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10/30 日記 きのこかわいい

かぜつよい
きのこかわいい
かぜつよい

きょうを俳句風にまとめました。こんなの俳句じゃない。

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いっしょにあるくひとは、わたしの知らない道をたくさん知っている。でもわたしが知っている道は知らない。わたしは知っているけど、あなたは知らない道をいっしょにあるく。ひとの、あるいた軌跡の輪郭線が交差する。

ことばはだいじだけど、やっぱり会って、あるいて、触れて、ということに圧倒される。会うと、交わすことばは減る。でも、その代わりに、黙っていてもいっしょにいるんだなって、そのことを肌で実感する。ネットやメールでは、黙っていたらいないのとおんなじだもの。黙っていても、手を伸ばせば触れられる。あなたがそこにいる。その時間の貴重さを思う。

やがてすぐにあなたはわたしの知らない道にもどる。わたしもあなたの知らない道をあるく。いっしょにあるいた道で、ときおりあなたがいたことを思い出す。忘れるまで、思い出す。なにも知らないわたしたちの、知り合った道ができたこと。あなたがいた道。ふりかえれば、もうおぼろげだけれど。

十八歳の聖橋から見たものを僕はどれだけ言えるだろうか

早坂類の第一歌集『風の吹く日にベランダにいる』より。この歌集を読んでいると、どうにも胸がいっぱいになる。あの場所でかつて見た記憶、もう定かには言えないもの。ここにいたのか、いなかったのかも、いまとなってはわからない。目で見たものを、そのままことばにすることはできない。ことばでつまんで、形をつけてしまうと、どんどんこぼれるものがある。だけど、そのときに言って、書いておかなければ忘れてしまうことも、たくさんある。記憶は水のように、流れてこぼれて形を変える。

不在の感覚だけが、あとには残る。過去が実在したのかさえわからない。あるいた道はどこまでも杳としている。暗がりにはじぶんの歩調だけがある。さようなら、さようなら。だれもいなくなって、すべては収まるところに収まる。

生まれては死んでゆけ ばか 生まれては死に 死んでゆけ ばか

いなくなってはまた生まれる。ことばは実在を描けない。いつだって不在のためにある。きょうどんなに強く約束を交わしたとしても、あしたのことはわからない。もうここにはいないこと、破られた約束、ない時間を思うとき、ことばが生まれる。死んでは生まれるものがある。それが摂理だろうか。いかなることばも、喪失や不在のなかにしかない。

ありがとう。また会おう。こんにちは。さようなら。わたしの前からは、だれもいなくなった。だからいま、書いている。存在すらしなかった過去へ向け。つたえたいことはなにもない。つたえられることもなにもない。





にゃん