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現代を生きる人間という存在

人間とは生物か

人間という存在は高次元であるという話は往々にしてよくある話だ。生物軸にして考えてみればそれも当然の話であって、そこに異論はない。人間は生物である。一方で人間というのはある種生物ではない。

生物というのは基本的に種の繁栄、もっと言えば血筋の延命と自身の生存にその寿命のほとんどを費やし、その小さな思考を捧げている。まあ時にその傲慢な姿を見せることもあるが。(同性愛のような現象が自然でも一部で見られることもあるが人間と比較すればそれも瑣末であろう)

翻って人間はどうだろうか。詰まらないことで自死を決意し、それが容認されつつある社会であるのだ。また血の繋がりがなく、血筋の延命以外の目的で群れを成すのは人間を差し引いて他の生物にいるのだろうか。最終的には権利を求め、種の繁栄に至らない状況に自ら望んでなっている。少し薄ら寒さを感じさせる程に。(僕はこれを責めているのではなく、むしろ容認している側であるのだが、今回は人間が生物であるという前提に乗っ取っている場合の話である。)

常々自分は人間という生物はその思考力、文明を発展させると同時に何かを失っているのではないかと勘繰りたくなる。いや正しくは発展と共に生じた問題なのだろう。所詮発展というのは、文字通りの意味と共に、その反語となる概念が一緒くたになっている。これは逆でもいえる。物事は表裏一体が常であり、それは相似した問題なのだ。

人間というのは自身のことを誇大して考えるという。それが人間心理なのだ。これは安寧が齎した副産物となっているのだろう。野生で生きている者で怠慢な生物はいない。そういったものは淘汰されていく。対して人間というのは社会権を元に、平等という概念の元に、社会的な生物として他者の救済を行う。これは花と蜂との関係性とは違う。利害関係が存在する場合もあるが、そのほとんどは無意識なものであり、その少しは純粋な利他的行動である。

しかし人間というのはこの不思議な不条理と共に極めて合理的な存在でもある。人間は合理的なために裏切り、欲、権力に縋るのだ。そして権力に至らない者は権力に平伏すことで其の享受を受けようと画策する。とても合理的である。しかしこの合理性を持つ人間もやはり、先ほども述べたような非合理な行動を見せるのだ。この点も他の生物と一線を画す要因である。

チスイコウモリという蝙蝠がこの世界には存在する。彼らもまた人間と同じように利他的な行動を見せている。彼らは多くの血液を手に入れた時、周りに配るのだ。これらは遺伝子の齟齬から生まれたものであり、彼らは分け与える方が、周りからの血液の供給を得ることができ、生存に適していたために生き残る。つまりただの利己的な行動の結果が利他的な行動のように見えるということだ。確かに人間のほとんどの存在は同様に利他的な行動が巡り巡って自身に帰ってくると分かっている、利己的な行動をしている。また世の中には他人のために行動しないといけないという思想の持主や、障害にまで発達するケースまであるが、彼らも他者を助けることで、自身の悦楽を得ており、各々の承認欲求を満たしている。

ここまでのケースは自身の生存には何らかかわりもない。遺伝子の悲願である生存という目標は達成されており、また前向きな結果となっている。しかし、人間の中には自身と関係がなくても、または希薄な関係においても、自分の身を呈して他者を助けることがある。これは心理学的にも存在が確認されている。しかしこれらは生存に適さないはずだ。なぜなら他者を助けて感謝され、快楽物質が増加したところで人間の幸福度というのは全体的に増加するわけでもなく、自身の生命の危機をもたらしているのだ。つまりこれらの性質は生存の上で淘汰されていくものであるが、現在まで、生き残り、それを善しとする社会が存在する。この時点でやはり人間というのは異端であるのだ。僕はこれらも安寧が齎した副産物だと思っている。

人間の生み出した社会

ここまでで人間というものは如何に特異な存在かを述べていた。人間というのは生物の皮を被り、生物という名前を持った、個体であり、群れである。

我々人間というのは社会を生み出し、その共同体の中にその命を預けている。アリストテレスが述べた人間はポリス的生き物であるという一文にもこれが現れている。前近代において人間は国というより寧ろムラ社会の中に暮らしていた。というのも今ほど情報技術が発達していないため国の規制も国全体に及ぶことはない。だからこそ圧政を引いてしまえば、国王の知らぬところに火が立ち、山火事は留まることを知らない。そうして国全体を憤怒という火が燃やし尽くしていったのだ。なので、アレクサンドロスにしても古代ローマにしても多くの地域を支配していた国は分割統治や緩い支配に為らざるを得なかった。いやそうした支配でなければ長続きしなかった。

故に人間というのは村の中に自身を埋めていたのだ。その傾向は日本を見れば色濃く残っていると言わざるを得ないが、白人至上主義や中華思想なども広くはこのムラ社会の成れの果てだ。人間は自身の内的集団をアイデンティティにする。そして自分たちがそのムラのマジョリティであれば尚更であり、それが長年の年月をかけステレオタイプとして形成されたのだ。

こうして現代社会においてもこのムラ社会の残した負の遺産が尾を引いていると言わざるを得ない。しかも質が悪いのはその偏見を残したまま世界ではリベラルが騒がれているのだ。この相反する二つの狭間で人々は生きていくことを与儀なくされている。これが原因で人は時に目を疑うような暴論を平気で吐くがそれもこれも本当の意味で「定まっていない世の中」の悪風であろう。

そもそもこの社会を生み出したのは何なのか。それは産業革命である。この産業革命がムラ社会を崩壊させ、我々に新時代と、それに伴う問題の残滓を飲ませているのだ。

産業革命において大きな目玉となるのが資本主義と鉄道の開発だ。そもそも前近代では貨幣は物物交換の指標でしかなかった。今でもその原則自体は変わらないのだが、その価値というのは目に見えないほど上がった。そして権力による支配構造から、資本による支配へと変わった。

そもそもここで一つ言っておきたいのだが、この産業革命の前のフランス革命も大きな近代化の一歩であることを忘れてはいけない。ここで生まれた国民国家という考え方や自由と権利の尊重はこの資本主義社会においての基盤となるものであり、この革命は産業革命の礎を築いたと言ってもいい。(その前のピューリタン革命の可能性もあるが。)

この資本主義により支配と共に格差というものが顕著になっていった。現在では3%の人間がこの世の富のほとんどを握っているというから驚きではある。

ここで問題となっているのはこの資本者はどういった人物なのか。それは一般市民だ。貴族や地主から成り下がった者もいるとは言え、一般市民だったのだ。確かにムラ社会においても地主、貴族というのは重要な立ち位置であり、ムラにおける支配者であったが、村人とは一線を画していた。それは権力である。しかし産業革命によってムラは崩壊(この理由は後述)そして地主たちも一般市民になった。しかし彼らには私腹があった。これをもとに起業し、また権力を手に入れた。しかしここでの権力とは先ほどまでの権力とは違うと明確に言える。権力はお金なのだ。だから元地主と云えども金がなければ搾取される。一方金さえあれば元貧民であっても支配者に成れる。これが資本主義であり、徹底した競争社会である。これが格差を助長しており、ムラ社会のような村の一部としての自分ではなく、社会の中に生きる自分という個人主義の発達を促した。現代の隣人関係の希薄さなどがこれにあたる。それを象徴するものが、前近代のムラ社会では、血縁や隣人関係が重要な関係であったのに対し、現代では友情関係や一世代の家族関係(これも前近代と比べれば弱くなっているが)が重要であるという構図だ。

産業革命のもう一つの側面、それが交通革命である。これは汽車の開発によって爆発的に移動(特に大陸においての)が簡素で素早くなった。出稼ぎのため農村から工業地帯への移動が盛んとなった。というのも農業よりも工業の方が儲かっていたためだ。農村では毎日生死を賭けた生活を送っていた人間も”労働者”になれば余裕ができた。これがムラ社会の崩壊を意味する。つまりここで村としての生活から個人単位、工場の生活となった。となると垢の他人とのコミュニケーションが重要となる。これが個人主義を促進し、血縁関係の希薄さを促している。もはや生活にとって血縁は重要ではない。重要なのは出先の人間関係だ。これが現代の核家族などから起因する問題に繋がることは疑いようないことだ。

加えてこの鉄道の開発により、中央と地方という区分も誕生した。なぜなら国の政治の中心区域に工場が多い。そしてそこに首都が形成される。そして出稼ぎのために首都に人が集まる(もともと首都になった場所には人が多い。そのため工場も多くなる。しかしここに”地方”の人間も集まるので爆発的に人口は増える)という構図だ。これが首都と地方を明確化し、郷愁などという言葉の誕生もこの都市化に起因する。そして古代で問題となっていた国の統治も情報の素早い伝達が可能になったため強固なものとなっていった。これは日本の治安維持法などを見れば明らかだろう。ほんの数百年前では幕藩体制が関の山だったというのに大きな進歩である。

そうして赤の他人が集まる都市では問題が多発する。ムラ社会では考えられなかったような問題も赤の他人になるとそう上手くはいかないという訳だ。ここで誕生したのが社会問題、都市問題と呼ばれるものである。そしてここで赤の他人が集まることで格差の是正を訴えられるようになる。これが現代のリベラルに繋がる。(個人的にはフランス革命で言われた平等よりもここで都市化により人が入り混じり多数のムラの価値観をすり合わせ、資本主義によって生じた格差に嫌悪した低中流の多数が唱えていた平等がリベラルへとつながっていると感じる。)

この点において産業革命の前後では明らかに世界が違う。しかしエントロピーは大海に注ぐ河川のように一連に増大している。そのため過去の習慣、思考は湯水のように我々の血を流れ、淘汰は未だにされていないのだ。

また前章に付随してこの産業革命後の社会、ひいては資本主義社会なのだが、これは大量消費を促す。完全競争の中で生きる我々は圧倒的な物量、サービスの中で生きている。実際前近代までの問題であった、飢饉、病、戦争を人間は克服した。(飢饉は無くなっていないが飽食による死者は飢饉で死ぬ人数よりも多い。病も未だ人間は苦しめられるが、前近代とは対処にしてもそもそもの罹患からの回復者は前近代と比較すれば異常なほどである。そもそも都市の形成は衛生から始まっている。戦争においてもなくなっていない。が戦争は高度化し情報戦争へ移行している。しかし中東、アフリカで起きている戦争、内戦は大国に原因があり、ほとんどが大国の代理戦争である。その点において欧米から見た世界平和という意味であるかもしれない。)

この社会こそ前章の最後に出てきた安寧である。

高度情報化した結末

我々を生きる現代ではSNS、インターネットの発達により情報過多の時代となっている。そのため個人情報は以前よりも駄々洩れる。そして同時にプライバシーが叫ばれるのもこの情報化社会による産物だ。(前章の近代化に伴う個人主義というのが根底に存在するが)

ところで皆さんはパノプティコンを知っているだろうか。これはイギリスの哲学者、ベンサムが考案した高機能型刑務所である。この刑務所では中央に塔を置き、此処に刑務官を置く、そして収容所はこの塔の周りに円状に配置する。こうすることで刑務官は塔から一目で監視することが出来る。そしてここで重要となるのが塔の中に刑務官がいるかどうかは外からは確認できないようにするということだ。これにより塔の中に刑務官がいなくとも収容人は、そこに刑務官がいるかどうかは判断できないため、架空の刑務官に怯えるという結果になる。これがパノプティコンであり、経費の面から見ても高機能である。

翻って現代はどうだろう。SNSの発展や、町の至る所に存在する監視カメラは我々の生活を相互的に、また行政による監視することになる。これが現代のパノプティコンである。こういった意味で我々は無意識の内に抑圧される。

一方でSNS(掲示板)の発展は匿名性の進化が起こる。先ほどまでのSNSによるパノプティコンはあくまで自分という存在をSNS上に出している場合である。しかしSNSには自分でない自分、虚像を作り出すことが出来てしまう。厄介なのがこの虚像である。人という存在は自身に責任がなければ、また自分という存在が匿名になれば、途端におよそ人間とは思えない行為をいとも容易く行い、攻撃的になってしまう。この時パノプティコンの下には晒されない。なぜならここで攻撃的になっている人物は”自分”ではなくあくまでも虚像なのだ。そこに自身の責任は介在していない。

これは余談だが、よく都会の人間は冷たいという話をよく聞く。これは少し違うといわせてほしい。都会の人間だから冷たいのではない、都会は人が多いので冷たいのだ。先ほども言ったように責任が薄れれば、人は行動しない。「誰かがやるだろう」という思考になる。これが実際に悲劇を起こした。(キティ・ジェノヴァーズ事件である。これを基にラタネは傍観者効果を唱えた。)一方田舎ではそもそも人がいないため自分が助けなければ、この人は困ってしまうことになると考える。基本的に人は他人を困らせたくない生き物だ。となれば行動するという原理になる。

ここで本筋に戻すが、やはりここでも匿名性と超監視社会の中に我々は介在することとなる。ここでのジレンマはとても大きく我々はまるで二つの人格を持つかのように日々、現実とネットを行き来する。

近代以降いや、現代では複雑に絡まりあう二律背反が生活を律しているのだ。そしてインターネットの発達はそこここで抑圧と解放を繰り返しながら社会の安寧と混沌の狭間へ追いやっているのだ。

ここでまた余談となるのだが、インターネット社会においてデマの流布が問題となっている。そもそもデマとは古代ギリシアのデマゴーゴスと呼ばれた大衆政治家のことだ。そもそも古代ギリシャは王政、貴族政、民政のどれも経験している。流れとしては王政→貴族政→民政となっている。この民政はサラミスの海戦で無産市民の活躍により認められた。女性の参政権奪取もそうだがいつも権利は戦争と共に認められるというのは皮肉である。ともあれこの民政に貴族は当然良くは思わない。そのためデマゴーゴス達が演説の中で誇大に述べた事項などをデマと称して貶していた。これが現在のデマに繋がる。(現代のデマというのは完全な荒唐無稽の中傷である。)

このデマというのは大きな力を持つ。世界史における大きな問題などもデマを介したものが少なくない。現代でもアメリカ大統領選でヒラリーに起きた悲劇を見ても明らかだろう。またSNSの発達はこのデマもより簡単に、より広がりやすいという側面を齎してしまった。

この高度社会では近代化においた大量消費が情報の面でも起こった。現代では至る所で情報が大量に消費、生産されている。そして情報の物流も有り得ないほどの速度を誇る。

人は無知(無知を自覚していない場合も多いが)を恐れる。この点では高度情報化はある意味で安寧を齎している可能性はある。

現代で生きる人間

僕らは過去を糧に今を生きている。これは変えることは出来ない。世の中にはこの世界は3分前に出来ていて、今までの歴史は一瞬で作り出されたものであるという主張やこの世界は仮想現実であるという主張がある。これらは明確とまではいかなくても根拠があるそうだ。僕もこれらは面白い主張であるし、「そんなことはない」と突っ撥ねることはしない。しかし仮にこれが真実だとしても、僕らの言う過去が変わるわけではない。もし変わっていたといても僕らは気付くことは出来ないだろう。だからこれらの主張は面白いが、真偽がわかったところで何も変わらないというのが結論となってしまう。となればやはり僕らは過去の塵の山の上を占拠し、新たな塵を生み出し続けているのだ。

ここまでの章で言うように人間は相反を持つ。そしてこの相反に対し、多くの人間は見て見ぬふりをしているのではないか。臭い物に蓋をするをするというのは実に合理的であるが、果たしてそれは根本的な解決に成りえるのか。ただ汚いもの、理解しえないものを見ないようにしているだけである。

実際今日の教育ではこれが日常茶飯事である。上澄みの薄い正義や常識を何も疑うことなく子どもに擦り付ける。そして清濁が入り混じる混沌の世の中に投棄するのだ。そこで子どもは今まで学んだ薄い正義、常識を元に立派な「社会人」を作り出すのだ。

そして超自我の中でムラ社会の規範と個人主義に挟み撃ちされていく。そして人間の性質である人助けを義務感として再発見するのだ。そして抑圧に対してバルーンのようなイドは爆発する。その舞台となったのがインターネットであった。ただそれだけのことだ。

そもそも人間とは何かここで問い直す。僕はこの問いに自身を人間と考えるものであるという答えを出す。人間だと自覚すれば人間に相違ない。人間を人間足らしめる要素はこの自覚であるだろう。

ここである例を出すが昔狼に育てられた子どもがいたそうだ。彼女たちは結果どうなったか、狼の習性から抜け出せず、人間社会に馴染めず亡くなったそうだ。社会を形成出来なかった彼女達は本当に人間だったのか?(修道院の方とはそれなりの関係は築けたようだが、犬も飼い主と関係を築けるとするならばこの関係は人間的な関係であったかは分からない)それは生物学上では人間だろう。しかしこの世界は生物学がすべてではない。性別などが顕著だろう。身体は生物学的には男だが、性自認は女性だということはある。これを女性と認めないのか。そんなことはないだろう(認めない人物もいるがここでは彼らを時代遅れと称す。)それに男女(男女の二元論は好まないがここではこう称する。)の要素も掛け合わす身体を持つ方々もいる。これは如何に生物学単体では一つの事象を考えるのに非力であるかがわかる。

つまり彼女達は人間の身体を持った狼だったのではないか。これは僕個人の意見だが、そうとしか思えない。

ここで本題に戻るが現代を生きる上でこうした葛藤(ここまで述べた相反する事象)から目を背けてはいけない。物事には功罪があるのだ。これはムラ社会にも個人主義にもパノプティコンにおいても匿名性においても利己的にも利他的思想においても、そして各々の思想においてもだ。絶対的な正解などというものはそれこそ「神」にしか分からない。

しかしどうだろう我々は過去の遺産を食い潰し安寧に胡坐をかいていないだろうか。そして臭い物に蓋をして、目のつかない所に置き去っているのだ。

そして人間という存在は自然界では異端であるという意識が必要である。僕らは自然の一部であり、ある面では自然から少し食み出していると感じている。僕らはこれらを知った上で、この世界で積極的に汚いものを見なければならない。そして反省と改善を繰り返す。これは多くの人間がしていると感じているだろうが、これは反省ではなく振り返っただけだ。実際世の中過去の繰り返し、オマージュだらけではないだろうか。そして上辺だけは進化を続ける。

そして新たに問題をどんどん生み出し、過去の問題は過去の物としている。過去から現在は続いているというのに。そして相反する世の中に漠然と立って本能的に対処するしかできない。僕らは全員反省と分析をしなければならないと感じている。これが出来なければ人類はこの先自らの手で破滅に至るのではないだろうか。僕はそう感じてならない。

最後に

これはあくまでも一個人の思想です。

ここまでの主張や知識などは本当に正しいかは分からないです。(これを書く上で必要な知識の出処は一応わかるものだけ出典として出します。)簡単に言えば僕がいろんなものを見聞きして思ったことをまとめただけに過ぎないので、おかしいところなどがあれば教授して頂けると幸いです。(つまり絶対的な証拠はありません。)

あと決めつけみたいなことをしていますがインパクトを重視したので正直そこまで思ってるわけではないです。(自分は無知なので。)

そしてなんか支離滅裂な感じもしますが、それは書いてる途中で結論を変えようと思ったからです。元々は人間とは何かという結論にするつもりでしたが、書いてる間に、現代の社会は本当の意味で歴史や人間とは何かというのを顧みることなくただこういったことには見ないふりをしているのではないかと感じたので(まあ、僕も人の事を言えませんが)こういった結論にしました。なので文章として綺麗ではないですが、僕か感じる重要な要素だけは書いたつもりです。なのでそこを上手く拾っていただけるとありがたいです。

参考資料(書き方は簡略にさせて頂きます)

図解心理学用語大全 人物と用語でたどる心の学問
監修 齋藤勇 編著 田中正人

友情化する社会 断片化のなかの新たな〈つながり〉 
デボラ・チャンバース著

世界史を動かしたフェイクニュース 
宮崎正勝著

教養としての世界史の読み方 
本村凌二著

正義の教室 善く生きるための哲学入門 
飲茶著

世界最先端の研究が教えるすごい心理学 
内藤誼人著

利己的な遺伝子とは何か 
ヨビノリ


などなど(すみません。あといっぱいあるのですが思い出せないです。)

+自分が考えた事とか教えてもらったこと

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