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幸せのかたち、言語以前のからっぽ


檜山:石河さんよろしくお願い致します。

石河:よろしくお願いします。

檜山:もし石河さんでしたら、じゃんけんをするときは何を出しますか?

石河:やっぱり、負けたくないですからね。

檜山:はい、負けたくないですよね(笑)。

石河:やってみますか。

檜山:え、いいですか。え、うれしいです。やります。

石河:いいですか。

檜山:はい。

石河:じゃん……
檜山:さいっ……あっ、じゃん!

石河:(笑)任せます。

檜山:いいですか。

石河:「じゃんけんぽん」でいきましょうか。

檜山:「じゃんけんぽん」でいきます。

ふたり:じゃんけんぽん!

檜山:(笑)あい、こで、しょ!やったー、勝った。

石河:(笑)……最初はパーでしたね。

檜山:えっ、じゃあ石河さんはパーが多いですね。

石河:パーが多いと思います。

檜山:うんうんうっふふ……なんか、あのじゃんけんしていただいてありがとうございました。

石河:やっぱチョキって、ちょっとめんどくさいじゃないですか出すときに。

檜山:わかります。

石河:そうするとグーかパーですよね。そうすると負けないのはパー。

檜山:たしかに。グーかパーのほうが簡単ですもんね。

石河:そうですね。うん。

檜山:(笑)ぜひあの石河さんあの、日本の、この……じゃんけん協会?で勝利の法則がありますので、ぜひ、じゃんけんを極める場合は、見ていただければと思います。

石河:精進します。

檜山:私も学びたいと思います。

石河:はい(笑)。

檜山:でまたじゃんけんしていただければうれしいです。はい(笑)。そんなじゃんけんの情報をお伝えしていきました。


これはいったい……?

無心で文字に起こしたくなった。写経のように。なんか救われる……。思うに、「幸福」というのはつまるところ、こういうことなのではないか。すくなくとも、わたしの感じる「幸せのかたち」はこれである。もう、これしかないと思った。

じゃんけんには通常、目的がある。なんらかの決定をくだすために行われるゲームだ。「じゃんけんで決めよう!」と、よく言われる通り。しかしここには目的がない。じゃんけんそれ自体のためにじゃんけんをしている。強いて目的を挙げるなら、石河さんがどの手を出すか知るためだが、それとじゃんけんの勝敗はまったく関係がない。

結果、檜山さんが勝った。石河さんはパーを出した。その後、「じゃあ石河さんはパーが多いですね」と会話はつづく。「パーが多いと思います」と石河さんは受ける。これは果たしてほんとうなのか……?適当にその場で決めたとしか思えない。石河さんについて、わたしは画面越しの姿しか存じ上げないが、真に「パーの多い男」としての人生を歩んできたのか甚だ疑問である。

「チョキってめんどくさい」という理屈も謎だ。いや、グーとパーに比べればたしかにややこしくも思える。でもどうなんだ。めんどくさがり屋にもほどがあるのでは……。つぎに石河さんはグーとパーを比較し、「負けないのはパー」とおっしゃるがこれもどうなんだ。自己完結的すぎるし、なによりバラしちゃってる。相手はふつうにチョキ出してくるぞ。チョキそんなにめんどくさくないぞ。

……いや。

ちがう。そうじゃない。これがまさに幸福を遠ざける、勝ち負けに囚われた考え方の一例だ。疑ってはいけない。いちおうゲーム上の要請として「負けたくない」とはふたりとも話すが、じつはそんなのどうだっていいんだ。チョキはめんどくさい。ここにそれ以上の含みなどない。残りのグーとパーではパーが勝つ。なら出す手は決まっている。パーだ!パーを信じろ!あとは野となれ山となれ!いいぞ石河!その意気だ!

そんな石河さんに対して「わかります」「たしかに」と素直に応じる檜山さんも、幸福のなんたるかを肌感覚でわかっている。「パーが多いなら、チョキで攻めますね」なんて、駆け引きめいた話は持ち込まない。なぜなら、勝ち負けではないから。ただじゃんけんのために、じゃんけんをするのである。それが「じゃんけんを極める」道への第一歩でもあるのだ。たぶん。

勝敗や損得こだわった瞬間、猜疑心が芽生えてしまう。じゃんけんがじゃんけんだけで完結する世界なんて、ありうるのか?勝った負けたで課される条件があるのではないか?その先走った疑念によってことばを素直に受け取れなくなり、すべてが謀略的に見えてくる。石河さんは「パーが多い」という。ならば、つぎは裏をかいてグーを出してくるにちがいない。ヤツはそういう男だ。いや、裏の裏でチョキかもしれない。あるいは一周してパーか。と見せかけて……?だめだ、もうなにも信じられない。こわい。やめてほしい。

そうなっては、じゃんけんひとつ楽しめない。がんじがらめだ。人間おしまいである。勝敗も損得も、先のことはひとまず脇に置く。やるだけやる。聞くだけ聞く。心をひらいて。なんであれ、素直に楽しめるに越したことはない。


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しかし「やってみますか」とじゃんけんの誘いを受けて、「うれしいです」なんてわたしは言えるだろうか。しばらく考え込んでしまった。檜山さんは、終わったあとも「じゃんけんしていただいてありがとうございました」という。さらに「またしていただければうれしいです」と重ねる。

ここで檜山さんが念頭に置く「じゃんけん」とはおそらく、ただのじゃんけんだ。何度も書いているように、じゃんけんのためにだけじゃんけんがある。そうした世界観の「じゃんけん」。いわば、純粋じゃんけん。幸福とはつまり、このような世界観なのだと思う。

じゃんけんをじゃんけんとして楽しめる世界。過去も未来もなく刹那のじゃんけんを生きる、なんともいえない時間。そのときだけはわたしが誰でも、あなたが誰でもかまわない。じゃんけんが終われば、ふたたびわたしたちには名前と役割が付与される。まるで魔法が解けたみたいに。石河さんはパーが多いですね。ほんとうはそんなこと、どうでもいいのに。

When you wish upon a star
Makes no difference who you are

星に願いをかけるとき、あなたが誰かは関係ない。純粋じゃんけんとは、こんな祈りにも近い行為なのかもしれない。夜空を仰ぐわたしの姿は透明で、誰でもなくて、誰でもあって、もうこの世にいないような気さえする。あるいは、どこにいてもいいような。とてもさみしい。でもそのさみしさがうれしくもある。

私があなたを好きだとか、あなたには何にも関係がないのに、私はあなたにこの気持ちを救ってほしいと毎日願っている
――自分が書かなければおそらく誰かが書く日記

tumblrで拾った匿名の書き込み。関係がないのに。そうだ、わたしたちはびっくりするほど関係がない。なのに、たまたま出会って好きになったり、じゃんけんをしたりする。人生は始めから終わりまで、まったく意味不明でわけがわからないことの連続で成り立っている。いい加減にしてほしい。

引用文は恋愛の話かもしれないけど、わたしには信仰のことを書いているようにも読める。かみさまのこと。恋愛もちょっと信仰めいたところはある。どちらでもありそう。どちらでもいいか。「何にも関係がない」醒めた視点と、「救ってほしい」狂おしさが同居している。わかっている。わかっているのに。その間隙に引き裂かれるとき、人は祈るのだろう。それはきっと、書くことのはじまりでもある。

逆に、関係がないから救われるときもある。ネットでふと見かけた文章に救われたり、いい大人がじゃんけんして笑ってる動画に救われたり。人間には脈絡もなんも関係ないわけわからんもんがすこしくらい必要で、キッチリ関係する(したい)ばかりになってしまうとつらいんじゃないかな。

「何にも関係がない」。じつは、ここにこそ希望があるのだと思う。儚い錯感に身をひたしていられる。「好き」という錯誤。そこまででいいのに。それ以上を確認しようとするから、つらくなる。気持ちがつうじるなんて、こわいことだ。じゃんけんだけを楽しむ時間は、何にも関係がない。関係がないだけのひととき。こんなことがあっていいのだろうか。にわかには信じがたい。うそみたいで、うれしいね。

「何にも関係がない」時点にとどまることはむずかしい。というか、無理っぽい。人は何でも「関係がある」としてしまう。石河さんはパーが多い。まったくのランダムに出した手だとしても、そういうことになってしまう。ことばが何でも接続しようとする。その欲望に駆動されて生きている。煩悩ってやつか……。言語以前には、もどれない。でもいっしゅんなら、触れることは可能なのかもしれない。生まれる前のような、からっぽの時間に。ほんの、いっしゅんなら。





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にゃん