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映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』約束の地はあるのか?

 監督のジョージ・ミラーは【「まだ映画が言葉を持たない無声映画の時代にアクションは作られた。故にアクションとは映画言語のもっともピュアな形なのだ」】と語る。大量消費社会の混沌、冷戦の恐怖から生まれた80年代SFの終末のイメージを彷彿とさせる本作の舞台「核戦争後の荒れ果てた土地」は、映画言語を用いるのに格好の舞台だ。砂が舞うだけの荒野は、鉄の馬である改造車と人間の表情の躍動を浮き彫りにするキャンバスとなり、観客は否応なしに、言語ではなく映画言語によるコミュニケーションを求められる。ゴダールが「男と女と自動車とがあれば映画ができる」と言ったように「動くものを捉える」という映画の真実は、皮肉なことに文明崩壊後の荒野と相性がいい。

 主人公の1人であるマックスは、崩壊した世界に適応するため獣になっている。冒頭、マックスが砦で繰り広げる逃走劇中にフラッシュバックする悪夢は、彼の葛藤、つまり人間性そのものである。フュリオサたちのウォーリグを奪おうとする時も、囁きかけてくる人間性を振り切り、マックスは獣に徹しようとする。本作の過酷な状況下での生存を巡るドラマは、人間性と獣の間を行き来し、スピーディーな編集、コマ落としの多様で慌ただしく展開するアクションシーンも、非人間的な生理を印象付ける。ウォーボーイズに再び捕らえられたマックスは口枷を付けられ、檻に入れられ、輸血袋になるのだが、人間性の喪失を一番端的に表しているのは、顔を布で覆われるシーンだろう。人間性から逃げ続けた結果として、マックスに顔を無くさせる本作の幕開けは、本作が顔=人間性を取り戻す物語であることを予感させる。

 映画はマックスからフュリオサの逃亡劇へと移行する。マックスが人間性から逃亡していたのに対して、子供を産む機械として、砦で安全な暮らしを約束されていた5人の妻を引き連れたフュリオサの逃亡劇は、生存するためだけの生を否定し、真の意味で人間が人間らしく生きるための権利を勝ち取る闘いになる。硬直は生命にとって腐敗であり、“死”と直結することから、本作は荒野を走り続けることで、“生”を浮き彫りにする。人間の道徳を踏みにじった上に成り立つシステムが存在しない世界「約束の地」を、ぼろぼろになりながら必死に目指すフュリオサの姿は、より良い世界の実現を夢見た歴史上のすべての偉人たちと重なっていく。

 しかし、フュリオサの逃亡劇は意外な結論に着地する。それは今までいた砦こそが「約束の地」だったということ。資源も未来への可能性もすでに目の前にあったのだ。しかし、それは資本主義であり、有害な男性性の象徴であるイモータン・ジョーというシステムに隠されていた。砦の磁場から離れたフュリオサはそのことに気付き、戻ることを決意する。イモータン・ジョーとの闘いが「顔を剥ぎ取る」ことで決着するのは、冒頭でマックスが「顔を失った」ことと対になる。イモータン・ジョーというシステムに勝利した後で、マックスは自分の顔と名前を取り戻す。「俺の名前はマックスだ」と懸命にフュリオサに語りかける彼の姿は人間の良心そのものだ。

 本作のプロットで驚きなのは「行って帰ってくる」動線のシンプルさだけではなく、最初と最後でキャラクターたちの行動が何一つ変わっていないところだ。マックスはフュリオサの輸血袋になり、また1人で旅に出る。ニュークスは「Witness Me」と言い、闘いの中で死ぬ。フュリオサはグリーンプレイスではなく砦にいる。ダグはイモータン・ジョーの子供を産むはずだ。しかし、行動は変わらなくてもーー言い変えれば、変わっていないからこそ、決定的に変化した部分が際立つ。それは登場人物たちの顔だ。ニュークスの顔が骸骨のような白塗りから素顔に近づいていくことにも顕著だが、本作は主体的に行動を選択し、それが良心や道徳に起因する時の人間の顔の気高さを映し出す。それは汚染されていない種(赤ん坊)も育たない荒れ果てた土地に生まれうる希望を雄弁に示している。

 顔を失い、顔を剥ぎ取り、顔を取り戻す本作は、必然的にマックスとフュリオサの目線の切り返しで幕を降ろす。その切り返しは上下の運動の中で行われるため、2人の視線のやりとりは社会階級を横断する。フュリオサはイモータン・ジョーのように民衆を上から見下ろす。無数の顔が並び、それぞれの顔はハッキリ見えない。統治者の横暴は民衆との距離により生じる“無理解”から始まる。しかし、フュリオサは語り継がれるべき英雄譚のひとつが、無数の顔の中に消えていったことを忘れないだろう。獣だったマックスは人になり、フュリオサに血を与えた。市井の人々の中に眠る可能性が自分の心臓を動かし続けるかぎり、より良い世界への信頼は揺らがないだろう。そして、その信頼はスクリーンを見つめる我々にも向けられているのである。

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青春時代特有の居場所を求める不安定な“移動”を的確に解釈して、カメラに捉えることが優れた“青春映画”の条件である。『10クローバーフィールド・レーン』が画期的なのは、冒頭のガソリンスタンドのシーンが『激突』(1971年)のオマージュであるように、青春映画の“移動”を“活劇(ひいては他の映画ジャンル)”として見せた点だろう。

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