーズを固定し、黙りこんで、時間を閉じこめる態勢に入る。生身の人間たちが息を殺し、写真と化す。緊張が走る。撮影が終わると脱力して、ふたたび歓談がはじまる。

「ほんとうはみんな無意識に魂が抜かれると思ってる」「タマとられる、と」「魂が抜かれないように息を止めるのかも」などと、その場で友人に話をした。でもいまは「写真になる」説が有力に思う。魂でいえば「抜かれる」のではなく、みずから「抜く」。抜け殻になる。

そんな演技をしている。写真になる演技。3次元から2次元になる演技。立ち位置を決める時点からすでにダウンコンバートの準備が始まっている。3次元世界から一瞬だけトリップするために。いなくなるのだと思う。ちゃんと構えて、ちゃんといなくなる。写真はそんな「なくし方」の表現形。撮影が終われば、ホッとしたように戻ってくる。

カメラを向けられることが苦手なわたしは、そのたぐいの演技が苦手なのだろう……。やろうとすると過剰なポーズになる。すこしのうそでいいのに。おおげさなうそをついてしまう。自分を殺し過ぎるのだ。なくし過ぎる。満面のつくり笑顔はよく、「ビンタしたい」といわれる。殺すなら完膚なきまでにぶっ殺す。がっつり殺されにいく。腹が立つほどの笑顔を差し出す。「さあ、こいつを殺せ」と。ちょうどいい感じのうそじゃ、くすぐったいから。 大袈裟だね。

単になくなるものがいい。
撮る側としては、それがいい。

なくそうとしなくても。



にゃん