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【短編】生活問題

 仕事を変えることになった。新卒採用されたが一年を待たなかった。今度は遠方だ。実家から引っ越さなければならない。今の仕事もぎりぎりまで続ける。だから作業は土日に纏めて行う。わりと忙しい。
 その貴重な週末に姉が突然に家に舞い戻り甥と姪を俺に預けて出掛けた。両親と義兄も一緒だ。街で食事すると告げて年長者たちは出て行き、あとには俺と幼稚園児ふたりだけが取り残された。
「もう飽きた」
 午前中は姉が持参したアニメを鑑賞させるも昼食の頃になれば園児たちは不平を漏らす。五歳の甥は俺を期待の目で見つめ、四歳の姪は口を空け何かを待っていた。俺は今日中に文庫本を梱包したい。折衷案が浮かんだ。
「手伝ってくれ」
 園児たちの協力により瞬く間に荷物が梱包されていく。そんな状況を期待したが夢を見ていたらしい。最初のうちこそ園児たちは手馴れぬ作業に好奇心を刺激されていたものの、いつの間にかダンボール箱を頭から胴体まで被って走り回る無謀な奇行に興じていた。
 しかも前が見えないから壁に激突すること幾度。

 止むを得ず俺は足の生えたダンボール箱たちを野に放した。冬の寒空の下、休日だが人も疎らな近所の小さな公園で園児たちは無闇に駆け巡った。ただし余りにも駆けるので車道に飛び出す危険があった。
「一〇歩だ。一〇歩走ったら方向転換しろ」
 命ずる。するとダンボール箱たちは急角度で曲がった。興味深い。
「止まれ」
 進め。廻れ。跳ねろ。ダンボール箱たちは俺の言葉のままに公園を縦横無尽に走る。そして指示に従うのが嬉しいのか、箱の中から高音域の笑い声が折々に噴出した。
 俺は夢中になっていた。そこで声を掛けられた。我に返る。
「――君だよね?」
 振り向けば女。名乗られた。見覚えがあると思ったら中学の同級生らしい。すこし話す。彼女も就職したがすぐに退職して今は手話を習っているという。
 お互い大変だな。そう言った。すると急に新生活への不安が喉元に込みあげて続く言葉を失くした。俺は焦り、相変わらず駆け廻っているダンボール箱たちを指差した。
「箱の中は暗闇だろうに、怖くないのかな」
「だって子供だもの」
 それで会話は終了した。連絡先だけ聞いた。
 女は別れ際に掌で空中を切り、手話で何か言い残していった。しかしあいにく俺は手話が分からない。
 立ち去る女の背中を呆然と見つめているとダンボール箱たちが俺に激突してきた。声の標を無くして迷走したらしい。

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