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亡霊の町

「あーちょっと明日の朝用の卵ないみたい。ちょっとそこまで買ってくるね」
彼女は僕の許嫁というか婚約者だ。今は結婚を前にして同居している。そんな彼女がこんな夜中に買い物に行くという。今は何時だ?ー時計の短針は10を少し過ぎたところにその身を置いていたー

「こんな夜だし、ついていこうか?」僕がそうやって返しても彼女は
「いいよ。すぐだし」と言って、財布を持ったと同時に家から出ていた。僕は少し不安に駆られたような心意気がしたがその不安も空前の灯のように消え去り、あとの煙が僕を孤独という不快感に苛ませた。

その夜、菅原道真公がかつて大宰府左遷になった後に、残り香から郷里の名残を補完したように、僕は待てども待てども帰ってこない彼女をただ残り香を彼女の映像に変え眠りについた。

その夜はとても不快な夢をみた、しかしその夢は起きると奇妙な差異だけを残し秋の郷愁のように消えた。

それから数年が経ち、僕は一人この町に漂っていた。しかし以前とは打って変わっているわけでもなく、何も変わらない。人間の幸福度というのは一定なものだし、記憶など曖昧なものであるからそれでいいのだが、最近は僕が彼女を愛していなかったのではないかとまで思うようになった。確かにその時は愛してたと思っていたが、所詮それはただの演技でしかなく、結婚という目的のための欺瞞だったのかもしれない。あるいは子孫繁栄という動物としての本能から来るまやかしに過ぎないのかもしれない。

人間というのは合理的な判断と不合理的な判断を彷徨い続け、いづれどちらかの解を出す。それが僕は合理的なだけだったのだ。あの夜も結局彼女の意向に従ったのもそのためであろう。あるいは愛していなかったのか。

夜の繁華街の風は生温く、僕の頬を撫でるかつての女性の肌がすぐそこにあるようだった。だからこんな時にもなって感傷に触れるような心意気になったのか。

結局彼女はどこに行ったのか、僕は何も知らない。知ろうともしない。真実というのは知ろうとしなければ、冥界に佇む目のない深海魚でしかないのだ。観測することはできないのだ。死んだのか、浮気をしたのか、僕に嫌気がさしたのか。そんなことを知りたくもない。知ったところで今ではどうにもすることはできない。

ふと顔を上げるとネオンの下に一瞬冥界を写すかのような翳が視界に反射された。これは走馬灯のように、明順応のように僕にその実態を見せつけた。

その影は失踪した彼女自身であった。そして隣にいたのはかつての僕自身であった。刹那、僕にはある非道な考えが宿った。彼女は他人の空似を追っていたのだ。憎悪は鬼を呼び、僕に理性の鉄鋼を破ることを許可した。そして僕はかつての家に赴くと今まで隠し持っていた合鍵をそのノブの中に差し込み、その身を部屋に押し込んだ。しかし同時に僕の邪な考えは、理性の清流に押し流され、濁った思考が洗われたことによって僕は躊躇した。その後引くに引けない僕はまるで子どもが自分の存在証明を行うために、そして悪戯心を満たすかの如く冷蔵庫の中の卵を持ち出した。

そしてその後、彼女が家を出て、卵を買うべく向かうべき方角には向かわなかった光景を目撃した。そして家に戻るとかつての自分の命の鼓動はリズムを刻んでいなかった。

僕はその光景を映画のエンドロールを眺める心地でぼんやりと眺めていが、ふとした拍子にある真実に辿り着いた。かつて僕は死んだのだ。彼女に殺されたのだ。愛がなかったのは彼女の方であり、今の僕は神からの恩赦であり、傀儡なのだ。

それに気づいた瞬間僕は意識が朦朧とし、気分は酩酊状態に陥った。そして僕はその場所から忽然と姿を消し、意識もその瞬間失っていた。

そして起きるとあてもなくまた夜の繁華街を歩いていた。彼女が失踪したというあの日の事実だけ持って。やはり真実というのは知らない方がいいものだってあるのだ。

男はまた同じ道を辿っている。分岐というのは目の前に現れるものではないという残酷さから目を背けて。


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