日記422 バカの言い分

散歩をしていると、ときおり「スキップを我慢しているじぶん」というものに気がつきます。いやスキップだけではなく、もっといろいろな歩行の方法を。そろそろ、二足歩行もあらたな段階へと進化してもいいと思うのです。どうなの二足歩行。単にとぼとぼ歩行をするのって、非常にだるい。わたしにとっては、とても抑圧的で気詰まりな歩行だと思う。

うちのちかくに、知的障害者の方などが働いている施設があって、たまにそうした方とすれちがうのですが、もう感情むき出しの、みるからにたのしそ~なルンルン歩きをされている男性がいて、いまこの瞬間を全力で謳歌するような雄叫びをあげながらスキップともちがった、なにかこう、得体の知れない身体表現がそこでは行われており、いつも感心してしまいます。

そうした方をみて「ちょっとおかしい」とか「へんだ」とか、感じる向きも多いかもしれませんが、わたしは、多くのひとが同じように無表情の単調なリズムで一歩一歩、ただ歩くほうが、へんだとおもう。彼は「知的障害者」かもしれません。しかし、彼のつきぬけた歩行スタイルになんら障害はない。おそらくは、じぶんの精神状態と最短距離で同期した固有の身体表現であり、「じぶん」そのもののスタイルをつらぬいているだけなのです。

対して、わたしの歩行スタイルは、つねにとぼとぼと人目を気にしながらのもので、ずっと、この歩き方のなかにわたしはいないなーとおもっている。スキップがしたいっておもう。両手をいっぱいに広げてくるくるまわりながら歌って歩きたいっておもう。だれの目もはばからぬ笑顔で「きーーーーん!」とか言いながらぴょんぴょん歩きたいっておもう。でもそれをしちゃうと、わたしは病院へつれて行かれて「知的障害者」と認定される事態が待っているのでしょうか。

もっと多様な歩き方があってもいい。それがふつうに許容される社会であってほしい。これは常日頃こころより願うことです。リベラルをうたう政治家は、「多様性」というものをほんとうにもてはやしたいのなら、モンティ・パイソンで描かれた「バカ歩き省」みたいな省庁をあらたに設置すべき!と声を大にして訴えてくれ。あるいはみずから先頭に立って、多様性に富んだバカな歩き方を開発し、どんどん「バカ歩き」を国民に提案してくれ。

もちろん「バカ歩き」は強制するものではない。強制には値しない。なんたって「バカ歩き」だ。まじめに歩きたいひとは、それでも一向にかまわない。歩き方は自由です。でも「まじめ歩き」がふつうであり、こればかり是とされる世の中は、息が詰まってしまいます。あらたに「バカ歩き」というオプションがだれにでも等しく追加される日がきたっていいじゃないか。あたらしい歩き方の方法を探究し、多種多様な歩行ヴァリエーションでこの地球を闊歩したいではないか!!

ひとはどんな歩き方をしていてもいい。わくわくしながらお出かけ用の洋服をコーディネートするように、歩き方だってコーディネートしたい。きょうは、どんなバカでたのしい歩き方をしようかな。とりあえずスタートは景気よく欽ちゃん走りな感じにして、それからブラジル体操で100mちかく動いて身体をあたためて、デューク更家のウォーキング・ダイエットもバカっぽくていいかなー、そんで能のすり足もとりいれてみようかなー、上半身を固定させてすらーっと歩く、ときどき「イヨォ!」なんつってね。

やばい、歩き方をかんがえているほうが、洋服のコーディネートなんかよりよっぽどわくわくするし、自由でたのしそうである。いまの「まじめ歩き」が多数派を占める日本社会で、わたしが理想とする「バカ歩き」を全力で実践したら、そうとう目障りでうざいことになりそうだから行動に起こすことは控えますが(へたしたら通報される)、ギリギリうざくない程度のゴキゲンなバカ歩きは実践していたい。

すこしくらいバカっぽいというか、こどもっぽい痛快ウキウキ通りなテンションだっていいじゃない。だれにも文句など言わせない。文句を言うひともじつはそんなにいないと思うけれど……。うーん。ほんとうは、みなさん「まじめ歩き」より「バカ歩き」をしてみたいんじゃないんですか!どいつもこいつも、つまんないおとなになっちまいやがって!まじめに歩いてばかりいて、むしろそっちがバカらしいよ!ちぇっちぇっ、気取ってやーんの!

よろこびを他のだれかとわかり合う
それだけがこの世の中を熱くする
立ち止まり 息をする
暖かな血が流れていく
心の中でずっとキラキラ弾ける


ふと立ち止まることも、歩行には不可欠な要素です。恥ずかしながらもウキウキ通りを行ったり来たりです。小沢健二を歌いながら歩きたい。だってわたし、生きてんですよ。うれしいじゃん。なにやら生後間もない人間のふける感慨みたいだ。

でも赤ちゃんって「あたらしい存在」とされているけれど、じつは高齢者がいちばん「あたらしいじぶん」を生きている。赤ちゃんのころは、ふりかえったところでもう古い。おくれている。死にちかい者がもっともあたらしい。死が最新だと思う。生命は死よりも古い。ジジイババアが最先端のじぶんをやっているのだ。

「昨日より今日が好き/あたらしいから」ってむかし和田アキ子がうたっていた。幼稚園児のとき、ポンキッキーズで流れていたうたを、20年以上が経過したいまでもずっとおぼえている。たぶん、ここまできたらいっしょう忘れることはないと思う。

ほかにも斉藤和義の『歩いて帰ろう』、大江千里の『夏の決心』、電気グルーヴの『ポポ』、スチャダラパーの『大人になっても』などなど。鈴木蘭々と安室奈美恵がうさぎに扮してうたっていた。ガチャピンが突進して何枚もの壁をぶち破ってゆくコーナーが好きだった(ネットですこし調べてもそれっぽいものがみつからないから、もしかしたら記憶ちがいかもしれない。でもわたしのなかのガチャピンは突進していた)。

歩調をゆずらないことは、ときに抗議の意志にもなる。ひとびとが手をつないで、道幅いっぱいに広がり行進する「フランス式デモ」のように、第一に「歩く方法」そのものへメッセージをこめる運動もある。ひとが歩くことの力強さが、意志表示にもつながる。

ひとびとが道幅いっぱいに広がって、タモリさんがやるイグアナのモノマネを模しノソノソ移動するデモがあったら、なんの抗議だかわからないけど、おもしろいとおもう。強いて言うなら「まじめな歩き方のつまらなさ」への抗議だ。ひとはイグアナのマネをしながら歩いたっていい。もしそんなやつがほんとうにいたら、わたしは内心めちゃきもちわるいとおもうけど、「きみはイグアナ歩きが好きなんだね」とあたたかい目で見守るよ。

たぶん、みんながこぞって「バカ歩き」をしはじめたら、街のようすは混沌とするだろう。けっこうこわいな。「まじめ歩き」にくらべてバカは予測不能なので油断ならない。その代わり「わあ~いろんなひとが生きているんだなあ~」ということがひと目でわかるだろう。

「いろんなひとがいる」って、よくかんたんに言うけど、それくらいこわいことだ。予測できないことだ。一寸先の闇をみつめることだ。「いろんなひとがいる」ことは。わたしたちはいつも、「いろんなひとがいない」ことにして、まじめに歩いている。そのつど、その時間、その場所に合わせたコードにしたがう。どこにでも画一的な符丁がある。

「いろんなひとがいる」を主張することは、けっしてかしこいことではない。こんなものはバカの言い分だ。世界をバカにする。バカを許容するためのロジックではないか。「多様性」を称揚したいのなら、そのことを自覚したほうがいいだろうとわたしはおもう。そして、わたしはどんなバカも役立たずもクズ野郎も存在できるし、現に存在しているこの世が好きだ。

ひとはいつ、役立たずでバカのクズ野郎になるかわからない。わたしにも役立たずでバカのクズ野郎でいる時間は多々ある。逆に「まじめ歩き」をする、常識を身に着けた賢しらなおとなとしてふるまう時間も長くある。

「多様性」とか「寛容」とか、そうしたものをことさらに叫ぶひとが、じつはあまり好きではありません。すごーくかしこくてまじめな右へならえの一環としてそうした論理をつかっているように見受けられることがあるから。

わたしは「イグアナのモノマネをしながら外をうろつきたい」などと所望してやまない規格外のバカを守る言い分としての「多様性」ならば、好き。イグアナだって、いていいよね。

なるべくバカなことを書きたいと思っているのに、落としどころがなぜかまじめ化してしまうじぶんのまじめさ加減を呪います。

にゃん