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罪人達の船 第十章

罪人達の船 第一章
罪人達の船 第九章

 「今が最悪の状態」と言える間は、まだ最悪の状態ではない。
  シェークスピア

 ニコラスが唐突に言った言葉に皆は驚きを隠せなかった。たった今トーマスに襲われたと言って証拠だという人狼の毛を持っているペーターに対して、ニコラスはもう一度こう言った。
「その少年は、嘘をついている……」
 一体、何を証拠にそんな事を言っているのだろう。ペーターは指をさされたことにも怯まず、ニコラスの顔をキッと睨む。
「どうして僕が嘘つきだって言うの? 僕はトーマスさんに襲われたから、皆にそう言っただけだよ。なのに、何でそれが嘘だって言えるの?」
「私は真実を言っただけだ。トーマスは人狼などではない」
 その言葉に皆がざわついた。
 ペーターは、トーマスが人狼だったと言っている。
 ニコラスは、トーマスは人狼ではないと言っている。
 だが、そのどちらの言葉が真実かは全く分からない。この二人のどちらかが人狼なのか、それともこの二人のどちらとも人狼ではないのか。もしかしたら二人とも人狼なのか。
「二人に聞こう。今まで死んだ者が人狼かどうか、二人には分かっているのか?」
 ヴァルターが狼狽するように椅子に座り、深い溜息をつく。皆の間に戸惑い混じりの沈黙が流れる。やがてニコラスが重苦しく口を開いた。
「残念だが、今まで処刑した者の中に人狼はいない。人狼はまだこの中に残っている」
 ガタン! と大きな音がして、力が抜けたようにカタリナが床に座り込んだ。パメラとレジーナが、真っ青な顔をしたカタリナを一生懸命抱き留める。
「そんな、ニコラスの言うことが正しいなら、僕たちは人狼だと思って罪のない人を殺したって言うのか?」
 ヨアヒムも俯いていた。ジムゾンは十字を切り強く指を組み、ディーターは沈痛な面持ちで煙草に火を付け、ペーターの方を見た。
「ペーター、お前はどうなんだ?」
 ニコラスはペーターの言葉を待った。その中にきっと人狼を庇う言葉が出てくるだろう。ペーターが人狼であれ、人狼に協力する者であれ、嘘を言わなければ今の状況を打破できないはずだ。だがペーターはこう言っただけだった。
「そんな事分からないよ。僕はトーマスさんに襲われたからトーマスさんが人狼だって分かったけど、今まで処刑されたアルビンさんやフリーデルさんが人狼かどうかは分からない。それより、どうしてニコラスにはそんな事が分かるの?」
 ……この少年は危険だ!
 ニコラスはペーターを見てそう思っていた。最低限の嘘しかつかず、決して考えを表に見せようとはしない。自分は今迂闊に「今まで処刑した中に人狼はいない」と言ってしまったが、ペーターが人狼でなければ「分からない」というのは真実なのだ。これで、もしペーターを処刑することになったとして、ペーターが人間であれば次の処刑は自分だろう。
 そう思うとニコラスは、ペーターの狡猾さに冷や汗が出た。しかも自分は隠れている人狼達に本当のことを言ってしまった。これは圧倒的なミスだ。
 ディーターやジムゾンが静かに見守る中、リーザから囁きが届く。
『ニコラスさんの目のこと、皆に言った方がいい?』
 それを聞き、ディーターは考えた。
 今この場で堂々としているペーターと、自分の力についてはっきりと言い出せないニコラスを早急に処刑するという話はおそらく出ないだろう。だったら、ニコラスには生きていてもらわなければならない。まだ村人が多すぎる。
『まだだ。俺がいいって言うまで言うな』
『何か、名案があるのですか?』
 ジムゾンは指を強く組んだまま俯いている。ディーターがトーマスに殺されなかったのは良かったが、今度はそのディーターを助けたペーターが危機に陥っている。だが、そう思っているのを察したのか、ディーターがそっとジムゾンの肩に手を置いた。
『まあ全員の話が出るのを待て。焦ったって成果は出ねぇし、お前等が心配するより、ペーターの方が一枚も二枚も上手だ』
 宿の中に沈黙が流れた。
 カタリナはパメラ達に支えられながら、何とか椅子に座りニコラスを見る。
「まだ私達は人狼を退治できてない。だとしたら、いったい誰が人狼なの? ペーター、貴方が人狼なの?」
「………」
 ニコラスが沈黙していると、ヨアヒムがそれに反論する。
「ちょっと待って。ゲルトが殺された次の日にモーリッツが亡くなってから、僕はペーターとずっと一緒にいた。だけど、ペーターが夜に何処かに出かけたことはないよ。二人で同じベッドに寝てたから起きれば気付くし」
「でも、もしヨアヒムとペーターが、二人とも人狼だったら……」
 パメラはそう呟いて、首を横にぶんぶんと振った。モーリッツが、自分の命を賭けてまで守ろうとしたペーターが人狼だとは思えないし、何よりヨアヒムを疑いたくない。ふと目を落とすと、胸元には月長石がはまったペンダントが見える。
「そんなはずないわよね。ヨアヒムが人狼なわけないわ」
 だが、だとしたらこの中の一体誰が。そう思っているとペーターがこう呟いた。
「じゃあ、今日は僕を処刑したらいいよ。ニコラスはそうしたいんでしょ?」
「ペーター!」
 レジーナは大声でその言葉を遮る。まだ八歳のペーターに、自分を処刑していいなどと言わせてしまうとは。ペーターだって恐ろしいはずなのに、大人達の話を聞き一生懸命着いていこうとしているのだろう。ペーターの隣ではリーザが目に涙を溜めている。
「ペーター、そんな事言っちゃダメ。ペーターがいなくなったら、リーザ誰と遊べばいいの?」
 その言葉を聞き、ぐすっとペーターも鼻をすすった。
「僕だって死にたくない。でもニコラスが僕のことを嘘つきだって言うのなら、そうするしか思いつかないんだもん。ニコラスは、死んだ人が人狼かどうか分かるって言うんでしょ? 僕が処刑されたら、僕が人狼じゃないって事も分かるよ」
 その様子を見ながら、ジムゾンがそっと提案をする。
 今日はニコラスを生かしておいた方がいいだろう。ニコラスが嘘をついているようには見えないし、トーマスが死んだばかりで次の処刑を考えるには心許ない。今ならペーターを助けることが出来る。
「どちらが嘘をついているかはひとまず置いといて、いきなり今日処刑というのはやめにしませんか? 私にはどちらが嘘をついているか分からないのです。今どちらを処刑しても、私達の中には疑いが残ってしまうでしょうから」
「そうね、神父様の言う通りだわ。何か食べてちょっと落ち着きましょう、ね?」

 パメラとレジーナが作った簡単な軽食を食べ、皆は重々しい空気の中フロアに集っていた。この中にまだ人狼がいるのかも知れないと思うと、一人で行動するのは恐ろしい。
 ニコラスは、その様子を見て悩んでいた。
「正体を言ってしまうべきか」
 自分がオッドアイの持ち主だと言うことをあかし、それで霊を見ることが出来る霊能者であると。それを信じてもらえれば、ペーターが嘘をついていることも明らかになる。
 だがそれを考えると、前に人狼騒ぎに巻き込まれたときのことが脳裏をよぎるのだ。
 青と赤の異なった瞳は、人狼と同じぐらい村人にとっては異端だ。果たしてこの村の皆が、それを受け入れてくれるだろうか。
 ふとリーザの方を見ると、その後ろにリーザの母親の霊がそっと立っているのが見えた。まだ想いを残しているのか、その表情は慈愛に満ちている。
「………」
 まだだ、まだ今は言えない。
 今ここで言ってしまえば、ペーターにそれを逆手に取られる。子供だと思っていたが、ペーターは下手をするとこの村の誰よりも狡猾で頭がいい。自分の正体を明かすことは、更に隙を与えるだけだ。
 だが、そのうち言わなければならないだろう。
 これ以上人狼に誰も襲わせないために。

 パメラと一緒に食器を片づけながら、ヨアヒムは今日誰を守るかについて考えていた。
 ペーターは多分人狼ではない。ペーターが人狼であれば、モーリッツが死んだ後あんなに無防備に迎え入れた自分はいい餌食だろう。自分を襲えば怪しまれるとしても、ペーターが自分と一緒にいた間は夜中に出て行くことはなかった。そんな事をすれば、村の守護者である自分が気付かないはずがない。
 だがヨアヒムからは、ニコラスが嘘をついているようにも見えなかった。アルビンが処刑されたときにもオットーと共に遺品を分けたりしているのを見ていたし、フリーデルの嘘のこともはっきりと証言した。
 もし自分が人狼だったら、今日はどちらを襲うだろう。そう考えるとニコラスの方が厄介なような気がする。ニコラスの言うことが本当なら、人狼が退治出来ていないという言葉は嫌なはずだ。それがもし嘘でニコラスが人狼であれば、危ないのはペーターの方なのだが。
「今日はニコラスを守ろう」
 そうしているうちに無意識に厳しい顔つきになっていたのか、パメラがヨアヒムの顔を見てこう言った。
「どうしたのヨアヒム。何か怖い顔」
 その言葉に慌てて笑顔を作りながら、ヨアヒムは軽く溜息をつく。
「ごめん、何か考え事してたら真剣な顔になったんだ。早くこんな事が終わればいいのにね」
 食器を拭くヨアヒムに、パメラが溜息をついた。
「そうね、ヨアヒムも銀細工作ってないと、腕がなまっちゃうわね」
 今まで平凡だと思っていた暮らしが、どれだけ幸せだったのか。
 毎日変わらない日々が、どれだけかけがえのないものだったのか。
 そう思うと胸が詰まって涙ぐみそうになるが、それを一生懸命こらえてパメラはヨアヒムに向かって笑う。その強がりをヨアヒムもよく分かっていた。
「そうだね。こんなことが終わったら……」
 一緒に、街で暮らさないか。
 その言葉をヨアヒムは飲み込んだ。もしかしたら、明日人狼の牙に倒れるのは自分かも知れない。出来ない約束はしない方がいいし、その事でパメラを悲しませたくはない。
「終わったら?」
「また、皆で仲良く暮らせるようになるといいね」
 本当に言いたかった言葉をごまかし、ヨアヒムは無言で食器を拭き続けた。

「じゃあ今日も、この宿で一晩過ごすということでいいか?」
 ヴァルターの言葉に、誰も反論はしなかった。流石に、昨日のように全員起きたまま集うということはしないまでも、ここにいれば人狼が動いたとしても分かるだろう。
「ペーターとニコラスのことはどうするんだ?」
 乱暴に煙草を灰皿に押しつけながら、ディーターが言う。どちらかが人狼なのか、それともどちらとも人狼ではないのか。ディーターには正解が分かっているが、そこに触れないのは不自然だ。その言葉を聞き、ヴァルターが天を仰ぐ。
「一晩考えさせてくれないか」
「…………」
 皆無言だった。もうどちらを信じていいか分からない。
 昨日一晩、お互いでお互いを見張りながら起きていようと言ったのは、ニコラス本人なのだ。それが村人を油断させ、全員が寝た後で襲撃するための罠だとしたらそれも納得できる。だがペーターが嘘を言っていたとしても、あの毛はどこから持ってきたのか。ペーターが人狼で、トーマスを襲ったとも考えにくい。
 疑えば疑うほどきりがなく、どんどん精神的に疲労していく。カタリナは特にそれが酷く、ニコラスの「処刑した中に人狼はいない」という言葉を聞いてからほとんど喋ろうとせず、視点の合わない目で何処かを見ながら青い顔をしているだけだ。
「カタリナ、大丈夫?」
 心配そうにパメラが時々声を掛けるが、顔を上げるのはその時だけだった。
「うん、大丈夫よ。大丈夫……」
 婚約者であるオットーが人狼に襲われ、カタリナも限界なのだろう。
 その様子を見てジムゾンは何かを感じていた。
 カタリナの様子は、一時期死にたがっていた自分と全く同じだ。ほとんど誰とも話そうとせず、自分の中で考えが煮詰まっていく。頼れる者もすがる者もおらず、荒野に放り出されたように生かされている。
『今日は、カタリナさんを襲撃しましょう』
 その囁きに、ディーターとリーザは顔を上げずに反応する。
『カタリナお姉ちゃんにするの? 神父様』
『ちょっと待て』
 カタリナを襲撃することに異論はない。そろそろこの惨劇に幕を引かなければならないことも分かっている。ここで襲撃を失敗させることは出来ない。今日の襲撃が終われば、後はいつ狩りが出来るのか分からないのだ。
『ジムゾン、どうしてカタリナ襲撃を言い出した?』
『今日襲撃しなければ、彼女はおそらく自ら死を選びます』
 その言葉に、ディーターはそっとカタリナを見た。パメラの言葉に反応も見せず、青い顔で俯きながら時々小さな声で何かを呟いている。それに意識を集中させると、こんな言葉が聞こえてきた。
「オットー、助けて……」
 それに軽く溜息をつき、ディーターは作戦を考えた。残っている村人はヴァルター、ヨアヒム、ニコラスとペーター、パメラ、カタリナ、レジーナ。その中でペーターとニコラスを残し、終幕へと向けて一気に走り出すとしたら今だろう。フリーデルからの連絡が途絶えれば、異端審問官達はこの村に向かってくるだろうし、その時までのうのうと残っているつもりはない。
『どうするの、ディーターお兄ちゃん』
 ディーターは笑いをこらえるように、奥歯を食いしばった。
 ここで勝負に出ずにどうするのか。物事には必ず流れがある。まだ風は自分達に味方している……失敗を恐れ、安全策を採っている時間はないのだ。
『作戦を言うぞ。これが最後の狩りになるかも知れないから、良く聞いとけ』

 その夜リーザは自分の部屋を抜け出し、母親からもらったブラシのセットを持って、レジーナの部屋を開けた。まだ起きている者がいるのかも知れないが、リーザは足音も立てずレジーナの後ろに立つ。
「レジーナおばちゃん」
「おやリーザ、まだ起きてたのかい?」
 レジーナも眠れなかったようで、ベッドの隣にあるテーブルには酒の入ったグラスが置かれている。リーザはこくんと一つ頷くと、レジーナのベッドの上に上った。
「レジーナおばちゃんの髪の毛梳かせて欲しいの。人狼が出てから、ずっとやってないから」
 それを聞き、レジーナは少し笑ってリーザの頭を撫でた。確かに人狼騒ぎが起こってから髪の毛をゆっくりと梳く暇もなかった。いつもならリーザが眠るまで側にいてやったりもしたのに、そんな事すら忘れていた自分に思わず苦笑する。
「そうだね、久しぶりにやってもらおうか」
 レジーナは無防備にリーザに背中を見せた。その背中を見て、リーザの胸に色々な思い出が蘇ってくる。
 毎日美味しいご飯を作ってくれて、リーザのことをたくさん考えてくれたレジーナおばちゃん。
 ママの代わりになって、優しくしてくれたレジーナおばちゃん。
 でもリーザがついていくのは同じ人狼であるディーターお兄ちゃんや神父様で、レジーナおばちゃんはやっぱりご飯だ。
 ママはきっと帰ってこない。
 リーザは、一人で狩りが出来るようにならなきゃいけない。
「どうしたんだい、リーザ」
「レジーナおばちゃん、ごめんね」
 そう呟くと同時に、リーザはレジーナの喉元に噛みついた。完全に油断していたレジーナの首に鋭い牙が食い込み、ほとんど声も出せずにベッドに倒れ込む。
「ごめんなさい……」
 リーザはディーターから言われた言葉を思い出す。
『リーザ、お前はレジーナを油断させて一人で狩りをしろ。もし俺達とはぐれたとき、一人で狩りが出来なきゃ飢えて死ぬだけだ……今まで暮らしてきたレジーナを喰わないと、お前は一人前の人狼になれない』
 ディーターの言う通りだとリーザは思っていた。
 レジーナとこのまま一緒にいたら、きっとレジーナを食べられなくなってしまう。独りぼっちだったとき、レジーナが寝ているのを見て「美味しそう」と思ったのは本当なのに。
「美味しい。でも、ごめんね……」
 リーザは涙を流しながら、一人レジーナを食べ続けた。

「…………?」
 その頃カタリナもそっと宿を出て、入り口に立ちつくしていた。こんな時だというのに空は澄み切っていて、星がたくさん瞬いている。その傍らでは、モーントが心配そうにカタリナを見上げていた。
「オットー、私どうしたらいいの?」
 ニコラスの言った言葉は、カタリナを愕然とさせるのには充分だった。フリーデルが疑っていたアルビンも、オットーが疑っていたフリーデルも人間だったというのか。だとしたら、自分も人狼と同じように人を殺してしまったことになる。その事実の重さにカタリナは耐えられなかった。
 ペーターやニコラスを処刑すると自分には言えない。もしどちらも人間だったら、それは人狼よりも罪深いことだ。自分が生きるために人を殺す。そんな事が許されていいのだろうか。
 カタリナがずっと考えていたのは、たった一つだった。
「オットー、貴方の元に行きたい」
 きっとこんな事をしたら、オットーに怒られるだろう。でももう耐えられなかった。いっそ人狼が自分を襲ってくれたらいいのに、嘲笑うように残されている。
 その時だった。
「カタリナか……驚いたぜ」
 その言葉にびくっとしながら振り向くと、そこにはディーターが立っていた。ディーターは横にしゃがみ込みながら口から白い息を吐き、小さな声でカタリナに話しかける。
「眠れないのか?」
「え、ええ。そういう訳じゃないのだけど」
 まさか、自殺しようなどと考えてたとは言えない。カタリナが作り笑顔でディーターを見ようとしたときだった。
「…………!」
 自分の隣にいたはずのモーントの首がない。そしてしゃがみ込んでいたディーターの手には、鋭い爪が覗いていた。
「吠えられる前にやっとかないとな」
 ディーターが人狼だったなんて!
 フリーデルを処刑したときの言葉が耳に蘇る。
『地獄に堕ちろ……』
 あれはディーターに対して言った言葉なのか。ディーターはゆっくり立ち上がりながら、カタリナの顔を見て笑う。
「オットーが一人で寂しがってるぜ」
 恐怖で全く声が出ない。先ほどまでオットーの元に行きたいと考えていたのに、今思ったのは全く逆のことだった。死にたくない。死にたくない!
 カタリナは、思わず宿から遠ざかるように走っていた。宿の入り口はディーターに塞がれていたし、中に戻ったとしても、きっとディーターに追いつかれる。
 ディーターが、自分の後ろを走ってくる音が近くに聞こえる。
「助けて、オットー。お願い」
 そう思いながらカタリナは必死で走る。まるで初めて人狼と出会って逃げていたときのようだ。その時はオットーとぶつかって、何とか人狼を退治できた。でも今は夜できっと誰も気付いてない。でもこのままディーターが人狼だと言うことを誰にも知らせずに死にたくない。
「お願い、誰か……」
 カタリナは、ディーターが誘導している場所に逃げていることに、気付いていなかった。宿から遠ざけるように逃げていると見せかけ、実は、あるところにカタリナを追い込んでいたのだ。
「後は、カタリナが気付かないことを祈るだけだ」
 それまでは判断力を失わせるほど恐怖をの与えなければならない。途中で我に返られたら厄介だ。
 そろそろその場所が見えてくる。ディーターは走る速度を緩め、カタリナの背を見つめていた。

「……神父様?」
 カタリナの前に見えたのはジムゾンの姿だった。防寒服を着ていて、走ってくるカタリナに気が付くと、驚いたように目を丸くする。
「どうしたんですか、カタリナさん」
「に、逃げ……」
 慌てて喋ろうとしたために、冷たい空気が喉を刺激する。思わず咳き込むカタリナの背をジムゾンはそっと優しく叩いた。
「大丈夫ですか?」
「神父様、どう……して」
 息を整えるカタリナに、ジムゾンは微笑んで手に持っている本を見せた。そこには『人狼奇譚』と書かれている。
「これが教会にあったのを思い出して、明日にでも皆さんに見せようと思ってこっそり宿から抜け出して取りに行っていたんです。カタリナさんは?」
 ここにいてはいけない。
 カタリナはジムゾンの袖を掴み、逃げるように引っ張った。何とかディーターを撒くことが出来たようだが、ここにいればジムゾンもディーターに襲われる。あの時のように一緒に退治できればいいのだが、そうするにしても時間が必要だ。
「神父様、逃げて」
「えっ?」
「ディーターが、ディーターが人狼なんです。モーントも……」
 そう言ったカタリナの目からは、涙がこぼれていた。ジムゾンはその涙を、いつものように優しく微笑みながら右手でそっと拭う。
「大丈夫ですよ、カタリナさん。安心してください」
「神父様」
 その瞬間だった。ジムゾンの左手から本が落ち、その音にカタリナは思わず下を見る。そして、聞こえてきたのは信じられない言葉だった。
「貴女はここで死ぬのですから、もう怖がる必要はありませんよ」
 首元に鋭い痛みが走る。
 地面に花びらが散るように、赤い物がはらはらと落ちる。
「……えっ?」
 どうして、ジムゾンが人狼だという可能性を思いつかなかったのだろう。カタリナはジムゾンの微笑みを見上げながら、そう思っていた。一番恐ろしいのは、天使のふりをした悪魔なのに。
「さようなら、カタリナさん」
 澄んでいた空はいつの間にか雲に覆われ、小雪がちらつき始めていた。

罪人達の船 第十一章


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