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【短編】国語便覧

 なるほど。分かります悩みがあるんですねなどと言われてほいほい甘えて誘いに乗った挙句にいざ男の部屋に行って裸になる段になれば意外に寸胴ですねすごい外反母趾なんですね脱がせるまでは全く気付きませんでしたよなどとふざけた夜を過ごした翌朝に帰宅すると大学時代からルームシェアしている大学の後輩の友人から今日彼氏が来るからちょっと準備してねと言われる。
 昼ごろ友人の彼氏が訪れた。近所に碌なお店もないので日本人的にお寿司ということになり廻るお寿司屋さんに行った。テーブル席に座る。
「いくら」
 と友人がベルトに乗る鰯を見て言った。
「いや鰯だね」
 と友人の彼氏が言った。
「この人はね、いくらが昔から大好きなんです」
 と私が言うと、友人が私の脇を突いてもう二年も恋人やってるんだからそれくらい知っているよと囁いた。
 友人の彼氏が言った。
「回転寿司って人生みたいだと思うんですよ」
 私は二十八歳で友人が二十六歳。その彼氏は二十九歳だった。二十九歳の割に寝ぼけたことを言うので対応に困惑した。友人が教えるには彼は人生に譬えるのが好きなのだそうだ。
 私は訊ねた。
「どのあたりがですか」
「全部が」
 友人はこの男と結婚を考えているのだそうだ。私は辞めた方がいいと考えた。寿司の後で友人と私の部屋に男と一緒に戻り酒をしこたま呑んだ。友人が小用で席を立つと男が鞄から書物を取り出してこれ見てくださいと私に寄こしてくる。国語便覧だった。
 私は訊ねた。
「なんですか」
「人生です」
 確かに全ての物は人生に似通ってくるかもしれない。いくらの軍艦巻だっていくらという美味しいものの土台の下にはご飯という縁の下がいるんだとか、解釈など無数につけられるのだし。そもそもいい加減なものなのだ言葉による人間の理解なんて幻想百科事典なんだ妄想の万国博覧会だ。
 私はぺらぺらと便覧を手繰る。夏目漱石の写真の上に福沢諭吉の写真が張り付けてあった。驚いた。本物の紙幣の諭吉が切り張りしてあった。漱石以外の人物写真もみんな諭吉。
「三百万円超」
 人物の写真全てを慶応大学創設者の顔に貼り替えるのにその金額、ということなのだろう。
「なぜこんなこと」
「意味がないのが人生です」
 私はつい、なるほど、と答えてしまった。
 男はきっぱり物を言う。だから勢いに騙される。納得したと勘違いする。
 男は言った。
「彼女の人生を幸せにします」
 金があればどうにかなるに違いない。

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