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詩の日誌 「抽斗の貝殻のように」 1

「抽斗の貝殻のように」

 評論家の篠田一士が「ノスタルジア」について書いた、好きな一節をときどき思い出す。

「ノスタルジアはかつてあったものを獲得しようとねがう心ではない。失われたものを自覚することであり、なにもない――失われるものも、獲得するものもないことを意識することである」

篠田一士「『氷島』論」より

  わたしにとって失ったもの、なくしてしまったものとは何だろう……。
  電車に揺られながらそんなことを思ううちに、浮かんできた光景がある。

 人の流れの一部となって降車駅の見慣れた階段に無意識に吸い込まれてゆく。
 そんな予想のつく動き方以外には、感情を大きく揺らさずに暮らせる日がしばらく続くとき。
 早朝から夕刻へと移る窓のひかりだけを映す乱れのない気持ちのくり返しのおかげで、胸の奥には、生まれたときから変わらないはずの静かな水面が広がっている。

 わたしはたとえば詩を書く夜には、その岸辺へとおりてゆく。

 わずかなひかりしか差し込まないおかげで、いつもひどく優しく見える水底。
 そこには、もう二度とふれることはないけれど、決して忘れることもない人やものたちが、やはり一番優しかったころのまま、沈んでいる。

 離れてはいても、まだ好きな香りや手ざわりや、後ろ姿。
 それらの親しさ、愛おしさをゆっくりと思い出すうちに、ゆら、と動くものがあれば、ひとつだけ、すくいあげる。

 水底の甘い翳りにふれたゆびさきは、しんと冷たく。ときには、ほのかに温もりだして。そのどちらの寂しい体温も心地よい、といつも思う。

 ときどき、水面からさらさらと音がすることもある。それはたぶん、小学校の夏休みに大洗海岸近くの土産物屋で、ひとつだけ買ってもらったガラスの壜だ。
 その内側には、赤ん坊の爪よりも小さな桜貝がたくさん集められていて。

 子どもの手のひらでも軽く包める大きさの壜を耳のそばで傾けると、かすかに、さらさらと音がした。

 それを勉強机の抽斗の奥にしまい、ずっと大事にしていた。
 人と話すよりも本を読むのが好きな子どもだったわたしは、透きとおる桜いろを耳につけ、波の音を好きなだけ聞ける時間がくるのが毎日待ち遠しかった。

 さらさらさらさら。そんな音だけを、ただ、聞いていたかった。

 でも、いま、手元にあの夏のガラス壜はない。
 どこでなくしたのかも、もう思い出せない。

 だから、わたしはまだ、あの小さな貝殻をなくしていないのかもしれない。
 なくしたのではなく、姿が見えなくなっただけかもしれない、と。

 わたしにとって詩を書くことは、その透明な貝の姿を書き写すことだとも思う。

 さらさらさらさらという、二度とふれられないけれど、決して消えることはない波の音を、まだ見えないことばの水底から聞きながら。





詩の日誌「抽斗の貝殻のように」2

「名づけられない軽い明るみ」