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【聞いてみた】スピリチュアルで別居親の人に聞いてみた



はじめに

子供のためにその人の人生の記録が必要かもしれないだろうと思い。(さしでがましく、おこがましいことかもしれないが)


現在

体だけ大人の幼稚園児

qbc:今、何をしている人ですか?

K:今はね、死に損ないです。
脳幹出血で全身麻痺になって、普通なら即死かと思われたんですが、運がいいのか悪いのか知らないけど、まだ生き残っちゃってて。
ほぼ植物人間になったんだけど、そこから奇跡的に意識が戻って、そこからちょっとずつリハビリして体が動くようになったんです。

qbc:なるほど。倒れたのは、いつですか?

K:私が脳幹出血で倒れたのは、実は子供が生まれたその日なんですよ。
だから、7年前の8月11日ですよ。

最初はボケ老人みたいなもんで、ほとんど思考力もないし、訳のわかんないことを叫んだり、泣いたりとかしてる感じの、体だけ大人の幼稚園児みたいな感じからスタートして。
当然歩けないから、専門のリハビリ病院に転院しました。そこで座ったり立ったり喋ったりっていうリハビリを数ヶ月続けて。

それで、もうとにかく、監獄みたいで不愉快としか思えなかった病院を早く退院したいって思って。ただ、歩けないことには退院しても何もできない。
何とか歩けるところまで回復させて、強引に退院しました。

qbc:はい。

K:そこからは、自宅に帰って、赤ちゃんをベビーカーに乗せて、ベビーカーを歩行補助器代わりにして、ひたすら歩く練習の日々ですね。

あとは、家にいる間は、指1本でワープロ打ったりしながら、ネットを見たりして、健常者に近い頭脳に戻れるようにトレーニングをしていました。

qbc:どんなことをして1日を過ごされていたんですか。

K:元々は、ギターが命と同じくらい大切で好きだったんだけど、ギターなんてもう全然。ギターを持って座ることができなかったんで。
全ての楽器は諦めて、もうひたすら文字を読む、書く。ああ、文字も書けないんで、ワープロを不器用に打つ。

そういうことをして、時間は自然と潰れる感じですね。
あとは話もそこそこできるようになったんで、人と話すような機会を作って、合同セミナーみたいなことをして、喋るトレーニングを積んだっていう感じですね。

qbc:なるほど。

K:でも、もっぱら歩く練習でしたね。ちょっと歩くとすぐ疲れて、立っていられなくなるんで。
どっかのファミレスまで歩いていって、何とか倒れずにたどり着いたらそこで座って、休憩して。コーヒー飲んだり食事するなりして、それでまた歩けると思ったら、また次の場所に移動して。それでまた座って読書したり、飲み食いしたりとかっていうことを、毎日毎日やってたんですね。

目もよく見えなかったんですよ。左右の脳がうまくリンクしてないんで、右目と左目と見た映像が、統合されないんですね。だから車が1台走ってきても、5台10台走ってきたようにしか見えなくて。道を歩くこともできないんですね。

普通に歩けるようになったのは、いつだろうな。もうとにかく、ちょっとずつ積み重ねて歩けるようになってきたんで、何月何日にこうなったっていう言い方はできないな。
半身麻痺がひどいんで、片足で立つということができたのは、3年前ぐらい。

でも頭は結構、健常者並みには戻ってきてるんですよ。特に、話すことに関してはね。
ただ、計算とかはもうできなくなりましたね。単純に足し算引き算ぐらいはできますよ。でも、複雑な連立方程式とかは多分できないんじゃないかと思うんですね。

それから、脳幹出血だったから、とにかく全身がダメージを受けたんですね。
脳幹っていうのは、内臓を機能させるように信号を発信する場所なんですよ。だから脳幹に損傷があると、内臓がうまく機能しなくなるんですね、足腰だけじゃなくてね。

内臓ってのは、感覚がないんで痛さとかわかんないじゃないですか。私の場合、腎臓が機能を停止していたらしいんですよ。
血液の中から毒素を抜くという機能だけが欠落してしまって、それで血液中の毒素がどんどんたまって、苦痛に見舞われる。それで人工透析に行くことになったんですね。
でも実は最近、半年ぐらい透析を受けないって挑戦をしたんだけどね、やっぱりダメでしたね。
あと小便を我慢するという筋肉もなくなってきてるから、とにかく何回もトイレに行ける環境にいないと、やっていけないっていう感じですね。

qbc:Kさんは、周りの人から、どんな性格と言われますか?

K:今は謎が多すぎる人に映ってると思いますよ。
子供時代は、明朗快活な、ユーモアセンスに富んだ子供でしたよ。学級委員長とかをやってたし、スポーツも得意で、音楽も得意で、人の前に出てまとめたりとか、そういうことを苦も無くやっていたようなタイプですけど。

qbc:ご自身では、どのような性格だと思っていらっしゃいますか?

Kさん:私は子供の時から、地球人がちょっと苦手だったんで、あんまり地球人を比較対象にしてないんですよ。
だから地球人からしてみると、すごく変わってるか、あと人によっては、すごく優っているというふうに見てくれる人が、まれにいるんですよ。
でも、とにかく変わってる。
でも基本的には、美しいものにとにかく関心があるんで。
美術でも音楽でも、美しいものをとにかく入れたい。美しいものに囲まれたい。
醜いことはしたくない。物理的なことだけじゃなくてね、精神的なこともね。
例えばこれをやると儲かるという仕事があっても、なんて醜いことなんだと思った瞬間から、それはもうできなくなる。
逆に、一銭にもならなくても、これは美しいと思うことは、どんどんやると。そういう感じ。

あとは、若いときは怒ったりとか、喜怒哀楽が激しかったけど。
10代から心理的なことにすごい関心を持つようになったんで、悟りとか。そういう方向でいろいろ突き詰めたら、感情の起伏はほとんどなくなりました。
抑えてるとかじゃなくて、本当にないんですね。

原則、怒ることはもう滅多にないです。我慢してるんじゃなくて、怒るという感情自体を忘れてます。
イコール大笑いするということも忘れてるんですね。沸々と沸く喜びとか嬉しさみたいのはあるけど、ワハハっていうのは、なかなかないというか。だから地球のエンターテイメントで面白いと感じるものは、ほとんどないです。

qbc:なるほど。

K:人間がどうやってできたとか、どうやって生きて、死んだらどこに帰るかとか、そういうことは、ものすごい追求しました。すごく楽しいんですよ。
それは誰にも頼まれなくても、一生懸命やってるんですね。

本質的なことを突き詰める性格ですね。
どうでもいいと思ってることは全然気にしない、そういう性格です。

qbc:趣味はおありですか?

K:倒れるまでは、音楽が一番でしたね。
若いうちは面白いと思ったことにすべて熱中する。それが特技とか趣味になってたと思いますよ。
でもその時々で、いろいろ得意なものとか、好きなものはあるけど、私の趣味はこれですみたいな、取ってつけたような趣味というものは、特に決めてないですね。

ただ、結果的にいつも手放さないでいたのは、楽器なんですね。
三、四歳からピアノもやってたんだけど、ピアノは持ち運びができないから。高一の時に持ち運びできるギターに変わりましたね。そこからは誰に教わるでもなく、ギターばっかり弾いてました。高校生のときは1日8時間ぐらいね。
誰に頼まれるでもなく、ギタープレイヤーになりたいという欲求も特になく、弾いていること自体が楽しいから、奏でる音が美しいからという理由で弾いてただけなんですよ。


過去

子供時代

qbc:Kさんは、どんな子供でしたか?

K:明朗快活、元気。運動も音楽も大好き。勉強は好きじゃないけど、得意でした一応。
とにかく嘘をつけない。本当のことをずけずけバンバン言っちゃう子供でした。

本当に素直で、人を疑うことは知らないし、どんな人にも優しい子供でした。
両親がね、両親とも片親育ちなんですよ。だから家族というものに対する憧れとか、すごい理想があってね、私が長男だったんで、ものすごい喜んで。
父方母方の両親とも、大切に育てようという気がすごくあったみたいで。だから過保護にはしないけど、すごい愛情込めて育てられたんですね。

だから、人を疑うこととか、騙すとか、そういう発想が全くない。
大人からしてみたら、簡単に騙せるような子供でしたよ。

qbc:はい。

K:小学校低学年ぐらいまでは、友達と集まってスポーツやったり、喋って騒いだり、学校が終われば誰々くんち集合みたいな感じで集まって、野球とか、ドッジボールとか、いろんなことでいつも遊びまくって、日が暮れるまでとにかく家に還らなかった子供でした。

ただ、幼稚園に上がるころにレコードが普及し始めて、お母ちゃんが「ひらけポンキッキ!」のLPを買ってくれたんですよ。
自分で操作ができないから、お母ちゃんをいちいち呼びに行って針を落としてもらって、聞きながら喜んで歌って踊ってた記憶はあります。

それで今度は音楽が非常に好きだっていうことになって、三、四歳の頃にピアノ教室に通わせようって話になって、小さいアップライトピアノを家にも買って、ピアノ教室に行かされたんです。だけど、教室があまりにも苦痛で、半年かそこらで泣いて辞めました。
浜松っていう町は、ヤマハとカワイとか、ピアノメーカーがたくさんあったんですよ。だから、庶民でも家で普通にピアノ買って弾いてたんですよ。教室もいっぱいあったし。
家のピアノは、20歳ぐらいまで弾き続けてましたね。小学校では指揮者とかやらされてたりとかもしたし。

qbc:生まれたところは、どんなところでしたか?

K:家の周りは畑と田んぼが普通にあって、蛙が鳴いてて、というところだったんで、いつも走り回ってましたね。走るのはとにかく好きで。
自転車を親が買ってくれたけど、走りたいから、友達が自転車で移動するところを、1人で走って移動してましたね。
だから結果的に走るのが速くなっちゃって、スポーツテストの記録は大体学年一番で、それが高校ぐらいまで続きましたね。トレーニングをしたわけじゃないんだけど。

あとは、親父が魚とか海が好きだったのもあるし、とにかく周りが自然の豊かなところなんで、ザリガニを取ったりとか。
私の親父は、船を持っていてね。よくシュノーケリングしながら水中銃を使って魚をハンティングしてたんですよ。趣味だったんですね。
だから、私はいつも親父に連れられて行っては、親父は魚を捕りに泳いで、私は1人で釣りをしてたっていう。
小学生のときは、そういう日曜日の過ごし方が多かったですね。

qbc:なるほど。

K:生まれた場所自体は、浜松駅からすぐ近くなんだけど、面白いことにスズキ自動車の本社があって、スズキ自動車の力で浜松市に合併してなかったんですよ。
だから浜松市の中央に、ちょこんって小さい村があったんですよ。
私はその村出身なんですね。だから村立小、村立中だったんですよ。
村の名前は、可能性の可に、美しいで、可美村(かみむら)というところです。

東海道線沿いで、松の木が並んでる街道があってですね、参勤交代のルートだったみたいですね。だから歴史はある土地だったらしいですよ。
海も近いし山もあるし。川も、大きい川あるんですよ。あと浜名湖があるんで。
浜名湖は海水なんですよ。湖なんだけど、海と繋がってる湖で。だから海の魚が釣れるんですね。

小学校

qbc:小学校では、どんな子でしたか?

K:素直に授業をちゃんと受けて、宿題はやらないし塾も一切行かないけど、テストはもう原則満点。
小学校なんて難しいことは一切教えてないし、集中して授業聞いてれば100%理解できることしか教えないわけじゃないですか。でもたまに98点とかなると悔しい、みたいに思ってた記憶はあります。

授業中も黙って聞いてるんじゃなくて、はいはいって手を挙げて、いつも発表したりとか、そういう感じの積極的な子供でした。だから学級委員長にもなっちゃったりとかしてましたね。

あとは、三、四年生の頃、将棋を知ったんだけど、将棋は面白いなと思って。
一生懸命やってたら、すごくうまくなってしまったらしくて、親父の友達とかで段を持ってる人が教えてくれたりしましたね。

qbc:小学校で困ったこととか、ありましたか?

K:ないですね。
でも、世間一般だったら困ったであろうと推測されるだろうことはありますね。
自分の弟が、知的障害者だったんですよ。ダウン症だったんです。2歳年下だったんですけど、3歳ぐらいから福祉施設に預けたんですね。

基本的に喋れないし、遊べないわけですよ。
普通、兄弟がいたら遊んだりしてますよね。でも障害者だから、何歳になっても赤ちゃんをあやすような遊び方しかできないんですよ。
まあ、それはそれで楽しく過ごしてたんですけど、今思えばそれを大変だなとか気の毒だなと思って見てた人は、いたかもしれないですよね。

でも四つ下の妹がいたんで、その分、妹と遊んでましたね。
どっか遊びに行くと、妹がついてきたりする機会が多かったんですよ。

中学校

qbc:中学校はどうでしたか?

K:中学校は、人生が大きく変わる事件があって。
屈託なく素直に言いたいこと言ってやりたいことやってたから、すこし知恵のつき始めた中学校で、いじめに遭ったんですよ。

あいつ格好つけてるとかそういう理由でいじめられるんですよ。
いじめた張本人はPTAの会長の息子で、ガリ勉を強要されたやつで、後で思うと、子供なりによっぽどストレスを感じたわけで。
だからそのストレスを発散するために、学校で誰かをいじめるというニーズがあったんですよ。

いじめの対象が私になったのは、学年でそいつとテストの点とかで一番二番をよく争ってたんですよ、ガリ勉で塾とかも行って宿題もやって、そんで1位になってるのに、私は好き放題遊んでて1番だから、すごく面白くないやつだと思うんですね。
だから、あの野郎っていう気持ちもあって、いじめてきたのかと思います。

いじめるって言っても、本人が殴ったり喧嘩をしたりするんじゃなくて、親がPTA会長だという権力を背景に、Kと喋るなとか、Kと仲良くしたらお前も仲間外れにするぞみたいな脅しをしてきたんですね。

それで、私は孤立させられてしまったんですよ。
今までが素直で明朗快活だっただけに、すごいショックで。もう人間なんて一切信用できないというふうになって、中学校生活はもう真っ暗でしたよ。

qbc:いじめは、具体的にはいつごろから始まっていたんですか?

K:中1ぐらいで急にそうなったんですけど。
その時に一番考えてたことは、自殺でした。十二、三歳の時に。

その時に自殺しなかった最大の理由が、実は弟なんですよ。
知的障害の弟を残してお兄ちゃんが自殺したら、親がどれだけ悲しむか。あと、妹がどれだけ困るかっていうことを考えたら、自分が死にたいと思う時だけ、心がものすごい罪深くなって。子供なりに考えるんですよ。

それで、結構頑張って生きてましたね。友達も作れなかったんですけど。
でも、たまたまハッピーなことに、小学校二、三年で仲の良かった奴が、親の転勤でロサンゼルスに行っていたのが、中1の時に帰ってきたんですね。

周りは田舎もんだから、アメリカ還りの奴なんかいたら、やっぱ面白くないですよね。
英語とか喋って、お洒落なことを当たり前にしたりするわけで。やっぱそいつもいじめにあったんですよ。

小学校の時も元々仲良かったし、今はいじめられてる者同士だし、それで気投合して、そいつだけは私がいじめられてる時でも、ずっと仲良くて。
そいつがアメリカから持ち帰ってきたアメリカの文化をね、向こうのFMを録音した音楽のテープを何百本も持ってきていて、それをいろいろ貸してくれたり。LPを貸してくれたりしたんで、それで、その当時のアメリカ音楽を真っ先に吸収したんですね。

日本じゃまだ知られてもいないようなアーティストの曲を聞いて、大好きだと思ってたら二、三年後に日本のラジオ番組で流れてきたりとかしてたんです。
日本にいながら、アメリカ文化を先取りできてたんですね。

そいつといつも一緒に遊んでることが、私にとってもストレス発散だし、死にたいと思ってるぐらい暗い青春時代でも、希望を見出せるような。
俺には音楽があると、そういう逃げ道になったんですね。

qbc:当時は、具体的にどんな音楽を聞かれていたんですか?

K:当時は、デュランデュランとか、カルチャークラブとか。あとシンディ・ローバーだとか。
ロックっぽいもんも聞いたり。
そのときは新しいっていうか、それが当たり前だと思って聞いてるだけだから、自分がいつも聞いてるアメリカの曲に比べると、日本に流れてるテレビやラジオで流れてる曲はだせえなと思うだけで、別に特段何とも思わなかったんですね。

やっぱりロックとかポップスって、英語じゃないと基本的にリズムに乗らないじゃないですか。だからアメリカの曲はすごい自然だなと思ってたけど。日本語の曲も、サビだけ英語だったりするじゃないですか。

自分がする音楽のほうは、中学三年まではピアノがメインでしたね。
ギターを自分で買おうという発想もなかったし、弾いてる人も田舎だからいなかったし。

ところが、中学を卒業して高一になると、ロックスターに憧れてるやつとか、周りでギターを始めるやつが出てきたんですよ。それでバンドとかギターっていう楽器の存在を知って、そしたら自分が中学時代に聞いてた曲も、ギターの音が入ってるんだってことを、そのとき初めて知ったんです。

こういう楽器でこういうことやってたんだって知って、それで食いつきが良かったわけですね。もうなじみがあったから。

qbc:他には、どんなことがお好きでしたか?

K:ラジコン。ラジオコントロールカーですね。
その時代は、出来上がった形で売られているような安いラジコンというものはなくて、プラモデルみたいに、自分で買って組み立てる時代だったんですよ。
ラジコンをお年玉で思い切って買って、組み立てて作るということにハマって。
田宮模型が静岡にあったんで、近所のおもちゃ屋にもいっぱい売ってたんですよ。その頃は当たり前だと思っていたものが、後に結構すごい環境だったんだと、だんだん気付くわけです。

手先を使うことが好きだったんで、手芸的なこととかあやとりとかもすごい好きでしたよ。
手芸というほど立派なものではないですけど、授業で面白いと思って、はまっちゃったんでしょうね。
指先使って何かを作るという喜びを知ったってことですね。
家庭科の授業で料理をやると面白いなと思って、かあちゃんに頼んでやらせてもらうとか。

この頃にのめりこんだのは、やっぱり音楽ですね。学校がつまらなかったから、とにかく楽しみが音楽でした。
今はもう一切できなくなっちゃいましたけどね。

高校

qbc:高校はどんな感じだったんですか?

K:勉強は全然大嫌いで興味なかったけど、自然と英語は身についてたんですね。
一番の友達が十二、三歳で英語がよく喋れて、それで音楽も全部英語圏のものなんで、自分も英語の曲を聞いて、自分が歌うのも英語しかないわけじゃないですか。日本の歌謡曲は、ベストテンとかでちょっと知ってたけど。
だから英語がすごい得意だったんですよ。それで勉強なんか一切しなかったくせに、英語のテストが抜群だったんで。

それで先生に偏差値だけ見られて、この高校に行けって言われるがまま受けて行った高校が、ガビーンってなったんですが、いわゆる進学校で。
私、勉強なんか大嫌いで、一切しないから、もう高校は地獄でしたよ。くだらないことをするために朝起きてあんなとこ行くんだ、っていう生活が始まったわけですけど。

qbc:なるほど。

K:音楽部とか入っても、つまらないクラシックの曲とか、わからない曲について練習するだけじゃないですか。
そんなくそ面白くないことに、やっぱ興味がないんで。
基本的にロックが面白かったんで、自分で自宅でギターの練習をどこにも通わず、1日8時間ぐらいやってました。

だから高校時代は、朝早く起きて、登校する前にギターを弾いて、授業中もギターをイメージしながら指を動かすトレーニングをして、授業が終わると大喜びでまっすぐに帰って、そんな飯食ったり風呂入る以外は、ずっとギターを弾いているっていう暮らしを原則3年間やってました。

qbc:憧れのロックスターみたいな人はいたんですか?

K:いや、別にロック的な憧れは全然なかったんで、ただテクニカル的なことで言ったら、こういうプレーをしたいなっていう人は、何人もいましたけど。全員アメリカ人かヨーロッパ人ですかね。
日本人ですごいなと思ったアーティストは、その時代はいませんでした。今でもギタリストではいませんね。

他の音楽の話で言うと、私は、ギターができるしピアノもできるから、他の楽器もやりたくなったんですよね。
例えばドラムなんですが、ドラムって音もかなり出るし場所も取るし、自宅で演奏するのって難しいじゃないですか、お金もないし。
それで学校の音楽部にドラムセットがあったんで、そのドラムを叩きたいって気持ちで、音楽部に入部したんですね。そんで、早朝に勝手に朝練とか言ってドラム叩いたりしてたんですけど、そしたら音楽部の先生が、お前ドラム叩くんなら、発表会でもドラム叩けと言われて、つまらない歌謡曲みたいな課題曲を出されて、年に1回、グラスの発表会でも、なんかドラムを叩いてましたよ。オーケストラのメンバーが数十人いる中で、仕方なくしてました。ちょっと笑える思い出でしたね。

進路・進学について

qbc:高校の後の進路進学は、どうしようと考えていたのでしょうか。

K:それがやっぱりターニングポイントで。
進学校だから、周りのやつは大学に行くか、さもなければ予備校に行くわけですよね。それに、学校への就職の斡旋もゼロなんですよ。

でも私は、大学に行くなんて希望を、微塵も持ってないわけですよ。
かといって働きたいって気持ちもまだないわけですよ。
だからどうやって生きてくんだっていう話、進路指導とかになった時に、こんな勉強とか言われるものはつまらなすぎるんで、大学にも何の魅力も感じなかったんです。

つまり17歳で、大学行く気ないし、働く気もないという、年だけ重ねた、ただ音楽が好きなだけの思春期の困ったやつがいるというだけだったんですね。

そんで私の場合は、特に変わってるのは、恋愛に興味ない、食べ物に興味ない、というのもあるんですよ。
例えば女遊びがしたいから一人暮らしがしたくて、それで大学行きたいという動機に繋がったりもするわけじゃないですか。でも私には、それもないんですよ。
それから、大学生だったら飲みに行くとかって気持ちにもなると思うんですけど、私はそこにも興味がないんで。人と関わってすることと言えば、音楽をプレイすることぐらいだったんですね。

だから、どうしたらいいかなと思ってたときに、進学校だけど、すごいヘビメタマニアの世界史の教師がいて、その先生が私のギタープレイを学園祭で見て、授業中にKのプレイはすごいとか、プロでやっていけるみたいなことを、他のクラスでも授業中に言っていたらしくて。
その先生が、廊下でたまたますれ違ったときに、進路指導でも何でもないのに、お前はプロを目指すのかと、何かいちいちボソボソ言ってきて、そんなふうに思う人がいるんだと思って。

でもなんか、音楽好きな人が、しかも教師がお前プロのミュージシャンになるのかって言ってるぐらいだから、そう見えるってことなんだと思って。
ミュージシャンにでもなろうかと思ったんですよ。

でも、高校卒業するときに「ミュージシャンになります」っていうのもなかなか言えないわけですよね、うん。
それで相談のしようもなかったし、ただ音楽雑誌とか読んで、どういうふうにしてプロのミュージシャンになったかとかいうインタビュー記事を読むぐらいですね、参考になるものと言ったら。

でも基本的に、日本で世に出る人は、親がお金持ちでサポートしてくれたからミュージシャンになれたみたいな話がほとんどなんですよ。

qbc:はい。

K:それで、一応赤本とか眺めたりして、親の手前もあったんで、一応受験校も決めたんですよ。早稲田、立教とかいくつか受けることにして、親は真面目に受験料を振り込んだりして、ホテル代まで払って私を東京に出させてくれたんですけど、受験会場行ったら、あまりのくだらなさに吐き気を催しましたよ。受験生を見ただけでね、うわーって思って。こんな奴らとこれから4年も過ごすなんて、冗談じゃねえと、くだらねえと思って。
だからテストは白紙で回答を出したりして、さっさと提出して時間つぶして、2日目3日目は、新宿の歌舞伎町を見たりとか、東京見物して帰りました。

だからそのときに、高校卒業だけして、だけど何も当てがないから、ひとまずフリーターになったんですよ。
その時代はフリーターという言葉はなかったんですけど、就職もしないで家でぼうっとしてもいられないんで、アルバイトを始めたんです。
フリーターって言っても、田舎でフリーターしてもすることないんで、音楽的な道も開ける可能性もあるしと思って、それで上京をしたんですね。


10代の頃の家族関係

qbc:10代の頃の家族関係は、いかがでしたか?

K:中学のときは、父親はもうとにかく仕事をしてて、私に全然ノータッチだったんで。日曜日だけは、釣りに行ったりしてましたけど。だから、釣りも趣味でしたね。
おふくろは、基本的には、多分相当悩んでたと思いますね。あんな明朗快活で素直な子供が、中学に入ったらいきなり死にたいみたいな感じの、どんよりした子供になっちゃって。

あれだけいつも仲間といたやつが、1人っきりでいつも音楽部屋にこもって、音楽やってるわけですから。どうしたもんかって言って、おふくろも悩んでたと思いますね、うん。

でも、やっぱり怖いものに触れるような感じで。だから私に厳しいことも何も言えずに、どうしたらいい、というような答えも見いだせずに、ただどうすることもできないけど、温かく見守るってことをしてくれたような感じですね。

ただ、総じて、あんまり親のことを考えたことなかったんですね中学は。その時の生活が自分にとっては別に当たり前だと思ってたんでね。
逆に言うと、不満が何もなかったんですよ、家に対する。こういうのが嫌だとか、そういうことを思ったことが一切なかった。とにかく、ああしろとか、これしてとか。
駄目っていうのも、親は何も言わなかったです。

おふくろが、一応世間体があるから、宿題やったのとかってぽろってたまに言うと、親父が「宿題をやれ」とか言うなって、おふくろに怒ったんですよ。
亭主関白でしたね。それもあったから、おふくろは私に余計に一切の指図はしませんでした。

だから、勉強も一切しない塾も一切行かない。ギターばっか弾いてても何の文句も出ない。普通に何かしてっていうことも、基本的にはない家だったんで。

お金もあんまり遣わなかったですね。お年玉とかでギターを買ったら、もうそれでずっと遊んでるから。お金も手もかからない子供だったと思いますね。

20代:上京~浜松Uターン

qbc:高卒でフリーターになられるんですね。

K:そこからアルバイトで食い繋ぐみたいな生活ですね。
正社員として就職活動したことはないんです、派遣とかも含めてですね。時給で働くような生活を10年以上はしてましたね。

アルバイトは、スーパーの品出しだったり、ビデオレンタルだったり、何でもよかったんですけどね。そんで、そのバイトの時給をもらって、そのバイト代を何に使うかって言ったら、いわゆるその時代の遊びですね。

プールバーに行くとか、ディスコに行くとか、あとちょこちょこっと洋服を買うとか。でも、この小さい町でこんなことしててもな、っていうのをすごく思って。ディスコとかで、工場で働いている社会人とか見たときに、こんなことやって人生終わっちゃうんだって、ある意味失礼だけど、気の毒に思って。
こんな田舎でくすぶって人生を終わらせるわけにはいかんと思って。
よし、ミュージシャンになるなら上京するしかないと。

ミュージシャンの仕事は田舎にありませんからね。そう思って、俺はミュージシャンになるとか言って、状況を決めたんですね。

それで上京して、音楽関係のレコード会社に就職したんです。
時給いくらっていう契約だけで、その後、普通に言われるようになった契約社員というやつじゃないですかね。
二、三年勤めましたけど、社員旅行とかにも出たりしましたけど、他の部署とかとのやり取りもありましたけど。でもやっぱ音楽業界の仕事っていうのは、本当にもう、いわゆるビジネスなんで、お金儲けのために全部やってることなんで、それで音楽自体も嫌いになっちゃったんですね。

大好きな音楽でも嫌いになってまでこの仕事を続けちゃいかんと思ってですね、そのレコード会社を辞めたんですね、うん。

それで、川崎市にマンションを無理して借りて、音楽機材を買ったりして作曲編曲とかいろいろやってたんですけど、もう音楽が嫌になっちゃったんで、機材も全部売っちゃって、横浜の磯子区の安アパートに引っ越したんですね。
京浜急行がすぐ脇に通ってて、とにかくやかましくて、まともな人は誰も住んでないような物件が安くあったんで、そこだったらギターを弾いてうるさくしてもクレームが上がりにくいはずだと思って、そこに住んでたんですよ。
でも音楽かけてたら、やっぱりクレームって出ましたけどね。
音楽が嫌いになったって言っても、聞くこと自体は全然嫌いになってなかったですね。CDとか市販されてる音楽に合わせて、自分でギターをプレイしたりとか。

qbc:音楽は嫌いだったけども、弾けたんですか?

K:弾くほうはね。一日三、四時間とか、全然楽しくやれてたんで。

それで、お金を稼ぐために何をするかと思ったときに、適当に見つけていろんな職を経験したわけですね。
携帯電話とかPHSとかが普及し始めたばっかりの時なんで、通信機器のエキスパートがほとんどいない時代だったんですよ。だから大卒でもそういうところに就職する人はいないんですね、その時代は。
だから携帯電話会社とか通信関係は、中途採用みたいな求人が結構あったんですよ。それで私も高卒だけど、資格とか学歴を問われないからっていう理由で携帯のカスタマーセンターとかに勤めたりとか、あとはスカパーっていうケーブルテレビのカスタマーセンターに勤めたり。
なんだかんだでそれで5年ぐらい勤めてましたかね。
その時の年齢は、23、4ぐらいだと思います。

喋ったりするのは得意な方だったんで、カスタマーセンターで頭角を現しちゃったらしくて、リーダーになってくれとかマネージャーをやってくれとか言われて、そのときは雇用形態は派遣でしたけど、月給で三、四十万はもらえるような暮らしが成り立ちましたね。

でも、通信関係の仕事は、他の物を作ったり売ったりする仕事よりは面白いけど、このために上京したわけでもないしなと思ってですね。
楽だからってこの仕事を続けないで、新たな道を模索した方がいいなと思ってですね。

次の転職が、横浜赤レンガ倉庫っていうのが新規で立ち上がるっていう話があって。そのオーナーっていうか所有者が横浜市なんですね。
でも役人だけでは民間企業の運営はできないから、第3セクターっていうのが主催してたんですけど。みなとみらい21という名前でしたね。
そこで派遣社員を募集してて、応募して面接を受けたら採用されたんですね。それで赤レンガの商業施設の立ち上げに1年ぐらい携わって。
仕事もそこそこ面白かったし、いろんなテナントの社長さんとかとみんな友達になるんで、すごく楽しかったし、勉強にもなあったし、いい感じだなと思ってたんですけど。

1年ぐらい経ったときに、お袋がどうやらもうすぐ死にそうだっていう話になってですね、長男は私で、あとはもう知的障害者の弟と嫁に出た妹しかいない。
無責任に高卒の勢いで家を出たけれども、やっぱり親が死にそうだってことになると、残された家族の面倒は誰が見るっていうふうな話になっときに、やっぱ長男なんで、ちょっと責任を感じてしまって、浜松にUターンすることにしたんですね。

qbc:それは、何歳くらいの頃ですかね。

K:もう30近くになってましたね。

音楽について

qbc:音楽については、20代の頃ですとか、どういう距離の取り方だったのでしょうかね。

K:音楽は、やっぱギターだったんで、ジャンルとしてはロックとかハードロックが一番花形なんですね、マーケティング的に。でも自分は、クラシックでもジャズでもフュージョンでも何でも好きでしたよ。
ただマーケットを考えたときに需要がない、やってても一生趣味で終わっちゃうんで、そこを意識して、ちょっとロックっぽいギターも弾いてはいます。

自分がバンドを組んでやったりするのはロックにしてるんですね。
でも、ポップスはどうしても好きになれなかったんで、需要あるとわかってても、やる気はしなかったですね。

それから、音符を勉強して、音符を見ていくということには何の意味もないと思っていて。
作曲できるのはもう当然のことじゃないといけないと思ってたんで、だから自分が思いつくままにプレイして。それを録音して、これ私が作った曲ですって、レコード会社とか、CM制作会社にプロモーションしてました。

qbc:なるほど。

K:旋律的なもんで言うと、中世のヨーロッパに普及したようなものがやっぱり一番美しいのかなと思いますね。
ハードロックっていうのは、旋律的には中世のヨーロッパが一番近いんですよね。
でも演歌も実は近いんですよ。そういうものが一番美しさを演出できるし、そういう印象を与えられる音楽かなと思うんですね。

ジャズとかそういうのになると、どうだこんなことできるんだぜみたいな、自慢したい欲求を満たすけど、難しくなればなるほど需要ないんで、できる人もいなくなるし。
聞いて理解できる人も減っちゃうんで、やっぱ万人が聞いて理解できるということが何でも大切かなと思うんで。
だから努めて難しいことはやらないようにするっていうのが、姿勢としてありましたね。

自分が好きだからこれがいいと思ってやっちゃうと、何それわかんないっていう反応が出てくるっていうのに、気づいたんで。
やっぱり自分がいいと思うものは、あまり突き進めてはいけないんだなと。専門性が上がってしまうんで、やっぱもっと前例があるものを提供できるようにならないといけないなってことですね。

お笑いで言ったら、こねられたネタとかブラックジョークを聞いてるよりも、志村けんのネタなら間違いなく子供から年寄りまで笑うと。
だから志村けんも本当はいろんなことができるんだけど、あえてカツラかぶったりパンツ一丁で変なおじさんとかやってるのは、そこに狙いがあるんですね。

万人が理解できる、万人が面白いと思えることをやらないと価値がないんで。
そういうことを音楽でもやろうと思いましたよね。
それが理解できてから初めて、ポップスというものも多少はその価値を認めるようになったんですよ。万人がいいと思えるものを作ってるなと思って。

ポップスとしてすごい売れてる有名アーティストが、もし趣味で好きな音楽を作っていいよって言ったら、自分が好きなバリバリの専門性の高い音楽も作れる能力は、実はあるはずですよ。けど、それは需要がないから作らないんですね。

万人がいいなと思えるものを作ればいいってことに、20代半ばぐらいに気づいたんですよ。

30代

qbc:ということで、30代ですね。

K:浜松に戻って、さあこれから何しようとね。資格はないし、キャリアも持ってないんで、仕事はないし、困ったなっていうふうになるんですけど。
ひとまずは、飲食店経験だけはしたことなかったんで、なぜかって時間給が安すぎるからなんですが、それで1回ぐらい経験してみようと思ってですね、漫画喫茶みたいなネットカフェみたいな環境でアルバイトをしてですね、生まれて初めて飲食関係でちょっと働いたんですね。

レジを打ったり飲み物を出したり、軽食を出したりとか、そういう部分をやって、2ヶ月ぐらい続きましたね。それを夜にやりながら、昼間は就活をして。
そうするうちに、就職が決まったんですね。

それで就職したところが経営コンサルタントの会社だったんです。
特に国家資格とかいらなくて、この大学を出たらできるとかいう仕事でもないし。社会経験がどれぐらいあるかっていうことを求められるんじゃないですかね。採用された後に聞いた話だと、若いときから苦労して転職を繰り返したという経験が評価されたらしいですし。
小さい会社で、だからボーナスは雀の涙しか出ないけど、一応正社員として就職しました。

そこも2年ぐらいなんですけどね、結果的には。
いろんな会社と付き合うようになって、いろんな社長さんとも関わりができて、いろんなビジネスのことをいやが応でも学ぶことになって、これはいい勉強になったと思っていたらですね。
小さいくせに、全国展開している会社で、本社が福岡だったんですよ。福岡にも会議で毎月出張に行ってたんですけど、浜松は不採算営業所だったんですね。だから、浜松営業所は閉めるから、Kくんは福岡本社で勤めてくれって社長が言ってきて。

私が浜松に戻ったのは、実は東京にいたかったんだけど、おふくろが死にそうだから長男でUターンしただけなんですという話をしてですね。
実際おふくろは死にそうで、入院していましたし。

最期を見届けるためにUターンしたんで、いまさら金儲けのために福岡行くなんてことはできませんということで、それで営業所が閉所するんでもう辞めるしかないじゃないですか。それで、2年ぐらいで退社したんですね。退職金も0円でしたけど、辞めたんです。

それで退職をしたはいいけど、いわゆる魅力的な会社がなくってですね。再就職をしたいなと思っても、なくてですね。
でも、音楽だけは得意だし、興味もあったから、ヤマハが地元にあったんで、そこに派遣社員で、半年か1年ぐらい入社してたんですよ。派遣とはいえ、フルタイムでした。
結構な給料だった記憶があります。普通に食堂とかも使えたりして、社員と同じ対応でしたね。でも、その仕事は単なる製造業としての仕事なんで、全然クリエイティブじゃなくて、面白くなかったんですね。

これは困ったなと思ってたらですね、ちょうど会社法という法律が変わって、1円からでも株式会社が作れますよとなったんですね。
それだったらお金がない私でも会社を作れるかと思ってですね、経営コンサルティングの会社を設立しました。

実際、社員としても実績が出せたんで、独立してもやっていけるなと思ってたんですけど、やっぱ資本がないから諦めたんですね。
でも1円で作れるなら、資本金いくらかっていうのを気にしてコンサルタントを決めるやつはいないんで、これならいけると思ってですね、友達に相談して出資も得られてですね、ちょっとした資本金で株式会社を設立して、経営コンサルコンサルタントの仕事を始めたんですね。37歳の時ですね。

それで、お客を取るためにどうしようかなと思って、新規で始めるのは大変なんで、とりあえずサラリーマンで回ってた会社に連絡とってみたら、その社長さんのうちの何人かが、Kさんが自分でやってるんだったらお願いするよって話になったんで、顧客も取れて、会社始めてすぐに仕事は順調に立ちあがったんですね。

qbc:お母さまはその頃は、どういう状態だったのでしょうか。

K:おふくろは、ちゃんと看取ることができたんですよ。
おふくろが最後に会話できる、まだ目が見えてるぐらいの時に見舞いに行って、弟をよろしく頼むよとか、そういう話もできて。
私もありがとうって見送ることができて、それでおふくろは弟のことが心配で、とにかく死ねないっていうのをこぼしてたんで、私が面倒見るから大丈夫だよってことを伝えたんです。
それでちゃんと看取ることができて、Uターンした目的は果たせたんですね。

40代:脳幹出血まで

qbc:お母さまが亡くなられたのは、おいくつくらいの頃なんでしょうか。

K:40前後だったと思いますね、うん。
それで、普通ならすぐ上京しようっていうふうに思っちゃうわけだけど、経営コンサルタントの顧客を数社抱えてるんで、お客さんからしてみたら、それはひどいよKさんって話になっちゃうわけですよね。

だから、ちょっと簡単に辞めることもできなくて、綺麗に一社ずつすぼめてくっていうか、縮小して、私がいなくても回るような仕組みを作ったりして、だんだん仕事の流れを整えて、これでもう私がいなくて大丈夫だなっていう状態にしていきましたね。

よし、これで再上京だと思って。独立して三、四年は一応頑張ってたかな。
それで、親父には悪いけど、もう1回東京に出てやり残したことをやりに行くからって言ったら、親父は反対はしなかったんですね。だけど、口には出さなかったけど相当寂しかったみたいで。

結果的に親父は、その頃にピンピンコロリで他界したんですよ、うん。
そんで肝心な弟の面倒も、親父が他界したことで、家庭裁判所が、成年後見人として、弁護士をつけたんですね。お兄さんじゃなくて、弁護士が候補者だと。

だからもう、両親も他界して、弟の面倒も弁護士が見てくれるってなったんで、私はもう浜松にいる必要がなくなったんです。それで、完全に東京に出直すというふうになったんですね。それが、8年か9年前ぐらいですね。45は超えてたと思いますよ。

qbc:Uターンしてきた浜松時代で、何か話し残したことはありますか。

K:41ぐらいの頃に、くも膜下出血になったんですね。会社をやってて嫁もいた頃ですね。
結婚は、おふくろが死ぬ直前に、自分が死んだら独身の息子と親父の面倒と弟の面倒を見る人が誰もいなくて、死ぬに死にきれないみたいなことを言っていて。

それで私は一生独身がいいと思ってたんですけど、そういうリクエストがあるならと思って、やっぱり結婚って本人のためじゃなくて多くは家族のためにするんだと思うんで、おふくろがそういうんだったらなと思って、見舞いに来てくれそうな若くてかわいい、気立てのいい女の子がいたんで、この子と結婚するから大丈夫だよ、って安心してもらって、それで他界してくれた、っていうのあるんですね。
結婚ですか。38歳でしましたよ。

qbc:東京では、どのような生活をされたのでしょうか。

K:浜松時代にちょっとしたスピリチュアルの人脈を作ることに成功したんです。全国的に活動していて執筆とかワークショップとかで、ファンがいるような人と個人的に深くパイプができたんで、その人と一緒に何かやるつもりでした。

新たな人脈は上京してからまた作ればいいやっていうぐらいの考えでしたよ。
とにかく浜松ではスピリチュアルなことなんてやりようがなかったんですね。製造業の人とかみんな真面目にやってるんで、そんなところにあの世がどうとか言ってたら、おかしいというか、変な宗教にはまってるって言われて終わっちゃうだけなんで。

とにかくもう東京とか都会に行くしかなかったですね、誰かがやってないことをやるには、うん。

qbc:お父様も亡くなられたのですね。あと離婚もされていたと。

K:親父が死んだのは、おふくろが死んで2年後くらいかな。
離婚は、子供がいれば話が別だったんだけど、彼女はね、子供を産むのが怖いっていうのを最初から一貫して言ってたんですよ。子供を作るのが怖いって言って、子供を産みたくないと言ってる人と一緒にいても結婚してる意味はほとんどないかなと思って。
自分は結婚自体、積極的にしたくなかったけど。でも結婚して家族がいるなら、子供もいるよっていうのが醍醐味だと思うんで。

だから子供は嫌だと言ってる女性と、ずっと夫婦でいても意味がないんで、私は結構簡単に離婚を決意したんですね。
あともう一つ、彼女は浜松の生まれ育ちの人で、まず浜松が大好きな人だったんで、東京に出てくるなんて、とても信じられないと。絶対私は嫌ですって、すごい固い意志があったはずなんです。
私は元々東京にいたし、また東京にも出直すつもりなんで。
いずれにしても、もう一緒にいない方がいいよねっていう流れで離婚しましたね。

qbc:元妻さんとは、どういう経緯でご結婚されたんですか?

K:上京する前後で、元妻と知り合って。
彼女もいわゆるスピリチュアルな人で、田舎じゃあんまり生きていけないような感じのタイプだったんで、たまたま彼女も離婚して東京に行くっていう話になっていたから、ちょうどそれぐらいのタイミングで私も親父が死んでくれて、私も東京に出て、自然に東京で一緒になったっていう感じですね。

でも、元妻とは、最初っから一緒に暮らすぜとかいう感じじゃなくて、彼女はとりあえず名古屋から息子を連れて、先に両親のいる東京に出てきて。
一戸建ての家をあてがってもらって、そこに住んでたんですね、彼女は。そこへ私はチョロチョロ遊びに行ったりしたことあったけど、別に一緒に暮らそうとかいう計画をしたこともなくて。私は私で、1人で物件を探していました。

そうこうしているうちに、彼女も離婚して、連れてきたはずの息子も、親父の方に行っちゃって。
そんな時に、私が1人で不動産契約をしたら、何でそんな別々に暮らすんだと、元妻のご両親が言い出して。特に、お父さんは私のことも知っていたんですよ。

そんなら一緒に住めばいいんじゃないかって言って、URの住宅を契約してくださったんですね。それで、一緒に住むような流れになりました。

私のほうで契約したはずの物件をやっぱ辞めますって言ったら、その不動産屋もブーブーでしたけどね。
だから、本当にお陰様で、私は生活のために労働をするということが、とりあえずしばらくはしなくてよくなって。そこで、すぐにお金にはならないけども、これまでやりたかった執筆活動とかスピリチュアルな活動に、時間を使うことができるようになったんですね。

その頃から、全国で本を出したり、ワークショップやってるスピリチュアルの人と一緒にコラボ絵本を出版したり、イベントをやったりする生活が始まったんですね。

そして息子が生まれたと。
生まれた日に、私はあの世に行ったと。
いよいよこれからだと思って頑張ったおっさんが、まさかの重度障害者になってしまったわけですよ。

結婚したばっかりの赤子を抱えた女性に、私のように自分の食い物すら作れなくなったやつは、ものすごい負担ですよね。
何十年も連れ添ってきたのなら、それが運命だから付き合えっていう気持ちにもなれたと思うけど、私としては、出会って間もないし、ましてや一緒に住みだしてまだ2年とかで、自分が死にかけたけどそのまま付き合ってくれっていうのは、ちょっとやっぱりすごいひっかかるものがあって。
子供も生まれたばっかで寝たきりで、私も同じほぼ寝たきりだから、相手をすることができても、子供がだんだん歩いたり走ったりできるようになると、やっぱり遊んであげることもできないわけですよね。

だからちょっと足でまといの上に子供の遊び相手にならないおっさんが、こんな近くで邪魔しちゃいかんなっていうのがあって、離婚を決意したんですね。
その後、2年ぐらい経って、元妻は新しい相手とも知り合ったのかなっていう感じですね。私は何も知らなかったんですけど。

qbc:自分にとって、人生のターニングポイントは、どこにあったと思いますか?

K:もう日々転換点ですけど。
一番大きいのは、高校卒業したとき。そこが一番大きいでしょうね。大学に行かないし就職しないという選択をしたのが、一番大きかったと思いますね。

あとは夢見てダラダラ東京にい続ける奴もいたりする中で、思い切って決断してUターンしたっていうとき。それも大きな決断でしたよね。

そして、Uターンした結果、うまく人生が回り始めたけど、それも止めて再度上京したというのが大きな転機。

この三つが、大きいんじゃないかと思いますね。
移動というか、やることを変えるという意味での転換ですよね。

過去を振り返る

qbc:元妻さんの、どこが好きだったんですか?

K:彼女には、霊的能力を活かしてこの世の中を変えたいというモチベーションが、昔からあったし、今もあると思いますよ。
ただそれをやっても、お金儲けには直結しないんで。お金儲けにするためには、試験が受かるかとか、結婚がうまくいくかとか、ビジネスがうまくいくかとか、そういう三次元的なことを題材にした方が、ビジネスは成り立つから。
でも、本当はお金にならないようなことをやりたいというところはあると思うんですよ。
そういう、形がないものを一番大切にしてる人だというところです。

私はね、かつて会社の経営というものに、業種が何であれ、とにかく勝負したわけですよ。

経営資源としては、人間とか物とかはあるけども、でも経営が上手な人は、とにかく商材が何であっても、スタッフが誰であっても、結果を出す人は出すんで。
だから、経営は面白いなと思ったんです。それで経営の勉強をしだして、それで経営コンサルティング会社に就職して、結果が出て。それでその会社を辞めた後で、自分で独立して経営コンサルティング会社を興したんです。

それはでも、生業を立てるための手段としてやったわけですけどね。
やってることは、究極的には金儲けのアドバイスなんで。自分が本当は関心がないことなんで、やるとなったらストレスまみれになってやんなきゃいけないわけじゃないですか。
だから、人生これはどうかなっていうふうに思いだして。

それで思いっきりお金にならなくていいし、評価も得られなくていいから、自分で価値があると思うことをやっていこうと決めたところで、たまたまそのタイミングで元妻と出逢ったわけですね。

霊能力を使って占いをしてたということなんで、霊能力というのは物質じゃないし、物を売ることでもないし、物を作ることでもないし。
目に見えない何かを提供することで、それをお金に変えるという意味では、私の理想を実現してるタイプなんですね。

これはいいなと思って、それをサポートしたいなっていう気持ちにすごくなって、それで私も一緒にセッションをやっていったということだと思うんですね。

本質的なこととして、多くの人が、お金が欲しいと考えていますよね。
それで、お金が欲しいのは、どうしてなんだっていうことを突き詰めるんですよ。どうしてお金が欲しいのかと。
自分もお金が欲しいと思っていた時期もあったし、今だって少しはあるけど、お金がないと生きていけないのは、社会の仕組みのほうだからね。

でも、お金が欲しい根源はどこだっていうことを突き詰めると、いろいろ見えてくるわけですよ。
つまり、お金で支配体制を作るための地球の仕組みがあるわけですね。だからみんなやりたくないことを、お金をもらうために仕方なくやってるという人がほとんどなわけですよ。
そういう地球のあり方はどうかなっていうことで、地球を何とかしようっていうことを、今、最大の生きるモチベーションにしてますね。

瞑想とか長年やってきてたどり着いた結論が、考えない方がいいってことなんです。
何事も、考えるからおかしなことをやる、無駄なことをやる、後悔することになるっていうことなんで、感じるままに生きるのが理想だと思うんですね。
理想って言ってるうちはやらないんで、感じるままに生きることを実践するってことですよ。

僕のように感じるままに生きていれば、今の地球の仕組みだと迷惑をこうむる人もいるし、揶揄する人も出るけど、それでもお構いなしに、僕は感じたままにいるんですよ。

qbc:離婚は、どちらから言い出したんでしょうか?

K:離婚は、特に離婚とか結婚という言葉を使ったことはないですけど、もう出ていくよっていう感じで家を出たと思いますね。
一緒に暮らしてるから、何も言わずにいなくなって失踪届とか出されちゃっても、困るから。もう出ていくよっていう話は、ちゃんとしましたね。

でも、ほとんど入院とかしてたんで、家にいた日にちも普通の人よりかは少なかったんですよね。
最初の退院の後も、救急車で運ばれたことも数回あったんで。子供を連れて見舞いに来てくれたりしてくれましたよ。そういうのは覚えてますよ。

qbc:今までで、一番楽しかったことはなんですか。

一番楽しかったことは、これから先に待っています。
相対的に何かを比べるようなもんでもないかなっていう考え方ですね、うん。
そのときはつらいなと思っても、後から振り返ったら、いい経験だったなとか、いい学びだなとか、思ったりもするわけで。
だから、トータルそうすると、マクロで見ると、そりゃ辛かったことじゃなくなりますよね。全部、良かったことになっちゃうんで。

qbc:逆に、今までで、一番辛かったことはなんでしょう。

K:さっき言ったことと同じで、辛いと思えば全部辛いし、いいと思えば全部いい。そういう感じですね。


未来

スピリチュアルについて

qbc:5年後10年後、その先の未来も含め、最期死ぬというところまでイメージして、どんな未来を思い描いていますか。

K:私はもうね、10代の自殺願望を持ったときから、肉体死が一番の楽しみですね。
だけど7年前、脳幹出血であの世に行ったときに、この世から迎えに来た人がいたんです。それでまた連れ戻されてまだ生きてるんですけど。だから、念願叶わず今に至ってるんですが。

生きててもとにかく、全身麻痺で辛いだけなんですよ。
かといって自殺をすると、脱獄と同じで、ペナルティ大きいんですよ。豊かな暮らしに戻れなくなるんですね。だから、いつあの世に戻れるかなっていうのを楽しみに生きてる。
生きてる間はいつであれ、自殺しないというルールにのっとって、前向きに生きるっていうふうに決めてるんですね。
だから3年後も5年後も、全くノープランです。

qbc:行動計画のようなものではなく、こういう風な気分でいたいとか、こういうことをしていたいとか、そういったイメージはおありですかね。

K:小学校中学校高校で教わってきたことが、ほとんど偽りだったんですよ。
だからみんな偽りを教わっていってるわけですよ。
人間として生きていながら、人間とは何かとか、どうして生まれてきたのか、死んだらどうなるかっていうことを、みんな知らないで生きてるんですね。
今の地球人に、皆さんに、そういうことをお知らせしたい。

生きてる間は、ずっとそれをやりたいですね。
具体的には、もう体が動かないんで、講演会とかも全部止めちゃったんだけど、座ってできることとしては、文章を投稿するとか、あとは遠隔でいろいろできるようになった時代なんで、ラジオ番組に出てほしいと言われると出演したりとか、あとネット番組も、出演したりとか頼まれたら出られますし。

文字を発信したり言葉を発信することで、人間社会を変えていくということをやりたいと思ってます。てか、ずっとやってます。これからも生きてる限りは、それをやると思います。

自分が伝えたことがちゃんと伝わって、それを理解した人たちがその生活を実践したら、どうなるのか。
皆さんが自分のために生きることをしなくなるんですよ。みんなが誰かのために生きることが喜びになるんです。
それで、経済システムというものがなくても、ちゃんと地球は回るようになるわけですね。少なくとも縄文時代はそうやって回っていたわけなんです。ところが現代人は、庶民から搾取をしたい人が支配をしたんで、普通の人間はみんな全員、誰かのために働いてるんですよ。
顔も名前も知らない誰かのために働かされている。
そのシステムを終わりにしたいということですね。

こういった社会は、1万年以上前には実現していたことだし、今でも地底世界では実現していることです。
地底世界があるっていうことも、今の地表の人間たちは知らないんじゃないですか。地底にも何百万もの人が住んでるんですね、実は。
こういうことは、一切教えられてないんで。この事実を情報公開をして、あと異星人がいるかいないかとかってことも地球人は話題にしてますが、異星人は当たり前にいるんですよ。

地球人も異星人の一種なんです。だから他の異星人たちとのコミュニティがこれからできると思います。異星人たちとどうやってうまく関わっていくかということがテーマです。

これは知ってる人が少なすぎるんで、理解してる人が先陣を切っていくしかないと思うんで。
たまたま私は、こういった事実を知るに至ったんです。
生きてる限りは、この能力というか、知識を発揮したいなと考えております。

あとは人間として生きて、もう死んだら、今度は霊になるわけですね。肉体がないわけですから、それを霊と呼ぶわけですね。
その霊が何人も集まってるのを、魂っていうんですよ。だから自分の魂は、何人もいるわけですね。そういう仕組みなんですね。これは夢の中で家族に教えてもらいました。

qbc:夢の中の家族というのは?

K:夢に出てくるのは、本当の家族ですよ。そういう夢を見るんですよ、毎日。三、四歳の頃から。
それで本当の家族っていうのは、自分の肉体の両親じゃなくて、宇宙の家族が夢に出てくるんですよ。
夢の中で、一緒にいるパパとママは本当の親じゃないんだよ、みたいなことを言ってきて、それでもう、そういう感覚でずっと大人になったんですね。

それから困ったことに、夢に出てくる自分の本当の家族には、肉体がないんですよ。だから透明人間がやってきて、口もないし、声も出さないけどテレパシーで意思疎通はできるんですね。
その透明人間が迎えに来て、透明人間と一緒に自分が両親にバイバイして家を出てくっていう夢をよく見たんですよ。
だから、私はその、いわゆる宇宙人は肉体がないっていうことを、小学校の時にはもうすっかり確信をしていましたね、うん。それで、大人になって調べたら、やっぱり本当だったんですよ。

生まれてくる前も、みんな霊だったわけですね。肉体というのは単なるアバターなんで。
この人間の生死の仕組みも、みんなに理解させてあげたい。このことをみんなが理解している社会になるといいなって思ってますね。

qbc:その本当の家族と、今離れて暮らす子供というのは、どういう関係になるんですか。

K:魂的には仲間ですよね、間違いなく。
ただ今回の地球の人間として出てきたときは、私の息子として出てきてくれた。けど、それ以前は私の親だったかもしれないし、兄弟だったかもしれないし、仕事のパートナーだったかもしれないし、今回と同じだったのかもしれないし。
女だったら恋人だったかもしれないし、生まれてくるためにいろんなバージョンを繰り返してるっていうのは、その人間の転生輪廻のシステムなんで、今回はとにかく私の息子として出てきたっていうこと。ただそれだけのことだと思っております。

一緒に住んでるとか、どの街に住んでるとか、そういうことはあんまり大した問題じゃなくて、魂的に繋がってると思うので、どこに住んで何をやっていようが、繋がってはいると思ってます。

qbc:本当の家族たちというのは、Kさんにとってどんな存在なんでしょう。

K:今、理解される言葉で言うんだったら、ガイドですよね。守護霊とか。あとハイアーセルフ。次元が違うところにいる自分ですよ。
名前のつけられてる存在が人間なんだけど、残りの部分は全部あの世に行っているんですよ。肉体もないしネーミングもされてないけど、存在はしてるんですね。過去生の自分というのもいます。
常にね、本当の家族たちとは、テレパシーで連絡を取ってますよ。常に繋がってますよ。
だから人間の誰かに相談するぐらいなら、自分に相談するということは、日常的にしてます。

qbc:Kさんが、今、スピリチュアルとして問題だと思っていることはなんですか?

K:現代人は、肉体を人間だと思ってるわけですよ。だけどその肉体って、単なるアバターであって、その肉体の中に入ってる本体が、ちょっと前の言葉では霊とか魂とか言うわけですけど。
その霊体こそが本体なんであって、肉体なんて何回死んでも新しい肉体に入るだけなんで、大したことじゃないんですよと。
霊体を学んで成長させることが人間という生物のシステムなんですよっていうことを、やっぱり皆さんに教えなきゃいけないなっていう思いが、高校生ぐらいからあったんですね。

だからそれをやりたいっていう意思が、すごくあったんです、うん。
ただそのことを言ってお金をもらえるかどうかっていうと、まだそういう時代ではありませんでしたから。それこそあるとしても宗教になっちゃうんですよ。宗教は嫌いだったんで。

qbc:なぜ、宗教が嫌いなんでしょうか。

K:宗教っていうのは、あるものを信じさせて洗脳させるシステムなんですね。いろんな人がそれぞれ考えを作って、それぞれで洗脳してるわけですよ。
だからそれは宗教が違うと社会が違うってことで、それぞれが別の宗教をライバル視してるんですよ。それはもう、金儲けしてるビジネスと何も変わらない仕組みなんで、そんなつまないことをやるわけには、とてもならなかったっすね。

qbc:あるものを信じさせて洗脳する、という意味においては、Kさんがお話されている自論も同じわけですよね。そういった観点の中で言うと、なぜ宗教がいけないのでしょうか。

K:いや、否定はしてないんですよ。それぞれの人がいろんな宗教が好きなのは、自由ですからね。
特定の何かに依存するのが宗教なんですね。
ただその特定の「何か」が自分自身になると、宗教じゃないんですよ。自分の上位存在をハイアーセルフって言う場合もありますよね。守護霊とか指導霊とか言ったりもするし。

それらと繋がるのは、宗教じゃないんですね。
宗教っていうのは、他人に向かわせるんですよ。そうではなくて、自分の高次元存在と繋がることを、私は普及させたいんですね。皆さんが自分の高次元存在と繋がってくださることを、推奨したいわけですね。
そういう違いになります。

qbc:セッションをされることがあるということでしたが、どんなことを話されていたんでしょうか。

K:結局人間って、なんだろうなとか。どうやって生きていったらいいのかなとか、未来はどうなるのかなとか。
大体そういうことに興味を持ってる人がセッションを受けに来るんで、そのニーズに応えるようなものを提供するようには努めてましたね。

答えるというか提案する。
あなたはこういう感じなんで、こういうのがよろしいんじゃないですかとか。こういうことをしない方がいいですよとか。
セッションを受けた人が満足できるようなことをパスするということが、重要ですよね。

その人が理解できないこと言っても、セッションが成立しないんで。
その人が理解できる範囲内で、自分がその人のためになるでであろうということをお話することになるんですね。

qbc:具体的には、どんなことをお話をされるんですか。

まず肉体というものがありますよね。肉体はアバターなんですね。
肉体の中に入ってる、いわゆる霊と言われてるものが、知的生命なんですよ。
なんだけど、地球人はそのアバターの肉体を自分だと思ってしまってるんですよ。

そうすると、死んだら自分も無になると思ってる人が、結構いるんですね。
でも肉体を使用していても、実はその肉体はアバターをしているだけで、その人は霊としてずっと存在する。生まれる前も存在していた。

まずそのことを知らないのが、すごく問題に感じて。
私は幼稚園ぐらいのときから、夢をよく見ていたんだけど。
その夢に出てくる人は、みんな体がなかったんですよ、私の場合。
体がないんだけど、存在を感じていて、言葉が喋れなくても、テレパシーでメッセージを受け取ってコミュニケーションができるんですね。

私はこのことを、もう小さいときから確信してたんで。
でもそれは普通の中学校高校とかで通じる話ではないんで、それは特殊な宗教とかの世界になっちゃってるんですね。

私は、さっきも言った通り、宗教というものも、嫌いなんですね。
何かを崇拝したり、何かの決まりを守ろうとしたりとか、これをしろとかあれをしちゃいけないとかいうのが、好きじゃないんですよ。
とにかくみんな自由に生きるべきだと思ってるんで。

さらに物質にも興味がないから、どこに自分は向かったらいいかなというところでしょ。
消去法でいくと、音楽が残ったわけですね。
音楽は物じゃないんですよね。
でも音楽は、この世に存在しない、と言う人はいないじゃないですか。

音楽によって、悲しむ人も感動する人も怒る人もいるわけですよ。
気持ちが動く。音楽は、物質じゃないけれども、人の気持ちを左右するんですね。だから音楽を作るなり演奏するなりすれば、肉体に興味がない自分でも、楽しみに生きていけるんじゃないかなというふうに考えたということですね、高校生の時点で。

だけど実際にレコード会社に時間給とかで勤めたら、ところがやっぱり、音楽も所詮はお金儲けなんですよね。
だから、お金になることは一生懸命やるけど、お金にならないことはやらない。やると怒られるんですね。

そんな金にならないこと、やってるんじゃないって話になっちゃうんですよ。
だから結局は、物質的な欲を満たすための活動であるということがわかって、音楽業界も嫌気がさしたんですね。

qbc:今、Kさん自身は、どんなことをしたいですか。

K:地球に生まれてきたからには、何かをしようと思って生まれてきたわけですね。
私の場合は、少なくともそれを覚えてるんですよ。
そのためには、やっぱり寝たきりだったらできないんですよ。せめて話をするとか。文章は書けなくても、ワープロを打つぐらいはできないと、やりたいことができないんですね。

あと歩けないと移動もできないじゃないですか。
すごい大金持ちなら、車椅子で介護人とか車を用意できたかもしんないけど、自分は全然、庶民の無職ですから。
だから生まれてきてやりたかったことを遂行するためには、やっぱり歩けることと、喋れることと、見えることと。あと文字を入力できることぐらいは、取り戻さないと生きてる意味がないと決めたんですね。

だから脳幹出血の時点で死んじゃうのが、それが本望だったけど。
生きてる限りは、それができる個体に戻さなきゃ。
それが今のモチベーションですね。

人間という生き物の生き方、あり方を皆さんに教えて普及させるということ。
今まで間違った方向に行っていた人間の生き方を、正しい方向に修正する。
何が正しくて、何が間違ってるかも、本人によって考え方が違いますんでね。
今まではいいと思ってやってる人が多かったから、みんなお金のために物を盗んで人を殺して、ということを平気でやってるわけですよ、この星全体が。

でも私はそうじゃない方がいいなと思って。
やっぱみんなが喜んで与えあって。
みんながそれで幸せに穏やかに生きていくような星にしたい。
そこを実現するためにできることをやるっていうことですね。
だから、その価値観を普及させるっていうことが、一番大きいかなと思うんですね。

子供に伝えたいこと

qbc:自分の子供に伝えたいことは、ありますか。

K:今の世代はね、みんな標準能力としてテレパシーがあるので、多分嘘を嘘って見抜く子供たちだと思うんです。
だから大人があれこれしようとしなくても、自分たちの生き方を見つけると思うし、その生き方は、今の中年たちには全く理解できないものだと思います。だから学校とかお金とか、おかしいことにはもう意味を見出せないので、言い方悪いけど、みんな遊んでるような言い方になると思いますね。

遊んでる内容が、人類に貢献することになる。
人を喜ばせることに繋がることを、自然とやると思います。

例えば自分の息子の例で言ったら、二、三歳のときに、ゴミ拾いをすごい楽しそうに一生懸命したんですね。それって、誰かに教わったわけでも、やれって言われたわけでもないんですよ。
環境を綺麗にするということを、喜んでやるっていうのは本人の欲求なんで、そういう感じで、もう大人は何も教えなくてもいいかと思います。

教えるというよりは、変なことを教わらないように阻止するということが、一番大きな愛の実践かなと思うんですね。
だから学校に行ったり塾に行ったりすると愚かにさせられてしまうので、そういう影響を最小限にとどめて、本人のクリエイティビティが発揮できるような生き方ですね。
本人のクリエイティビティがスポーツなのか音楽なのか文学なのか。エンターテイメントなのか、それは人それぞれ子供によってあると思うんだけども、とにかく本人が持てる能力を最大限に発揮できるように成長してほしいなっていう思いはありますね。

qbc:自分から見て、子供にこうなってほしい、という希望はありますか。

K:私はないですね。うん、ないです。
本人が何を求めてるのかっていうのを、今、ちょっと探ってるとこなんですね。だけど本人も遠慮して、はっきり言わないんですよね。

私がいつ聞いても、これがしたいとかこれが好きだっていうのは、やっぱりまだ7歳じゃ周りの環境に左右されて、何となく周りが良しとしてるものをよしとするしかないと思うんですよ。
でも年齢的に、もう3年もすれば、自分はこういうことが好きだ、こういうことをやりたいっていうものが出てくると思うんですよね。
そしたら、できる範囲で、それを許可してやりたいとか、伸ばしてやりたいという思いはありますね。

健康で長生きしてほしいとも思うないし、かと言って、早死にして欲しいと思わないし。
楽しい人生を送るのも、つまらない人生を送るのも、その人の自由だと思うんで。生まれてきたままのプランを遂行できるような人生にしてほしいなと思っています。

生まれてくる前は、みんなプランニングして生まれてきてるんですね。
今の大人はそういうことを教わってないんで、知らない人が多いんですけど、でも今の子供世代はほぼ知ってると思われるので、生まれた自分が生まれたその日に、お父さんがの巻出血であの世に行くっていうのも、おそらく知っていたと思うんですね。
だから、ほぼ寝たきりの私にすごい優しくしてくれたんですよ。

だから私からは、何かに仕立て上げようとせず、何かを阻止したりするようなことは、極力省いていきたいなって思っていますよ。
それはどの子供にも同じことを思います。

自分の子供に関しては、一般の健康にご両親がいるような子供に比べたら、ちょっと複雑な思いを思春期で体験しているわけだから、この家庭はちょっとどうしてんだろうとか思うこともあっただろうと思っています。

けど、結果的に、自分なりの考え方とか価値観を仕入れた大人になっていくと思います。思い通りにならない環境に、どう対処するかという能力っていうんですかね。
それは多分、人よりたくさん身につくんじゃないかなと思ってますね。

qbc:こうなってほしいではなく、こうなっていくのではないかな、と考えるとどうですか。

K:私も体が動かないから、縛りつけることはやりたくてもできなかったんで放置していたし。母親も霊能者で、特殊な価値観、生き方をしてる人ですから、割と自由には生かしてくれてると思うし。そういう意味では、環境だけで言うと、自由奔放に本来は生きていくはずの子供かなと思うんだけど。

ただ割と引っ込み思案というか、声が小さかったり、運動が好きなわりには、動きもアクティブではないですよね。今は控えめなところがでているみたいなので、ちょっとそこは読めないですね。
本人が何を望んで、どういうふうになっていくのかなというのは、現段階では読めないけれども、別にそれも急がせる必要もないと思いますね。

私は、トランポリンとか大好きだったんですよ。
縄跳びとかも、小学校と幼稚園で縄跳び大会があって、幼稚園で一番になった記憶があるんです。
でも私が好きだったからと言って、子供が好きになるとは限らないからね。強要はしてないんですけど、うん。

あと勉強も、私も子供のときは少なくとも好きだったんで。いや、好きも嫌いもないけど、当たり前にいろいろ吸収してたんで。そういうふうになるんじゃないかなとは思っていますけどね。私は自慢じゃないけど、国語算数理科社会はいつも5だったんですよ。音楽と図工は4とか付く時があったんです。それは何でかというと、変わったことをするからです。みんなと違う。ちょっと教員には理解できないんで、評価できないんですね。
でも国語算数理科社会は、テストでもうはっきりわかるじゃないですか、正解があるんで。
私、どれも苦手意識もないし、どれもが特別好きということもなかったんですよ。

子供に教科で何が好きだと私が聞いたときには、国語って言っていましたね。
やっぱり言葉を話すことを、お金にはなってないですけど、ボランティアとして生業にしている私の子供としては、自然な流れかなと思うんですね、うん。

qbc:縄跳びは、どれくらいできたんですか。

K:幼稚園のときは、ただ飛んで回すだけで、誰が一番長くできるかっていうぐらいのことをやっていたと思うんですけど、小学校2年ぐらいの時には、二重跳びができるかっていう話題になってるときに、三重跳びをやって、得意になってた記憶がすごくあります。

qbc:ちなみに、子供の頃は、背が高かったんですか。

K:私は小柄でしたよ、小学校の時は。中学校で並みになったっていう感じですね。今は170ぐらいだと思います。もう何年も測ってないんで。

qbc:あ、もっと背が高いと思っていました。

K:そりゃオーラを見てるかもしんないですね。私はオーラが大きいらしいんですよ、人に言わせると。そうすると、やっぱり人物像のイメージは大きくなりますよね。
それは、元妻も基本同じですよね。元妻はでかい女性じゃないけど、大柄に見られることが多かったらしいんで。

でも息子は、幼稚園の時から一番大きい方だったんで、それは意外でしたね、うん。
でも伸び率が低いみたいなんで、結果的に小さい方になっちゃうと思いますね。

qbc:息子さんは、元妻さんとも似ていますかね。

K:目のあたりとかちょっと似てますよね。私にも似てるけど。
でも、それ以外に何か似てるかって言われると、特に思い浮かぶものはないですね。

性格も、割と何かと控えめじゃないですか、今んとこ。何かを主張してきたことないんですよ。おとなしくて、何でも言うこと聞くし、頑固さはなかったんで、私が関わってた期間は。
割と素直に何でも喜んだりする子供でしたね。特に性格的な特徴っていうのは、とにかく穏やかで、基本的に本当に泣かない子供でした。だから、その最近泣き出したっていうことで、あの子にも泣くという機能もあるらしいということがわかって、ちょっと安心したっていうのはあります。

小さい子供なりに、泣かないように努めていたのかもしれないですね。
お父さんが、始終辛そうにしているところに、泣いた姿とかを見せるのは、より負荷をかけることになるから。お父さんを元気づけるために、楽しいふうに振舞ってくれてたのかもしれないですよね。
ところが今、お父さんがいないから、別にわがまま言っても泣いてもいいやっていうような思いから、ちょっとしたことで泣くのかもしれません。

でも、私が歩く練習をしていた時は泣いてましたね。
私が練習の時に、たまに転ぶんですよ、うまく歩けなくて。そうすると、涙を流して泣いてました。2歳とかの赤ちゃんが。
それってもう、普通じゃありえないですよね。自分は何ともないのに。
だからすごい慈愛の心が強い赤ちゃんだったと思います。それは生まれつきというよりは、生まれてすぐにそういう父親を持ったから養われた感受性なのかなって思いますね。

qbc:Kさんと弟さんの関係と、息子さんとKさんの関係性は、もしかしたら似てますか。

K:全くないですね。ダウン症というのは、染色体が1本多いんですよ。だからもう人種が別人種なんで。
だから性格的には、比較のしようがないですね。思考レベルは幼稚園レベルで止まるんですよ。一切話もできないし。
だから性格とか人格をもう表現のしようがない。だから、20歳ぐらいでもアンパンマンとかドラえもんとかを喜んでましたし。

ただ、音楽が非常に好きで、いつもラジカセでテープを流して、それを聞いて踊ってました。音楽の素晴らしさとか良さはわかっているみたいでしたよ。すごい楽しそうに、ぐるぐるぐるぐる、普通の健常者だったら目が回るんだけど、やっぱその辺が特殊だからか知らないけど、一日中回ってても目が回らないんですよ。
立ってぐるぐるぐるぐる回転し、スピンしながら音楽を聞いてました。

qbc:子供は、幼稚園にはアスレチッククラブに入ったりしていましたね。

K:あの子は体で表現するタイプですね。
だから本来はスポーツとか踊りとかやりそうな感じはするんですね。それがなんか、今ちょっと遠慮しちゃってるんで、恥ずかしがって表現しない。喋る声も小さいし、主張することもないしっていう感じで。
学校でちょっと暴力的とみられるような行為をしてしまって怒られたんでしょ、この前。
なんかね、そういうことだと思う。本当はなんか表現したい子供だと思うんで、だから上手に表現できるようなするような方向に、アドバイスはしたいなと思いますね。

qbc:もしも、脳幹出血で倒れてなかったら、どういう人生になっていたと思いますか?

K:もしものことは考えていないですからね。
倒れてなかったら、その時にやっていたことが順調に・スピリチュアルな執筆とイベントと、あと講演会とかをどんどん積極的にやってたんじゃないかと思いますね、うん。だんだん公演会の規模が大きくなったり、イベントの規模が大きくなったり、非常に忙しくしてたんじゃないかなと思われますね。そういうふうになってたんじゃないかと思います。

でも倒れてそれができなくなったことに、私は意味があると捉えているんで。そっちじゃないよと言われたということですね。だから、違う方法でやるか、と思って。今はやり方を変えたっていう感じです

qbc:最期に、言い残したことはありますか?

K:いや何にもないです。

qbc:お子さんに言い残したいことは、ありませんか?

K:言葉、そうだね。若くて、多感な時期にね、消えてしまって、申し訳なかったな、ていう思いと、うん。
でもそのうち知恵がついたらどういうことか理解できることだから。
とにかくいろんな人間がいていろんな考えをして、いろんな生き方をみんなしているんでね。

だからそれと同じように君は君のセンスと価値観で、思いっきり生きろよと。
人がいろんなことをその人の都合でいろんなこと言ってるけど、そういうことに左右されるんじゃなくて、自分がどうしたいかという、自分の心の声に従って生きるような人間になってほしいなっていう、そういう思いです。


まとめ

人生なんてまとまらないよ。

制作:qbc(無名人インタビュー主催・作家)

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