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ドラマ『マスター・オブ・ゼロ』とドラマ『アトランタ』。

はじめに

 2020年3月頃、COVID-19による混乱の中、1人で部屋にいる私を勇気づけてくれたのは2人のコメディアンーードナルド・グローヴァーとアジズ・アンサリだった。マルチに活動する2人を“コメディアン”とまとめてしまうのは乱暴ではあるが、彼らのあらゆる表現は優れたコメディアンの資質に裏付けられていると私は考えている。つまり、それは世界の絶望と冷静に対峙する姿勢であり、そのクールな眼差しはあの時の私には救いだった。2021年、アジズ・アンサリが手掛ける『マスター・オブ・ゼロ』のシーズン3、そして、ドナルド・グローヴァーが手掛ける『アトランタ』のシーズン3が発表されるのは偶然じゃないだろう。この2作品には優れたコメディアンがCOVID-19以降の現在をどう捉えているか、その視線の先が描かれているはずだ。

 どんな時代に作られた作品であれ、どんな舞台設定の物語であれ、そこに現代の問題意識を投影することは可能だが、それとは別に、遠くにいる友人を思い出すように「COVID-19の中でみんなどうしているかな?」と架空の登場人物たちに思う親密さが、現代を舞台にしているドラマシリーズにはある。『マスター・オブ・ゼロ』や『アトランタ』はそんな作品だ。この文章を読んで気になったエピソードがあれば、基本的には1話完結で30分ほどで観れてしまうので、NETFLIXでぜひ鑑賞してみてほしい。

第1章:『マスター・オブ・ゼロ』

1︰『マスター・オブ・ゼロ』シーズン1

 シーズン1(2015年)の1話目「プランB」の冒頭5分で『マスター・オブ・ゼロ』の全シーズンに共通するテーマが描かれる。アジズ・アンサリが演じるインド系アメリカ人の主人公デフと、その日出会ったばかりの女性がセックスをしている。コンドームが破れたことに気付いたデフはセックスを一時中断、2人はそれぞれのスマートフォンでカウパー腺液による妊娠の危険性を検索し始めるが、検索結果は真逆、話し合いの末、ウーバーでタクシーを呼び、緊急避妊薬である“プランB”を買いに行く。曖昧な関係と、中断されるセックス、暗闇の中スマートフォンの明かりで顔が青く照らされる裸の2人、インターネットが提示する多くの選択肢ーー現代のセックスをユーモラスに描く幕開けから、子育てと結婚を巡るドラマに移行し、たった30分で見事なオチに辿り着くつく名エピソードである。

 『マスター・オブ・ゼロ』は旧来の価値観や社会制度と、新しい価値観や多様な選択肢の中で板挟みになった結果、何かを極めることや、何かを選ぶことを躊躇してしまう人々の喜劇だ。私たちの人生設計=プランはあまりに多様化していて、そんな中で何かを選ぶことは本当に重労働だ。本作の中で恋愛や結婚、子育てや家庭を持つというトピックスが頻出するのは、新旧の価値観の交差点として非常にわかりやすいからだろう。デジタルネイティブ世代の私たちに特定のパートナーと一生添い遂げる選択をすることは可能なのか?もしくは旧来の“契約”を新しい価値観で更新して、新しいパートナーシップや生活の形を生み出せるのか?そんな問題定義を、本作はコメディというジャンル形式を通して行う。

 『マスター・オブ・ゼロ』のシグネチャーは主人公のデフ……というより、アジズ・アンサリ本人の“声とフロウ”であり、彼を中心としたカメラワークは時にバラエティー番組のロケ撮影のようで、喋り始めればまるでスタンダップのステージのようだ。実際に、NETFLIXで観ることが出来るスパイク・ジョーンズが監督したアジズ・アンサリのスタンダップライブ『Aziz Ansari: Right Now』(2019年)の中でのネタの数々ーーアメリカでマイノリティーとして生きること、ポリティカル・コレクトネスとポップカルチャーの関係、キャンセルカルチャー、自分が信じたい情報しか出てこないインターネット、親世代との価値観の違い、老いについての不安ーーは、『マスター・オブ・ゼロ』で描かれているテーマと重なる点が多い。本作はドラマでありながら、アジズ・アンサリの声とフロウが支配するスタンダップ・コメディとも言える作品であるため、根底にあるのはスタンダップのフットワーク、つまり、価値観の更新と揺さぶりこそが表現を進化させるという身体性に基づいている。

2︰『マスター・オブ・ゼロ』シーズン2

 シーズン2(2017年)でも、シーズン1と同様のシグネチャーはあるものの、決定的に違うのは1話目の「誕生日泥棒」が『自転車泥棒』(1948年)の引用であるように、映画史への接続が前面に出ており、シーズン1で俳優として映画撮影に参加していた主人公デフの日常そのものが、映画に侵食されていくストーリーテリングが採用されている。そのため、シーズン2の恋愛や結婚を巡るドラマには古典映画の延長として、旧来のロマンティックに溢れているが、重要なのはそのファンタジーの中心にいるのがインド系アメリカ人の主人公であることと、その代償としてシーズン2がどう終わるかである。映画史と2017年のニューヨークの生活が溶け合うシーズン2の中で、とくに印象に残るエピソードを2つ紹介したい。

 まずは第6話の「ニューヨーク、アイ・ラブ・ユー」。このエピソードはニューヨークにいる市井の人々の暮らしを3人の主人公と3つの物語で描く。3人の主人公はそれぞれ人種も使用する言語もバラバラ、様々なルーツをもった人々が暮らすニューヨークを反映している。Vogueの企画『73の質問』の中で、アジズ・アンサリは6カ国語(スペイン語、フランス語、日本語、英語、タミル語、イタリア語)を話すところを披露する。様々な言語への想像力は、そのまま様々な生活への想像力に繋がるーーこのエピソードで描かれているのはまさにそのこと。ニューヨークで暮らすマイノリティーの生活を大袈裟ではなく、コメディーならではのやり方で淡々と掬い上げていくマナーも素晴らしいが、3人の物語をそれぞれグランドホテル形式、無声映画、タクシードライバーという映画史の文脈を織り交ぜながら語ることで、マイノリティーで古典を描き直すシーズン2の意識も強く反映されている。ラストで様々な言語が飛び交うニューヨークにおいて何が人々を繋げる「共通言語」になっているかが示されるのだが、それはぜひ観てみてほしい。コレをたった30分で描き切ってしまうのだから驚きである。

 もう1つは第8話の「サンクスギビング」。主人公デフの友人であるデニースを中心にしたエピソードで、1995年頃から2017年にかけてのデニース家の感謝祭の日の出来事だけを切り取り、デニースの黒人女性でLGBTQ(レズビアン)であるというアイデンティティーを社会(家族)がどう受け入れていくか、その変遷を描いていく。キリスト教に由来する伝統行事と、多様なアイデンティティーを認めていく現在が交差していくのは実に『マスター・オブ・ゼロ』的テーマである。みんなが集うテーブルを真上から撮るカメラは神の視点となり、すべてが笑い話になっていくーーデニースを演じているリナ・ウェイスはこのエピソードの脚本に参加し、エミー賞のコメディー部門脚本賞を受賞した。2021年5月23日に配信が開始された『マスター・オブ・ゼロ』のシーズン3はこの快挙の先にある物語だ。

3︰『マスター・オブ・ゼロ』シーズン3

 シーズン2から約4年の月日が経ち、久しぶりに届けられた『マスター・オブ・ゼロ』のシーズン3は、本作の最大のシグネチャーであるアジズ・アンサリの“声とフロウ”が影を潜めている。それもそのはず、シーズン2のラストで主人公デフは#MeToo によって役者兼タレント業の危機に立たされてしまいシーズン3では仕事がなく、実家暮らしを余儀なくされているからだ。この展開は物語の要請だけでなく、シーズン2のあとにアジズ・アンサリ自身が実際に性的不正行為(I went on a date with Aziz Ansari. It turned into the worst night of my life)を告発されたことと無関係ではないだろう。 

 アジズ・アンサリの“声とフロウ”が支配しなくなったため、自ずと画面もそれに応えるように変化し、シーズン2が映画史への目配せ、ある種パロディ的な引用に留まっていた部分から先へ進み、シーズン3ではイングマール・ベルイマン監督の『ある結婚の風景』(1974年)や小津安二郎作品郡を彷彿とさせる画面で全編構成されている。フィルム撮影、固定カメラによるワンシーンワンカット、スタンダードサイズの画面、そして、舞台のほとんどが人里離れた場所にある「家」というミニマルな構成から漂う閉塞感はCOVID-19以降の世界を反映し、社会から隔離された“無法地帯”を演出している。シーズン1と2の舞台であったニューヨークから離れたことは、シーズン2からシーズン3にいたる4年の間にトランプ政権を通過したことも大きい理由のひとつだろう。トランプ政権後のアメリカで『マスター・オブ・ゼロ』を描くためにはニューヨークから離れる必要があったーー本作の「家」は一見するとトランプ政権とその後の混乱からも隔離されているように見えるが、この「家」に漂う閉塞感には、その余波がしっかり刻まれているようにも思える。

 さて、そんなシーズン3の主人公はデフの友人であるデニースとそのパートナーのアリシアだ。なんと、この4年間でデニースは作家として成功を収め、結婚までしていたのである!性的不正行為を告発されたアジズ・アンサリ=デフの物語から、脚本賞を受賞したリナ・ウェイス=デニースの物語にバトンは引き継がれたというワケだ。もちろん、リナ・ウェイスはシーズン3の脚本のすべてに参加している。シーズン3は、シーズン1や2で描かれていたような都市の人々が交流することで生まれるドラマではなく、デニースとアリシアのドラマに焦点を当て、舞台となる人里離れた場所にある「家」はさながら2人だけの国家、家具選びも含め、ありとあらゆるルールを調整しないといけない閉鎖空間だ。さらにシーズン3にはほとんど男性が登場せず、脇役的に登場する2名の男性キャラクターはデニースの話を親身に聞くデフ、そしてアリシアに精子提供するダリウスと、徹底して良きサポート役として登場する。親身に話を聞き、精子ドナーとなる男性像は、この時代における理想の男性像とも、これまでフィクションが描いてきた都合の良い女性像の反転とも、現代の男性性のカリカチュアとしてのコメディーとも解釈できる設定である。

 そんな狭いコミュニティだけで進行していく物語が「家」から外に飛び出し、社会に直面するのは第4話、アリシアの不妊治療のエピソードである。前述してきた「家」の閉鎖性を効果的に映し出していた本シーズンの撮影や画面構成の意図が一気に変わり、「社会」と対峙し、孤独に不妊治療に挑むアリシアの心情を効果的に映し出す。自宅の机に積み上げられた大量の注射器の箱を整理していくシーンだけで、不妊治療の大変さがひしひしと伝わってくる。不妊治療は多様な選択肢がある現代において避けては通れないテーマのひとつだろう。シーズン1と2において、結婚や子育てという選択肢を選ばなかったデフに見切りをつけ、その選択肢への挑戦を『マスター・オブ・ゼロ』は新しい恋人たちに託したのだ。第4話におけるアリシアのドラマは旧来の価値観の延長にある結婚や子育て、そして、現代における多様な選択肢の結果としての不妊治療を行き来し、実に『マスター・オブ・ゼロ』らしいテーマを浮かび上がらせる。

 最終話となる5話において、物語はふたたび「家」へと戻ってくる。内装は大きく変わっており、かつての名残はないが、たしかにここはあの日の「家」なのだ。シーズン3で大きな変化をとげた『マスター・オブ・ゼロ』と、デニースとアリシアの「家」を巡る物語は重なる。デニースとアリシアの手で『マスター・オブ・ゼロ』という「家」の内装は大きく変えられたが、本作は間違いなく『マスター・オブ・ゼロ』だ。デニースとアリシアは「家」という名の無法地帯で、2人だけの法律を作る。アジズ・アンサリは変わり続ける価値観を捉え続けることが優れたコメディーの条件だとよくわかっている。本作におけるデニースとアリシアのフットワークは現代の喜劇そのものなのだから。そのフットワークは私たちの生活の歩みを確実に変えていくだろう。(了)

第2章:『アトランタ』

 執筆中。

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