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【短編】大きな瞳で見つめられた

 記録を樹立した。一時間で煙草を一.五箱吸った。しかし二五年の人生の中で一度たりとも煙草の本数などメモしたことがないから実は新記録でないのかも知れない。よく分からない。
 午前中のエクセルシオールでカプチーノを服んでいた。店内は薄暗い。俺は壁際のソファにもたれている。別のソファでは奥様達が息子や娘が性に目覚めて困ったと楽しそうに話していた。話したくて仕方のない明るい種類の悩みもある。羨望。向こうには無感情な顔をした、おそらく別離話をしている若い男女が居た。窓際には全身黒ずくめの三〇過ぎの女がチーズケーキを食べていた。
 誰からも声は掛けられなかった。昨晩は女とホテルに行った。二人とも泥酔していたから行為には及ばなかった。女はずっと様式便器に顔を突っこんでいた。慰めに女の好きなスピッツを歌ってやった。
 午前二時に女の親から電話が掛かってきた。それで女の親が帰ってしまったので、今とても、見知らぬ人でもかまわないから、したい。しかしどの女も俺に見向きもしなかった。欲しいと思った時には女は寄って来ないという言葉が世間にあるのを宿酔の頭が思いだした。その瞬間から女は不要だと思ってみたがやはり誰一人として寄ってこない。寂しくはないはずだった。
 仕方がないので誰彼なしに殺意を抱いてみた。奥様は昼間から茶を飲んでいるからぶち殺す。男女は幸福そうでないからいっそのことぶち殺す。三〇女は横顔が好みなのに俺に声を掛けないからぶち殺す。理由ならいくらでも浮かんだ。
 しかし殺す勇気はかけらも無かった。不思議なもので寂しいとは口が裂けても言えないが、「セックスしたい」や「殺す」ならば平気で何度でも飽きることなく言えた。
 不意に明日の仕事が思い浮かんだ。充実感の無い仕事だ。明日には確実にその仕事をしている。毎週連続で繰り返してる。恐怖。逃げたい。同じことを繰り返したくない。
 臆病者。いつも自分のことを気に病む。だが幸いに今は昨夜のアルコールが随分と残っていた。
 俺は立ちあがり三〇女の傍に行った。
「ラピュタに行きませんか?」
「天空の城のこと?」
「はい。宮崎駿が映画にして有名にした所です」
 その時に女が俺の目を見た。見つめられた。心臓が停まるかと思った。
「私みたいのに声を掛けちゃいけない」
 女は俺の掌を包むように両手で握った。俺を見つめる。しかしどこを向いているのか分からない瞳。家に帰ろう。そう思った。

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