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陳腐な一夏に(一週目)

 青梅に氷砂糖が染み込んでいくように、僕の身にもじわじわと夏がやって来た。例年ならもう夏休みを折り返すところなのだが、今年は、いや今年からは違う。学期末の試験を終え、ただ今レポート課題を出し終えた僕にとって、夏休みの到来はこの瞬間まで無かった。やっと休みに入れる。だけれど僕はどうにもこの新しい夏をうきうきと迎える気にはなれずにいた。新しくない、古い夏はたった一年前に終わったばかりなのに、既にそれを恋しく思ってしまっているかららしい。恋しくて寂しく、都会に憧れてここまで来た身でありながら、故郷に帰りたい衝動に襲われていた。

 それでも、ただ寂しいから、故郷に帰るのでは無いのだと感じていた。何かを忘れてきたような気がしてそれを取りに帰らなければならない、そんな気がするのだ。ただそれが何なのかは全くわからなかった。理由が無いと帰ってはならない、そう思っている訳でも無いのだが、なんとなく理由が欲しくなってしまう僕にとってはこの曖昧な、掴みどころなく胸中を漂うモノを動機として捕まえておくことが必要で、でも出来なくて、もどかしく思う。そうでなくても、大学に入って新しく出来た友人からの遊びの誘いを断るのには少し困った。それでもこの衝動は抑えられそうに無く、部屋の整理と帰りの新幹線の手配を済ませてしまった。帰ろう。もう帰るほか無いんだ。

 重くかさばる荷物を背負ったり掛けたりして部屋を出て、ビルやコンクリートが照り返す熱の中を歩いていく。故郷にもこうやって舗装された道路くらいあるにはあったが、ここまで不快な暑さを感じたことは無かった。建物が木造で、森林に囲まれているから、そう説明するには難しいほどの夏の差がここと故郷にはあると思う。暑い。疲れた。近くにあったバス停のベンチに腰掛けてスポーツドリンクを飲んで休憩する。昔はこんなにすぐには疲れなかった。毎日山の林を駆け上がって遊んでいた自分が少し羨ましい。ふぅっと一息ついてから立ち上がり、駅までの歩みを再開した。

 何を考えながら歩いていたのだろう。いつの間にか駅の入り口に通じる階段を上っていた。ペットボトルに手を伸ばすも既に空である。そこまで夢中で歩いていた気がしないが、うだるような暑さと流れ出る汗に体を覆われて周りを見聞きする余裕が無かったのだろう。改札を通ってホームで待ち、冷房のよく効いた電車に乗り込んだら、服で扇いでいる内にやっと意識がはっきりしてきた。それと同時にもう暫くはあの部屋に帰らないぞという意識が沸いてきて不意に笑みが浮かんでくる。住んでいる所に大して不便や不満があるわけでは無いのに、毎日食事シャワー就寝を送った場所を空けておくとなるとどことなく愉快な感じがするのだ。それはここに来た時も同じだった。

 暫くスマホを見ていたがすぐに飽きてしまい、長旅のお供にとポーチに入れていた小説を引き出したはいいものの、それもあまり読む気が作れなくて結局外を眺めていた。受験の時も参考書を読んでいられなくて胸が詰まったのを覚えている。その時はずっと床を見ていた。今は打って変わって心は開放感に満ち溢れ、愉しんで外を眺めていられる。そうしながらぼんやりと考え事に耽る中で、一つ重要そうな議題がふと浮かんだ。帰ったら何をしようか。楽しみにしながら帰省を決め込んだのに肝心なことを考えていなくて自分でも可笑しく思ってしまう。その可笑しさの中で、まぁそれも帰れば浮かんでくるだろうという変な確信を得たときには、また可笑しさが込み上げてきた。これだけでは無く、他のあらゆる問題もこの帰省一つで解決出来るような気までした。そんな雑な結論をつけてすぐに電車は目的の駅に到着して、僕は重い荷物を軽々と運んで降り、新幹線までの暇つぶしに適当に店を素見すことに決めて人込みを歩いていく。こっちに来た時は全く無視して歩いて行ってしまったが、こうやって見てみると面白いものも沢山あるものだ。尤もたまに見るから良いんだろうけども。見た中からおやつとお土産を買うともういい時間になっていたので新幹線を待つホームに向かった。

 新幹線はそこまで待たずにやって来た。思ったよりもぎりぎりにホームに着いていたらしくて少しひやひやする。まぁ問題ない。もう目の前に新幹線が来ている。僕がすることはこれに乗って、帰るだけだ。そうして僕は新幹線に乗り込み予約した席に着き、自分の夏を始めた。

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