【短編】白線

「中学の時から投稿していたよ」
 でもあれは小説じゃなくて餓鬼の気取りの寄せ集め。今だってあの頃とそう変わりないけど。男は自嘲を含んで答えた。女が「いつから作家を目指してるんですか」と訊ねたから。
 居酒屋を出ると空が暗い。住宅街に近い店で駅前の光は遠い。
「歩こう」男は提案した。
「良いですね」女は桜色の唇を震わせて答えた。
 二人は寄り添って歩きだした。互いの匂いが感じられる距離。
 雲の無い夜空には月があった。しかし街灯の下でもなければ相手の顔は明瞭には見えない。吹く夜風は頬に冷たい。
 二人は午後に観た、女の友達が出ていた学生演劇の感想を話した。そして女は幾度も「つまらなくなかったですか?」とそればかり案じた。男は三十四歳で、女は男の勤める会社の事務の学生バイトで、今日、二人は初めて社外で会った。
 突然「ちょっと」と女は男の隣を離れて駆けだした。深夜の住宅街の十字路の真ん中まで走り、そこで目をつむり腕を広げる。立って、風を受けていた。人もいないし車もやってこない。
「我慢できなくなるんです」女は興奮しているようだった。「こういうの」
 男は女の様子を見つめていた。女は言った。
「どんなこと書いてたんですか?」
「え?」
「中学生の時、小説に」
「親が憎いとか。悩みをすこしね」
 その直後に男は女に付き合わないかと誘った。女は「無理です」と答えた。男は二秒で振られた。
「あなたには奥さんがいるし、あたしにも彼氏がいます」
 男は「浮気も案外と気楽で有意義だよ」と言った。
「今日の舞台に出てたあの背の低い人が彼氏です」
 それから女は彼氏の愚痴を二、三言った。心を平常に戻そうと懸命に調律していた。そして「行きましょう」と今度は女は男の数歩先を行く。その歩行がふらついていた。女は歩道の白線の上を踏み外さぬよう歩いていた。男は訊ねた。
「なに、やってるの?」
「子供の頃に白線の上をこうやって歩くのが楽しみでした。真似してみませんか?」
 言われるがままに男は白線に足裏を踏み落としてみた。慎重に歩く。すこしも面白くない。共感できなかった。しかし女の挙動や趣味だけは興味深かった。昆虫採集への熱意と変わらないかもしれない。
「よく目を開いて、しっかりと足元を見つめるのがコツです」
「そうなんだ」
「――さんは背が高いですよね。何センチですか?」
「一七九センチ」
「もしかしたら背が高いから足元が見えにくいのかもしれません」

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