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『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という【美】について

いろいろあって、タイトルと「手紙の代筆をする綺麗な京アニ作品」という少なすぎる情報のみでこの作品に手を出してみた。
そしたら自分にとって好みすぎる題材、ビジュアル、音楽…興奮のあまり、テキストにせざるを得ないので、書いてみる。

劇場版を見ようという話になったので、それならば先ずは1クールなら1日で余裕だよね、とNetflixでテレビシリーズを見始め、その日のうちに外伝まで見終えた。


噂通りの美しすぎる映像。あんまり綺麗だから開始2分で涙がこぼれ落ちた。
「こんな映像を毎週?」
信じられない。アニメをほとんど見なくなっていた10年が悔やまれるくらいだなと思った。

このアニメに関する前情報は前述の通り、「タイトル」と、それから「挿入歌」と、「実写のような映像美」でなかでも「絵画のモチーフ」がある、ということだけ。

さっそく音楽が耳に滑り込んでくる。
音楽だけでなく、衣擦れの音、義手の金属の擦れる音、そして響き。
テレビアニメってここまでしたっけ…?と、驚いた。
今はこれが主流なのか?いやまさか…。
美しいのは視覚情報だけでなく、完璧なほどに設計されたサウンドデザインもそうだった。

そしてなにより、ただただ画面が美しい。
印象派の絵画の中にいるような。あまりに美しくてため息が出る。
ただそれだけではない、その絵画は動く。
「アニメーションでタイムラプス!?」
その時間の表現に大混乱を起こした。
タイムラプスが時が経過することの儚さを映す。

星空のシーンや、雪のシーンなんかは「どうやって作るんだろう」と作業工程が気になる始末。
思わず一時停止してRetina 4Kのモニターに顔を近づけた。
水面に浮かんだ落ち葉のリアリティは2019年版の『ライオンキング』のような現実を埋め込んだリアリティというよりは、アニメーションとして”絵の世界”にふさわしいリアリティだった。
つまり、アニメーションの中で”リアル”が浮いていない。リアルな絵のままでいてくれている。

京アニらしい細やかさで言及を忘れたくないのは、
可愛い自動書記人形さんたちの衣装。この絵画の世界の相応わしい衣装。
しかも当然記号的な描き方はしない。ちゃんとプリーツはプリーツらしく一枚の布についた折り目だし、裏地に覗く刺繍だって忘れない。
こういうのを詳しい人がもっと言及してくれそうだ。
京アニ流石です!と拍手を送るしかない。

もう私の中では、これは実写よりも”美しい映像”であることは明白だった。
現実なんかよりもうんと美しい。
印象画を書いた画家たちは、きっとその目に映った世界の美しさを、自身が感じたままの「美しさ」をその通りに表現したかった。
それが「印象画」だったはずだ。
それを、アニメーションでやっている。


実写映画を実物を使わないで撮っている、ともいえる。
外伝の女学校の廊下のシーンなんかは、劇場作品だけあって音の響かせ方がより一層細やかだ。
音のリバーブのかかり方が石造りの建物に響く冷たい響きで、背景と相まってそこに本物の建物が存在している。
私は映画『ショコラ(2000)』を思い出した。それから階段をすすむ様子なんかはドラマシリーズ『名探偵ポワロ(1989)』を思い出した。

よく考えたら、モチーフがモチーフなだけに『タイピスト!(2012)』の雰囲気もある。あの映画はコメディタッチだったけれど、映る景色や空気感が近い気がした。

天文台の標高の高い雪山のイメージは『グランド・ブダペスト・ホテル(2013)』とかでも感じた、ちょっとそわそわしてしまう雰囲気。
『サウンド・オブ・ミュージック(1965)』も思い出す。

テレビシリーズ全話・外伝と見ているだけで、自分の中にあるどこかで出会った何かと同じ体感がビシビシ入ってくる。
これは「現実だ」と思わせてくる根拠はここにある。
現実(実写映画)で得た体感と、同じ体感を得ることができるのだ。

そして、まちにまった「日傘をさす女」のシーン。
ヴァイオレットがパラソルを持って振り返る。
劇作家は、モネが描いた日常風景のようなそのワンシーンに、自分の失ってしまった大切な日常を重ねる。
彼が描く物語が『オズの魔法使い』のような、王道の冒険ファンタジーなのもまた素敵だ。

このシーンだけでなく、彼女が訪れる各地はそれぞれモチーフの絵が存在するはずだ。(そうでしょう?)
きっと、絵画をもっと勉強していたら、もっともっと面白いんだろう。
大学の講義を居眠りしたことを後悔している。


登場するモチーフや、ストーリーには「王道」「伝統」のように、時間の経過などのようにどうしようもなく変化するものの一方で、その時間が積み重ねてきたものが浮かび上がるようにできている。
これらのエッセンスが抽出されて、精油になって、作品のまとう香りになっている様に感じる。

この作品のことを一言で感想を述べるなら
「美しい」を描く作品なんじゃないか。
といったところかと思っている。

不思議なことに、作中「美しい」という言葉は、エメラルドのブローチに対して以外使われていない気がする。
私の記憶違いだろうか…。他のシーンでは一切耳に入ってこなかった。
エメラルドのブローチは、常に煌めく瞳の様に描かれる。

個人的には「美しい」は「愛してる」と同義語だ。

美しいものは愛おしく、尊い。
アフロディーテが愛と美の両方を司る様に、どちらも同じものの様に感じる。どちらにも「ときめき」を感じる。

ヴァイオレットはエメラルドのブローチを見て「少佐の目がある」と言う。
戦闘以外を知らない彼女は、その(少佐の)目のことを「美しい」と言うのだと知る。

兵器である彼女が、戦場以外に最も多くの時間見つめているのは主人であるその人の目だ。
その人の目で見るものが、彼女の世界だ。
少佐の目は彼女にとって世界を見ることのできる窓であり、少佐は彼女の世界そのものだ。
その兵器である彼女にとっての世界の軸…中心…全ての発端のことを、「美しい」と言うらしい。彼女はそう知る。

そうして後に「その目は、初めて見たときから美しかった」と言う。
ヴァイオレットは少佐に対して抱いていたものをストレートに表現したことになる。
彼女は少佐が「愛してる」と言うより先に、少佐へ「美しい」と言ったのだ。
いつもまっすぐに見つめている彼の目に向かって。

ヴァイオレットは「人の心を亡くしてしまった少女」というよりかは、もともと人の心を与えられていない人形だ。
兵器として人形である。
根本的に、人の心など知らない。自分が少佐に抱いているものが何なのかも知る由もない。

だから「わからないのです」と言うしかない。
少佐に目線に立ってみれば、自分の命令を待ち、忠実に実行するだけの少女は心が痛んで仕方ないだろう。
彼女にしてみれば、そうすることでしか自分は存在できないし、存在の仕方を知らない。でもそれで少佐を苦しませているという現実に混乱している、戸惑っている。
だから、「わからないのです。」

私が存在するのは、世界があるからだ。
その世界はあなたが創っているというのに、なぜあなたの中に…あなたの存在の延長に私が存在することを、あなたはそんなに苦しんでいるのですか。

そして彼女は「世界」を失う羽目になる。
彼が残した「愛してる」という言葉を抱きしめて生きる。
ただ、今自分が抱きしめている「愛してる」と言う言葉が何なのかわからない。
家族愛だとか、恋人同士のそれだとか、そんなことの前に、そもそも「愛してる」という言葉の存在がわからない。
「美しい」を「知りませんでした。”きれい”と同じですか?」と言っていた様に。知らないし、類似するものもわからない。
自分が存在するための根源が、消え去るとき唯一残してくれた「愛してる」と言う言葉。
いまはただ、その言葉の上にだけ立っていられる。だからこそ、彼女はその意味を知りたいと思ったんじゃないか。

そうして彼女は「また別の人形」になった。
代筆を通して、人の心を投影する存在。本当に理にかなった呼び方だと思うし、ドールの仕事は、女性ならではの仕事だと思う。
感受性の豊かさと、想像力で愛を伝える、というのは生き物の中でも”female”女性性がもつ特性と言える。


劇場版においては、明言されるわけだけれども、
少佐の言う「愛してる」が家族愛か恋愛かというのは、この作品において無粋な話しなんじゃないかと思った。そんな特定の感情の話をしているわけではないと思うからだ。

大切に思う心だったり、いつくしみだったり、形を変えていく「目に見えない水」。まさにあの恋文の歌だ。
ここで語られている「愛」は感情の愛ではない。もっと生命エネルギーに近い様なものに思えた。
だからその残されたエネルギーを原動力にして、その人形は動いていた。

愛は美しいのだ。だからやっぱりこの作品は「美」を司っている。


そしてもちろん「手紙」—というか「言葉」の美しさも凄まじい。

心地よいタイプライターの音が紡いでいく言葉たち。
(ちゃんとSEとしてだけでなく、BGMにも盛り込まれているところとかも最高)
綴られる手紙だけでなく、モノローグとして用意された言葉も美しい。

生まれて初めて、モノローグを聞き入ったかもしれない。
声優さんの聞かせる技術も、聴かせる映像も。全てが互いを目一杯に活かす。
間違いない、全てが「美しい」と言う言葉に帰結する。


こんなに美を感じて、こころがときめき、奮える作品は今まで出会えていただろうか。
作画が美しい、音楽が美しい、ストーリーが、描写が、ひとつひとつならあっただろうけれど、全てが自分のこころにときめきを、ずっとティンカーベルの妖精の粉みたいにきらきらふりかけてくれる作品は生まれて初めてだった。
幸福すぎる。

そして、その幸福さいっぱいのままに、劇場へ足を運ぶ。


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