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背中の存在すらも疑う人間

「それほんと?聞いたことなーい」
「見たことないしなー」

これは至る所で聞ける。居酒屋でも、家庭でも、学校でも、道端でも。


僕は教職課程を受けているので(教師になるかならないかは決めてはいないが)、一応教育の情報は入ってくる。そんな中僕が聞いた話の一つに「教育格差」というものがある。

この「教育格差」の根本的な問題になるのが「貧困」である。

現代の日本は7人に1人の子どもが貧困状態にある。そして一人親家族の貧困率は50.8%にも上るそうだ。しかしどうだろうその貧困を身近に感じている人がどれだけいるんだろう。

YouTubeに橋下元大阪知事が私立高校の補助金を削減する政策を打ち出したことに対して、私立高校に通う貧困家庭の高校生が知事に直談判をするという動画がある。(これは10年前ほどにあげられている動画で、無断転載の動画だと思うので、リンクは貼らない、見たい人は各々で調べてみてほしい)
その動画の中で「先生にここにしか行けないといわれた」や「勉強についていけない」という発言が高校生から見られた。これに対し橋下元都知事は「日本は自己責任の国が原則の国だ。」や「努力で追いつける話ではある」と反論した。動画のコメント欄を見ると高校生を馬鹿にする内容のコメントや所謂「甘ちゃん」といった内容のコメントが多くみられる。

ここに僕は人間は背中の存在すら見えていないのではないかと感じた。

つまり、自分の背中は見えない、同じように彼らの現状も見えていないのではないか。
きっと高校生が貧困で仕事をしないといけない。親の代わりに家事をしないといけないだから勉強が出来ない。とあの場で言っていたらどうだったろうか。きっとここまで馬鹿にするコメントが多く集まるとは限らないだろう。

人間は自分の身の回りや自分を中心に世界を見る。それは勿論そうなんだが、大多数の人がその身の回りの常識を世界全てだと思っているのではないか。頭ではそうではないと思っているようだが、常識の拘束力は侮れない。

僕も数年前はコメント欄の人たちと同じ考えだった。しかしその考えが大学に入って少し変わった。きっかけは天祢涼さんの「希望が死んだ夜に」という小説を読んでからである。創作物とは言え、社会派の小説なので、今の世の中を表していると考えると驚きだった。そして少し思い出してみると僕の知り合いにも勉強したくてもできない状況の人がいたと感じた。

とはいえまずは「希望が死んだ夜に」の概要を説明すると、ある中学生の少女が殺害され、同じ中学の少女が犯行は自供したが、動機を一切語らない。何故殺害されたのかということを刑事二人組が捜査するという小説だ。そののかに「貧困」というのが生生しく、そして肌身で感じさせてもらえる。

「希望が死んだ夜に」の一節を引用させていただく

”「率直に訊くけど、君の家はあまりお金がないのかな」
「あまりじゃなくて、全然です。ママが仕事かけ持ちして、どうにか暮らしています」
「でもちゃんとご飯を食べることができる。そうだね」
「はい」
「就学支援のおかげで、学校に必要な物は買えるし、修学旅行にも行ける」
「はい」
「だったらお金が全然ないわけではないな。世界には、もっと恵まれていない人たちが大勢いる。例えばアフリカの子どもをテレビで見たことがあるだろう。あの子たちは飢餓に苦しみ、とても痩せている。君はあんな風にはなっていないだろう」”

この会話を見てどう思うだろうか。僕も子供の頃によく聞いた。「日本は恵まれている。アフリカの子供たちは学校にすらいけないんだ。」
僕はこれは教師として無責任すぎると思う。何故アフリカの子どもと比べるのか、南アフリカなどの国々は日本よりも幸福度が高い。

これはなぜか、僕が個人的に感じるのは、「日本は平均という言葉に操られている。」ということだ。この少女だって「皆がご飯を少ししか食べられない。」「皆が孤独」だったらこんなに貧困を感じてないはずだ。アフリカと日本じゃ環境が違い過ぎる。

これは先ほどのYouTubeの動画の話にも通づる所がある。貧困を「たかがちょっとお金がないだけ。アフリカの子どもたちよりはまし。」という根拠のない論が彼らの根底にあると感じる。そうでなければ「努力で何とかなる」なんて簡単には言えないからだ。これを示す場面がもう一つあるのでそこも引用させていただく

貧困は珍しくない。どんな過酷な状況でも、努力すれば道は開ける。「母に楽をさせたい」という一心で這い上がってきた俺が言うのだから間違いないーそう思っていた。しかし「母に楽をさせたい」ということは「母は苦労している」ということ。
そして俺は「母に楽をさせたい」という一心で勉強しかしていなかった。
母にだけ苦労を掛けて、自分は努力する余裕があったのだ。
努力すれば報われて、明るい未来が開けると信じられたからー

ネット上では「お金がなくても努力して東大には入れました」というような話はネット上に転がっている。これらの話は貧困で苦しんでいる人たちに対し、「こういった人たちもいるのに何で君は…」と矢のように降りそそぐ。
そういった目立つ意見は少ないのに、その数倍苦しんでいる人がいるのに、現状を見ない人達の詭弁となるのだ。

もう一つ小説だけではなく実際の話もある。僕個人は決して裕福ではないが、特に貧乏を感じた事はないので、友人の話になるのだが。

その友人は言葉は悪いが、馬鹿だった。授業は真面目に出ているのに定期テストの点数は一桁。どのくらい馬鹿かというと「本を英語で書いて」と言っても”book”すらかけない。僕は意味が分からなかった。だから彼に「テスト勉強を一緒にやろう。」と言って勉強会を僕とその友達、あと他の友達の4人で行った。当時中学3年生だ。

頭がよくない友人は3分しか集中力が持たなかった。僕らがもっとやろうといっても集中できなかった。何故集中できないか、それは普段の生活にも原因があったし、勉強が習慣づいていなかったからだ。貧困どうかは僕にはわからないが、少なくとも裕福ではなかった。

そもそも東大生のほとんどはお金持ちの家庭から出ているというのは有名な話だ。実際に勉強と金は大きく関係する。単純にいえばお金持ちなほど頭を良くしやすい。高貴なハビトゥス、文化資本を手に入れることが出来る。今風の言葉で言えば「教養」か。行動心理学の面から言うと、知能は遺伝であるという。それに加え、「努力」もやろうと思って出来る訳ではない、個人差があり努力も才能と言える。

つまり、努力どうのこうのよりも、遺伝と環境は勉強や学歴などの大部分を担っているのだ。

また、貧乏は連作する。そもそも貧乏な親は、生活の安定のために勉強を優先させない。生活の為には”仕事"が必要なのだ。また、人間は子どもの時、親を見て育つのだ。

チャラ男漫才でお馴染みのEXITのかねちぃさん(かねちぃさんの幼少時代は貧困であったそうだ。)があるテレビで「勉強するとかいう習慣が当たり前じゃなかった。勉強はしないといけないことも気付かなかった。」と言っていた。これも環境が人に大きな影響を与えるという最たる例だろう。多くの人は気付かないが、ある程度の中流にいれば、学校で、家庭で、勉強をする習慣はある程度付く。そうでなければ、少年犯罪者の多くは会話が成り立たないそうだ。

多くの人間はこの事を知らない。知っていてなお「自己責任」を謳うならそれは鬼だ。僕は知らないことは悪いことではないと思っている。ただ、言葉一つで人間を傷つけるということはあるのだ。

人間はみえないこと、知らないことについては理解できない。理解しようとしない。主観の眼鏡を外すことは容易くはない。偏見というのはそういうことだ。しかし人間は自分の背中が見えなくても、自分には背中があるということを信じて疑わない。つまり人間は見えないこと、知らないことを見よう、知ろうとする。そして理解しよう、共感しようとする力を持つということだ。だからこそ人間は想像しなければならない。悲しい世界だと嘆く前に。



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