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シャマラン・シネマティック・ユニバースの19年(2000-2019)。

はじめに

マーベルやDCを筆頭にヒーロー映画には困らない2019年の映画シーン。しかし、そんな独占にも近いヒーロー映画市場を前に、カウンターを期待してしまう自分もいる。なぜなら『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のジェームズ・ガン監督をディズニーは過去の最低なツイートを理由に追放したワケで、そんな「正しさの暴力」が支配している帝国の面白い作品たちばかりなのは“つまらない”じゃないですか?(※1)M・ナイトシャマラン監督の手がけるヒーロー映画シリーズ……言うなればシャマラン・シネマティック・ユニバース(以下、SCU)の3本は、シャマランの作家性をとても強く反映した結果、帝国の力が蔓延するシーンの中でカウンター足り得るヒーローシリーズ作品となっている(※2)。

(※1)2019年3月16日、ジェームズ・ガン監督の再起用が発表された。
(※2)と言いつつ『アンブレイカブル』と『ミスター・ガラス』の配給にはディズニーが関わっている。

1章.『アンブレイカブル』ーーヒーローとヴィランの共依存。

マーベルのヒーロー映画シリーズ、マーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)は『アイアンマン』(2008年)から幕を開けたが、MCUの「単体のヒーロー映画がクロスオーバーしていく」という構想が実現に至る最初のキッカケは『ブレイド』(1998年)、『Xメン』(2000年)、サム・ライミ版『スパイダーマン』(2002年)と、ゼロ年代初頭のマーベルコミック実写映画化の成功が大きいと思われる。そんな今のヒーロー映画の興隆に繋がる動きがあったゼロ年代初頭に、SCUの1作目『アンブレイカブル』(2000年)は公開された。シャマランは『翼のない天使』(1998年)で商業映画デビュー、次の『シックス・センス』(1999年)が大ヒット、その勢いで取りかかったのが『アンブレイカブル』で、時代の流れからするとヒーロー映画ブームに便乗した“だけ”にも見えるが、その後のシャマラン作品から作家性を考えてみると、ヒーロー映画への挑戦は必然だったように思える。

【シャマラン作品のほとんどには頑固なまでの一貫性がある。スリラーであること。本人が育ったペンシルヴェニア州フィラデルフィアとその近郊を舞台にしていること。脚本・製作・監督を兼ねること。自ら出演すること。ほとんどの音楽をジェームズ・ニュートン・ハワードが手がけていること。画面サイズはどちらかといえばヴィスタ・サイズが好みであること。スリラーで、自分も出演し、管弦楽によるバーナード・ハーマンのような音楽と、スコープ・サイズよりも狭い画面を選ぶ指向の示すところは、アルフレッド・ヒッチコックのような監督を念頭においた、古典的な映画作りだろう。唯一無二の個性とサービス精神は、そのうえに乗っているのだ。】(『スプリット』のパンフレットから添野知生さんの文章を引用)。

『シックス・センス』の大ヒットにより「衝撃のラスト!」のイメージが定着してしまったシャマランだが、彼の作家性を語る上で重要なのは、古典的で堅実な映画の語り口が下地にあり、画面構成や演出がテーマと密接に関わっている点だろう。シャマラン作品は「①見えない力との対峙」を描くために「②自然描写や空間の切り取り方が特徴的」、さらに「③傷ついた人々の救済(治癒)」を描くために作品内で物語(フィクション)が重要な意味を持ち「④寓話的な側面が強くなる」。これら①~④を踏まえると、シャマランの作家性は驚くほどヒーロー映画向きなのだ。

『アンブレイカブル』はMCUの1作目『アイアンマン』や他の多くのヒーロー映画の1作目がそうであるように、ヒーロー誕生譚が描かれているが、本作はその誕生譚が漫画『キリング・ジョーク』(1988年)や、『ダークナイト』(2008年)、『レゴバットマン ザ・ムービー』(2017年)のバットマンとジョーカーの関係に代表されるヒーローとヴィランの共依存、つまり「ヴィランがいないとヒーローは存在しえない」というヒーロー批評に着地する。

スタジアム警備員のデヴィッド・ダン(ブルース・ウィリス)と、コミック研究家のイライジャ・プライス(サミュエル・L・ジャクソン)は、自分の役割や存在理由に不安を抱いている2人である。冒頭、デヴィッド以外の乗客が全員死亡するという列車事故が発生、唯一、無傷で生き残ったデヴィッドに対して、イライジャは「君はコミックに出てくる無敵のスーパーヒーローなのでは?」とコミック研究家らしい持論を展開する。もちろん、最初は間に受けないデヴィッドだが、徐々にイライジャの言葉を信じるようになり、ヒーローになることを決意する。

デヴィッドは触れるだけで、その人が犯している悪事がわかるため、人の多く集まる駅に行き、微かに手を広げる。彼は“水”が弱点のため、ヒーロー活動をする際のユニフォームとして雨ガッパを着ているのだが、シャマランはその雨ガッパをスーパーマンのマントのように見せ、微かに広げた“手”に、大空を飛翔するようなダイナミズムを託す。その後、プールに落下するピンチもありながら、普通なら最大の見せ場になりそうなバトルシーンを「首絞めの長回し」だけで見せる。そして帰宅後、妻を抱えあげ寝室に向かうまでの流れを、まるで映画『スーパーマン』(1978年)のスーパーマンとロイス・レーンを思わせるようなショットにしていたりーーと、ヒーロー映画を構成する要素を間違いなく配置しつつ、それらを「普通のヒーロー映画のように撮らない」SCUの魅力は、この時点で確立されていたことがわかる。

クライマックスにおいて、デヴィッドは無敵の身体 = アンブレイカブル(Unbreakable)を持つヒーローという自身の役目と存在理由を見つけるのだが「ヴィランがいないとヒーローは存在しえない」ので、本作におけるヴィランがイライジャ = ミスター・ガラス(Glass)だと判明する。本作の一番最初、言い換えればSCUの一番最初のシーンはイライジャが産まれた日から始まる(すでにここから鏡が印象的に使用されている)。産まれた時から骨形成不全症のために身体が弱く、外でも遊べなかった彼は、母の薦めでコミックを読むようになり、いつしか「古代の壁画と同じく、実際に誰かが体験した歴史を伝える手段がコミック」と信じるようになる。「ヒーローは実在する」と証明するために“ある悪事”を働き、憧れのヒーローが自分を倒しに現れるのをずっと待っていたのだ。

生きる意味を無くしていたヒーローとヴィランが、それぞれの存在を知ることで、皮肉にも生きる意味を取り戻すという優れたヒーロー批評と、「寓話」を丁寧に積み上げていく映像の数々。いつしか、多くの人々が抱くようになった「ヒーロー映画」のイメージに、本作は違う視点を提示する。世界の命運をかけた“派手”な闘いの中だけに、ヒーローとヴィランが生まれるわけじゃない。私たちと社会の間にある、寄る辺ない気持ちの影の先に、ヒーローとヴィランは潜んでいるのである。

2章.『スプリット』ーーヴィランは“間違い”を肯定する。

SCUの2作目『スプリット』(2016年)は、なんと1作目から16年ぶりの続編なのだが……本編について話す前に、この16年の間にシャマランのキャリアがどうなっていたか?について話したいと思う。『アンブレイカブル』(2000年)の後に、シャマランの作家性を高純度で楽しめる傑作『サイン』(2002年)が公開。続く『ヴィレッジ』(2004年)では彼の作品における「寓話」的側面とロジャー・ディーキンスの撮影が理想的に合致……が、その後の『レディ・イン・ザ・ウォーター』(2006年)は、全体の出来は悪くないものの、その「寓話」を描くバランスが若干崩れたのが今となっては気になるところ。『ハプニング』(2008年)はヒッチコック監督の『鳥』(1963年)を彷彿させるパニックムービーとして良作。さて、問題はここからである。

シャマラン監督初の原作モノでテレビアニメ作品を実写化した『エアベンダー』(2010年)は、今までにないCGや異世界を舞台にしたセットのせいか、持ち味である空間の見せ方が凡庸になっているうえに、ファンタジー映画というジャンルムービーとしてのヴィジュアルや世界設定も(原作モノとはいえ)甘く、出来が悪い作品となっている。その後の『アフター・アース』(2013年)は、舞台がほとんど“森”ということでシャマランらしい画面の痕跡を探すことも出来るし、SFサバイバル映画として良い部分が“無くはない”ので、『エアベンダー』に比べればマシな作品ではあるが“マシな作品”以上でも以下でもないというのが私の率直な評価である。この2本は本人も当時のことを振り返り「あのときの気分は、自分らしさを失い始めたんじゃないかという感じだった」(※3)と答えているのも納得の出来で、興行的にも評価的にも最悪、完全にどん底に落ちることになる。

(※3)こちらの記事から引用→ 
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29732

しかし、続く『ヴィジット』(2015年)では惨敗だった2作と環境を変え、低予算でオリジナル脚本という(以前と同じく)自分の作品に自由に取り組める体制にした結果、興行も成功し、評価も上々、どん底からの復活を果たす。『ヴィジット』は、ほとんどのシーンが家と庭だけで完結し、過去のトラウマが原因で傷ついた姉弟が恐怖体験を経て救済されるという、シャマランの実力が一番発揮出来るお馴染みの舞台設定と物語展開なのだが、そこにシャマラン作品初のPOV(手持ちカメラ風映像)手法が導入され、フレッシュな仕上がりになっている。どん底を経て、言わば第二の『シックスセンス』とも言える本作でのPOV手法の導入からは、シャマランが新しいモードに突入したことが伺える。そして『シックスセンス』の大ヒット後、『アンブレイカブル』が発表されたように、『ヴィジット』のヒット後に発表されたのが『スプリット』である。

『アンブレイカブル』が「ヒーロー誕生譚」なら、『スプリット』は「ヴィラン誕生譚」である。ヒーロー映画には魅力的なヴィランの存在が欠かせないが、彼らは私たちの欲望や暴力性を肯定してくれる存在だ。ヴィランの残酷な行いを観るとき、私たちは自分自身の残酷さと向き合うことになり、それは時に「残酷な私は間違っていない」という“救済”になる。大抵の映画はヒーローが逆の意見を提示しすることでバランスを取っているのだが、『スプリット』には逆の意見を提示するヒーローが出てこないため、ヴィランの考えを主軸とした歪なバランスの作品になっている。

本作のヴィランは解離性同一性障害(DID)により、23の人格を持つケヴィン(ジェームズ・マカヴォイ)。幼少期に母親から虐待を受けていた彼は、辛い現実に対して様々な人格を生み出し対応していた。23という数字は、彼の辛い過去の出来事、心の傷に比例すると思われる。本作では人格が変わることを「照明(“light” or “the spot”)が当たる」と表現しているが、実に象徴的で“照明”は喜びにも、苦しみにも等しく光を当てるため、ケヴィンは照明 = 現実を拒否して、心の暗闇の中に隠れる。そんなケヴィンを守るため、23の人格は“照明”を管理していたのだが、“ある事件”をキッカケに24人目の人格が生まれる可能性が発生、それを巡り23の人格は仲間割れ、人格内のある一派が高校生の誘拐を実行する。

冒頭、車に乗り込む人物を後ろから捉えた視点が、徐々に犯人の目線だとわかるカメラワーク、使い古された手法だが、一気に引き込まれる。そこから、車のサイドミラーを効果的に使い、本作のもう1人の主人公、高校生ケイシーを演じる、ホラー作品に引っ張りだこの役者アニャ・テイラー・ジョイの“顔の演技”に全てを託すホラー演出。この冒頭の誘拐シーンの手際の良さから、復活作『ヴィジット』に引き続き、監督が好調だとわかる。その後、誘拐されたケイシーと(彼女を煙たがる)2人の同級生による監禁サバイバルモノになるが……普通の映画なら、行動を共にすることでケイシーと他の2人の人間関係に何らかの変化が起きてもいいのだが、本作ではそれが起きない。むしろ、この状況はケイシーの抱える“孤独”を浮き彫りにして、その孤独と共鳴するのは友達2人ではなく、敵のケヴィンなのである。

実はケイシーもケヴィンと同じく、虐待が原因で心を閉ざしていることが、徐々に明かされていく。クライマックスで、鏡のような存在の2人は一騎討ちになり、ケイシーは檻の中に追い込まれる。この檻はケイシーの閉ざされた心のメタファーに見えるのだが、ケヴィンはそれを満身の力でこじ開け、持論を展開する。曰く「失意の者はより進化した者(The broken are the more evolved)」なので生きるに値するが、それ以外の者は「不純」なので死んでもいいと言うのである。この「優れた者とそうでない者」の曖昧な線引きは、実にヴィランらしい物言いなのだが、なんと、ケイシーはこの言葉に心の底から救われてしまう。

2人の闘いは“ある決着”を迎え、それぞれが外の世界に出ていくのだが、最後にケイシーたちの誘拐されていた場所(ケヴィンの住まい)が明かされる演出が上手い。ここでわかるのは、ケヴィンの唯一の理解者であると思われた人物も、所詮、彼を研究対象、モルモットのようにしか考えておらず、暗い場所に閉じ込めていたということーーそして、その場所から出ていく過程で、彼らの救いになる考えは、普通だったらヒーローに正されるべき「間違った考え」なのだ。しかし、この映画にヒーローは現れないし、彼らが辛い現実に直面していた時も、ヒーローは現れなかったのである。2人の自由への道は、ヴィランの勝利で開かれてしまうが、それを否定することは、誰にも出来ないのである。

3章.『ミスター・ガラス』ーーついに完結するシャマラン・シネマテック・ユニバース。

MCUの1つの集大成である『アベンジャーズ / インフィニティ・ウォー』(2018年)や、DCの『ジャスティス・リーグ』(2017年)で、様々なヒーローたちが集結したように、ついに『アンブレイカブル』と『スプリット』の世界が合流するのが『ミスター・ガラス』である。ゼロ年代初頭のヒーロー映画と同時代性があった『アンブレイカブル』と同じく、今回もまた、現在のヒーロー映画シーンのトレンドを押さえた“集結”を描いているわけだが、観てみると想像以上に『インフィニティ・ウォー』で驚く……というか、マーベルが『インフィニティ・ウォー』と(まだ劇場未公開なので予想にはなるが)『エンドゲーム』の2本で描こうとしているテーマを『ミスター・ガラス』は、この1本だけで語りきってしまっている気さえする。

『ミスター・ガラス』の主な舞台は精神病院で、そこに無敵のデヴィッド「監視人“Overseer”」、多重人格のケヴィン「群れ“Horde”」、天才的な頭脳を持つコミック研究家のイライジャ「ミスター・ガラス“Mr.Glass”」が集められる。その3人の前に精神科医のエリー・ステイプル(サラ・ポールソン)が現れ、「あなたたちはスーパーパワーを持った特別な人間なんかじゃありません」と“説得”してくるのだが、それに3人は勝てるのか?というのが物語の中心となる。

精神病院が舞台で患者の可能性を奪おうとする物語と言えば、真っ先に浮かぶのは『カッコーの巣の上で』(1975年)である。『カッコーの巣の上で』は60年代の悲惨な精神病院の環境の中で、主人公が患者の自由を求めて闘う作品だが、それを現代のヒーロー映画として再解釈したのが本作と言えるだろう。

Three geese in a flock.
(ガチョウが三羽いましたとさ)
One flew east
(一羽は東に飛んでった)
And one flew west
(一羽は西に飛んでった)
And one flew over the cuckoo's nest.
(もう一羽はカッコウの巣の上に)

『カッコーの巣の上で』のタイトルの元ネタである童謡の“三羽のガチョウ”も、『ミスター・ガラス』におけるスーパーパワーを持つ3人と重なるのだが、その3人がラストに近付くにつれ“物語を語り継ぐ人物たち”に代わっていく展開は、シャマランの作家性をよく表していると言える。同時に、それは『カッコーの巣の上で』のラストで、精神病院という籠の中から飛び立ったのが主人公ではなく、その意思を継いだ者である点とも重なるのだがーー。

『アンブレイカブル』公開からーーつまり、イライジャが精神病院に収監されてから、19年の月日が経ち、ヒーロー映画を取り巻く環境は大きく変化した。次から次へと良質なヒーロー映画が公開される中、イライジャは何を考えていたのだろうか?SCUの最後を飾る作品のタイトルが彼の名前だった理由は、その19年の沈黙にあるだろう。それは2019年に、MCUが1つの区切りを迎え、スター・ウォーズのスカイ・ウォーカー9部作が完結し、ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』が終了することと無関係ではないはず。アメリカのエンタメにおける数々のヒーロー神話が終わる中、また新しい神話の始まりの予感を、イライジャは高らかに宣言しているのである。(了)


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