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「詩の教室」Q&A【16~34】

山口市立中央図書館で行われた「詩の教室」のQ&Aの続きです。
(Q&A【1~15】は別記事になっています。この記事の最後にも貼り付けておきます)

問16:

書いても読んでも、悪いものはわかるのに、いいものや好きなものがわからず、中途半端なまま、とても苦しい日が続いています。
ひとによりけりだとは思うのですが、そういうときでも、書くことや読むことから離れないほうがよいのでしょうか。
 
回答16:
たとえば、「騒がしい場所が苦手→静かな場所が好き」というように、自分にとってよいと思えないものの逆方向をたどっていけば、心地よいもの、好きなものがみつかる気もするのですが。
正直なところ、私も心から好きで好きでたまらない詩に出会うことは数年に一度あるかないか、です。
 
けれど、たとえ、いまたくさん書かれている詩作品のなかに心からよいと思えるものがまったくなくても、詩を書くのには困らないとも思っています。
詩の世界の外を見渡せば、美しいものやうれしいこと、心惹かれるものはたくさんあるはずです。

映画や音楽、一枚の写真や絵。
あるいは思い出のなかのだれかの笑顔や毎朝の電車から見える小さな川……そんななぜか惹かれるものたちを少しずつ集めていって、心が好きなものでいっぱいになったとき、もしかしたら、ああ、詩を書きたい、と思えるのかもしれません。
 
わたしは、詩を書くうえで、誰かの詩作品を無理に好きにならなくてもかまわないと思っています。
自分の詩は、自分が生きるこの世界のなかで出会ってきた好きなもので満たせばいい、とも思うからです。
 
私も、ときどき詩を書いていて息苦しく感じることがあります。そんなときは詩の世界の内部ばかりを見つめすぎているのかも、と思い直します。
 
本を閉じて上を見る。すると空がどこまでも広がっている。その空を見あげることも広い意味で詩を書くことかもしれません。そう思いながら、焦らずに、続けています。
 
問17:
朗読はよくされますか? 詩のほかに好きなジャンルの本があれば教えて下さい。
 
回答17:
朗読は、これまでに試みたことはありましたが、いまはこうして詩について話す機会があるときに音読するくらいが心地よく感じています。
あまり気負わずに隣の人に話しかけるように朗読する機会があればいいなとも思っています。
 
川端康成や辻邦生など、10代の頃から好きな作家はくり返し読みます。

幻想的な小説やファンタジーも好きです。
現代の日本の作家ですと、梨木香歩さんと上橋菜穂子さんの新作はチェックします。
作家の紀行文や食にまつわるエッセイも好きです
(竹西寛子、辻邦生、小川国夫、立原正秋、吉田健一、檀一雄、池波正太郎、杉浦日向子のものなど)。
昔から漫画も好きで、少年漫画、少女漫画、どちらも読みます。
 
問18:
詩をつくるときに気をつけることはどんなことですか。
 
回答18:
「詩の教室」でもお話しましたが、詩のなかにだけ登場するような難解な言葉を用いずに、詩を読まない人にも理解しやすい言葉でなるべく書くこと。
 
それでいて、平明な言葉同士のみずみずしい組み合わせを発見できたら、言葉本来の輝きを引きだせたらいいな…と理想として思っています。
 
問19:
詩と散文の違いはどこにあると思われますか? 現代詩の定義とは?
 
回答19:
詩と散文の違いについての私の考えは、「詩の教室」でお話させていただきましたのでここでは簡単に書かせていただきます。
 
一般的な小説やエッセイや記事などの散文の言葉は、作者の考えや物語を運ぶ器であり、内容を伝えるために働いているもの。
けれど、詩の言葉の場合は、内容を運ぶ働きもありながら、その器自体もまた重要なものとみなされると。
そして内容と器を区別できないものとして私はとらえています。

ポール・ヴァレリー(フランスの象徴主義の詩人:1871~1945年)の「散文は歩行であり、詩は舞踏である」という有名な言葉を考えの起点にしています。
 
現代詩の定義といっても、形式か内容か、そのはじまりをどこに定めるかなど、着目するものによってもさまざまに変わるかと思いますが、「近代詩」を継承し、かつ超えていくもの、「現代」を生きる人々の意識と無意識とともに変化し続けるもの、と広くとらえています。
ですが個人的には、近代と現代を分けて詩を読んだり、書いたりはしていません。
 
問20:
どんな時に詩の着想が、生まれますか?
 
回答20:
似た質問がありますので、よろしければ「回答1」の前半部分をご覧ください。
 
問21:
技法と感性のバランスが気になります。それぞれの詩人の方、作品によりますよね。楽しみにしております。
 
回答21:
技法は意識の領域、感性は本能的な生理の領域に属すものでしょうか。
ですが、言葉に対して意識的に敏感になればなるほど、本能の領域も広がる気もします。
 
問22:
自信を持って自分の作品を書くにはどうしたらいいのでしょうか?
色んな詩に触れるほど、これまで書いてきた詩が本当にオリジナリティがあるものなかのかわからなくなってしまいました。また、たまたま後からテーマや構文が似た詩を知ったときは、自分のその詩をもう外には出さないほうがいいのでしょうか。
お気に入りの詩だったので、ちょっと混乱しています。

また真に自分の詩だと自信を持てるように、創作の際に心掛けていることなどございますでしょうか?
 
回答22:
作者が意識していなくても、どの作品も、過去に書かれた膨大な作品のうえに新たに積もっていくものであって、どの文章も完全なオリジナルではなく、すでに書かれた文章から何かしらの影響を受けているものだと私は思っています。
 
だからといって、それをネガティブにとらえるのではなく、過去に書かれただれかの作品は、自分の文章を支えてくれる見えない糧のようなものだとも感じています。
 
たとえ似ているテーマや構成であっても、書く人が違えば、本人が思う以上にその人自身の性質がそこに注ぎこまれるものではないでしょうか。
例えば絵画の制作を見ても、同じモチーフを同じ材料で描いた二枚の絵画が、まったく同じということはあまりないように感じます。
描く人それぞれの描き方の癖や好みの色の濃淡などがその差を作る気がします。
 
他の何かに似ることや完全なオリジナルでないことを気にするよりも、書くこと自体を楽しみ、そこに没頭、集中すれば、自然とその人らしい熱意の足跡がついた作品になるのではと思います。
 
問23:
自分の詩が読めません。自分の詩への信頼感が、詩を書く方々(合評会などでの)に評をいただいたり、アドバイスをもらったりすることによって、つまり自分が書いた詩への反応によって左右されてしまいます。
 
詩を書いた直後は満足感はあるのですが、1日経つと自分の詩の不確かさに、客観視できず信頼できないのです。信頼感がないのは、詩を読むことができてないと思うのです。また他の詩人の詩集をある程度の量まだまだ読み込んでいないことにも、起因していると思っています。
 
自分の詩が読めるようになり、自分の詩を自分自身が信頼できるようになるには、どうすればよいでしょうか。
他の詩人の詩をたくさん読むことにより、見えてくる地平があるのでしょうか。
 
回答23:
周りの反応に左右されてしまう、書いた直後には満足感はあるけれど、時間が経つにつれ自分の作品が信頼できなくなる。それは私もよく感じることです。
 
自分の詩を人の詩と同じように読むのは難しいですよね。自分でいくらでも書き直せるから、ほんとうに完成したのかどうかもわかりにくいし、読み返すほどに不確かに思えてくる。
けれど、その不確かな部分も詩作の一部だと思って否定しないことかなと思います。
何かが足りないな…と思う気持ちがあるからこそ、新たに進む方向が見えてくることもありますし。
 
とはいえ、一篇一篇の完成度や人の評価にとらわれて、手元ばかり見ていると煮詰まってしまうこともあります。

そんなとき私は、自分が詩に惹かれるきっかけとなった詩や、心から好きな何冊かの詩集をくり返し読みます。そして、自分はこういう詩に憧れてきたんだな、私もこういう詩をいつか書いてみたいな…など、少し遠くのほうを眺めます。
 
暗い手元より、少し遠くの明かりを見る。
そのかすかに明るい時間を通して、自分だけには確かにわかる何か、が見えてくるかもしれません。
 
問24:
詩と健康とは、どのように結びついていると思いますか? 健やかであることと、自分のうちに深く潜り込んでいくことは、両立することはできると思いますか?
 
回答24:
私自身は、「自分のうちに深く潜り込んでいく」=「詩を書く」ためには体力と気力、集中力がないと難しいと考えています。
健康を欠いた状態、つまり体力、気力、集中力がない状態で何かを書いても、自分のなかの困難や疲労などの暗い部分を俯瞰することができず、作品もよくわからない混沌としたものとなってしまうかもしれません。
 
健やかさと「自分のうちに深く潜り込んでいくこと」は両立するというよりは、私にとっては、「自分のうちに深く潜り込んでいくこと」は健やかでないと実現できないことだと思っています。
 
問25:
現代詩手帖などの雑誌に掲載することを意識した詩と、自分の自由な感情だけで書く詩は違いますでしょうか? 
 
回答25:
掲載されることを目的にして書く詩と、言いたいことを自由に(素直に)書いた詩は区別されるものなのかどうか。
投稿欄の選考は選者の読書経験や好みに左右されますし、詩誌によっても選ばれる詩のタイプは違うので、こういう詩なら選ばれるという基準はあるようでない気がします。
 
自分なりの言葉の選び方や組み合わせを突き詰めていけば、「自分の自由な感情だけで書く詩」も選者を十分に魅了することもあるでしょうし。
 
何よりも、最初から自分の書ける詩の範囲やタイプを決めつけずに、投稿する詩誌によって作風を変えてみるくらいに自由な気持ちで、いろいろと試すほうが面白いのではないでしょうか。
そのほうが書きたいことや書けることも増えていくのではと想像します。
 
問26:
峯澤さんは、いつもどんな詩を書こうと思っていますか? 
それは、いつも同じ気持ちでしょうか? 
それとも、その時々で変わるものなのでしょうか? 
 
自分はしばしば、書こうとしていた詩と書きあがった詩に、ギャップを感じています。それがポジティブな場合も、ネガティブな場合もあります。
いつの間にか、書き始めていた時の意図とは別物の詩ができあがることもあります。

自分がどんな詩を書こうと思っていたのか、書いているうちに忘れてしまうことさえあります。このような自分でも、良い詩が書けるようになるでしょうか?
 
回答26:
そのときどきで書いてみたい詩は変わります。
基本的には五感が響きあう詩、言葉の本来の美しさを引き出す詩に憧れています。
 
「書こうとしていた詩と書きあがった詩に、ギャップを感じています」とのこと。
それは詩を書くときにはよくあることなのではないでしょうか。
「詩の教室」でもお話しましたが、詩を書くときに書く内容が最初から最後まで見えている詩人は少ないと思います。書きながら、内容やかたちを発見していく人が多いのではないでしょうか。
 
詩はこうやって書こうとコントロールしようとしてもできないものだと感じます。
書いているうちに作者も予想のつかない場所へと言葉が流れつく。
それは詩を書くことの面白さでもあるし、意外な言葉の流れや終わり方は読む人にも新鮮な驚きをもたらすのではないでしょうか。
 
問27:
詩を書き続けていく中で限界を感じて辞めようと思われたことはありますか? 
また、ずっと書き続けてこられたことについて、何が原動力になっているのでしょうか?
お答え願えたら幸いです。
 
回答27:
限界とは違いますが、人から評価される、されないといった自分の外側で起きる出来事とは関係なく、もし詩に興味がなくなったらいつでもやめようとは思っています。
 
続けている理由としては、一篇を書いたあとしばらくすると、その一篇の終わりから始まる何か、がまだあると思えてくるからです。
 
それは、この詩には何かが足りないという悲観的な思いではなくて。どこかにいるはずの、この詩の姉妹をもう少し探してみたい…という願いのようなものです。
 
それと、詩に特別な親しみを感じていた幼い頃の私のようなだれかにいつか届く詩を書いてみたい、という希望もあって。
 
詩にも、私自身にも、大切な片割れがこの世界のどこかにいるはず。
そんなやわらかく欠けた部分があるから、詩をまだ続けられるのかもしれません。
 
問28:
自分で詩を書くと、無意識に誰かの真似になってしまうばかりで、悩んでいます。峯澤さんは同じような悩みを持たれたことがありますか?
そして、それを解決されていましたらどのように乗り越えられたかお聞きしたいです。
 
回答28:
自分の作品はすでに書かれた誰かの詩に似ているかも…そのことについて「回答22」でお答えしましたので、そちらをご覧いただけましたら幸いです。
 
問29:
散文詩と小説の文章の違いについて、お教えください
 
回答29:
詩と散文については「回答19」の前半でも触れていますので、そちらもご覧ください。
 
散文詩と小説の文章(言葉)の違いに関しては、「詩の教室」でも自分の感じ方をお話しましたが、ここでくり返しますと…。
 
「一般的な」小説の言葉は、物語を運ぶ舟であり、読む人はその舟にのって流れてくる周りの景色を楽しむことができる。
でも、散文詩(を含めた詩)の言葉は、作者自身にもまだ全体が見えていない未知の世界へと分け入っていく、その模索や冒険の足跡そのものだと感じます。
 
ですから、読む人も未知の世界の奥へと作者とともに入っていくことが求められる。
つまり読者もふだん使わない感覚をできるだけ開いて、自分なりに積極的に意味をつかみとるというような、能動的な共同創造が求められる場所だと思います。
 
詩の言葉というのは、すでに完成された舟ではなく、読む人の目の前でこの瞬間に生まれ、変化し続ける創造の場だと私は考えています。
 
問30:
私も詩を書いているのですが、自分で作品を推敲するうちに言葉が多すぎたり少なすぎたりするような気がして、どの時点で書き終えていいのかわからなくなってしまうことが多々あります。
 
峯澤さんが推敲の際に心がけていることや、作品を完成とする際の判断基準のようなものがありましたらお伺いしたいです。
 
回答30:
「回答8」の後半と「回答9」にも推敲や完成の目安について書きましたので、そちらをご覧いただけますか。
 
問31:
日本語の詩が散文とどう違うのか、興味があります。特に、定型詩でない自由詩の場合、散文とどこが違うのか、もし原理のようなものがあれば、ぜひ、知りたく思います。
 
私は英語やアイルランド語などの強勢でリズムをとるタイプの言語 (強勢拍律言語) の詩の韻律を研究している者で、その場合は、散文との違いは明瞭に分ります。フランス語の場合も同種のことがあるのかもしれません。日本語だと、分かち書きのように目で見た違いのほかに、耳で聞いて分る散文との違いがどこにあるのか、かねてから知りたいと思っています。もし、何かお考えがある場合は、ぜひお聞かせください。
 
回答31:
印象的なオノマトペやことば遊びが登場する詩や、畳みかけるようにあえて同じ音をくり返すような詩を別にすれば、西欧の詩のように韻を踏まず、五七調から離れた現在の口語自由詩、とくに散文詩の場合は耳で聞いただけでその他の散文とはっきりと区別するのは現実的に難しいのではないでしょうか。
 
それが詩なのか他の散文なのかは、実際に耳で聞いたときに、そこから伝達を超えた何か(韻律やリズム、色香や情感)を感じ取れるかどうかを手がかりに、読み手自身が五感で判断するしかないのではと思います。
 
問32:
奥底にまずポエジー(詩情)があって、それを言葉(詩)という方法で表現することが理想だったのですが、(演奏者が楽器を用いて音楽を奏でるように)いつのまにか「詩を」書くことが目的になってしまっている自分に気が付きました。
 
詩が「手段」になってしまいました。それからというもの詩を読んでも作っても、どこか心の底が冷めてしまっているような気がします。こんなときどうしたらよいでしょうか。
 
回答32:
詩情を言葉で表現したい。最初はそう思っていたはずなのに、いつのまにか詩を書くこと自体が何かに到達するための「手段」や「義務」になってしまう。
それは私もときどき感じることです。
 
でも、詩は詩情を表すために書かれるものだと考え続けるのも、少し窮屈ですし、ときに辛くなります。
詩を「手段」にしてその先に何か実現したいことがあるのなら、いっそのこと割り切って、その願いに到達できるまで書くこと自体に(がむしゃらに?)没頭してみてはいかがでしょうか。
 
詩を書きたい気持ちが湧いてこない、だれかの詩も読みたくない、でもそろそろ作品を書かなくては…というとき、私は、文章の訓練をするつもりで、長めの散文詩や短い詩の連作など、これまであまりやってこなかった書き方をあえて試してみます。
 
先にかたちを決めて、とにかく書き始めます。
そして書いたり消したりを繰り返すうちに、その熱中のなかに詩情のかけらのようなものをかすかに感じることがあります。
先に詩情が湧くから書くのではなく、かたちやテーマや長さを先に決めて詩をとにかく書いてみる。
 
すると、書くことそのものが面白くなってくるかもしれないし、書きたいことが新たに浮かんでくるかもしれない。
もしかすると詩情は詩の外側にあるのではなく、詩を書くその時間の内側にあるのではないでしょうか。
 
問33:
絵本の翻訳が、詩作に影響することはありますか。

回答33:
あると思います。どんな文章であっても、読んだり書いたりするものはすべて、自分の言葉の選び方や動かし方に影響を与えると感じています。
 
例えば、趣味の雑誌の記事を読んだり、外国語を習ったり、という一見、詩とは直接関係のない言葉とのふれあいであっても、詩のなかの一語を選ぶときの基準を変える要因になるのかもしれないとも。
 
詩の表現のなかに直接的には現れないとしても、これまでのすべての言葉とのふれあいが、自分の詩を作り、支えていると思っています。
 
問34:
何十年前に国語の時間で読んだ「詩」しか知らないのですが、こんな自分でも詩は書けるのでしょうか?

回答34:
もちろんです! 
私も、授業中に詩を読んだことが、詩に興味を持った始まりです。
詩を書くのは難しい、特別な言葉を用いなくてはならないと構えずに、まずは、日々のなかで心に浮かんだことを自由に書いてみることから始めてはいかがでしょうか。
 
「あのとき表面的にはああ言ったけれど、ほんとうは、自分は何を感じていたんだろう?」など。
書いているうちに、意外な風景が見えてくるかもしれません。
 
詩の書き方に決まりはありません。
たとえば、散歩や移動の途中に気になったものをメモする。好きな曲の余韻を言葉にしてみるなど、ご自身にとって心地よい方法を見つけていただけましたらと思います。



Q&Aは以上となります。
ご質問をくださったみなさまに感謝いたします。
ありがとうございました。

「詩の教室」Q&A【1~15】は下記の記事へ。



※この「詩の教室」Q&Aについて:
2022年1月23日に行われました、
山口市立中央図書館「詩の教室」の終了後、
参加者のみなさまに配布しましたQ&Aを転載しました。
(図書館からも転載の許可をいただいております)