どのみち、自由なのだ。と。
4年前(2019年)の4月、私はこんなことを書いている。
「スピリチュアルなことと縁をきるってどういうこと?それって私にはこの世の全てが無意味になることじゃないの?」
どんなに高次のご存在が私の魂のあり方を喜ぼうとも、それは現実の幸せを与えてくれるとは限らない。
自分のこころを磨こうとすればするほどに、「大好き!一緒に居たい!」と想う人と歩む道は誤りだと言われて、
それまで何年も学び、向き合うことを辞めなかった仕打ちがこれかと、割と投げやりになっていたんだと思う。
ただこの時のこの方向転換が、今改めて人生をかけて問い続けようとしている「スピリチュアルとは何か——生きるとは何か」への舵取りだったと思う。
4年前のその言葉が、実際どういうシチュエーションとどういう答えをもっていたのかは思い出せない。
けれど今の私はこの言葉に、こう答えた。
「もし4年前の私が言う『スピリチュアル』と縁を切っても、私は自分の生き方は変えられないから、スピリチュアルなままだったと思う」
あの時、辟易したのは『スピリチュアル』という枠であって、実際にスピリチュアルに生きること自体ではなかった。
スピリチュアルとは、ただ”その人”らしく生きることそのもののことだから。
「この苦しい出来事は、きっと魂には良い学びで、実りあるものになるはず」
と、"感じたこと自体"にはフォーカスを当てないできてしまった。
苦しいとか、辛いとか痛いとか、楽しいとか。そういうのはただの「私の感想」で、それ自体は大した意味はないのだと、切り捨ててしまった。
世界にとっては、ワンネスの全域で見れば、俯瞰すれば、それほど瑣末なことはない。
そうして気づけば「苦しいわたし」は存在を許されなくなっていく。
私はわたしの一部を存在させるわけにいかなくなり始める。
——私はわたしを存在させるわけにはいかない。と。
スピリチュアルに世界を見ようとする時に、私は誤って自分で自分を殺してしまった。一体何人の"わたし"を切り捨てたんだろう。
実際のところ、『スピリチュアル』とは縁を切った方がスピリチュアルに生きられたんじゃないかとさえ思えてくる。
#旅の準備
気がついたのであれば、ここからをどのような旅路にするか「自由」だ。happy;)
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