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罪人達の船 第一章

 今日は残酷なことこそ慈悲にして、慈悲深きことはすなわち残酷なり
 カトリーヌ・ド・メディチ

 教会で『聖母マリアの祭日』のミサが終わった後、レジーナが営む宿に「星狩りの村」に住む村人全員が集まり始めていた。
 今日は一年で一番最初の日だ。
 毎年新年には村人がこの宿に集まって、ささやかなパーティーを行うことになっている。今年は年越しで滞在している行商人のアルビン達や、巡礼の途中でこの村に立ち寄ったという修道女のフリーデルもいるのでいつもより賑やかな年明けだ。
 皆が忙しそうに料理を並べたりする中、リーザが嬉しそうに一本の枝が生けられた瓶を持って広間にやってきた。
「見て見て、ディーターお兄ちゃん。クリスマスの前にパメラお姉ちゃん達と取ってきたお花咲いたの」
 確かにその枝の先には小さな白い花が咲いていた。それを見たディーターはグラスを並べながら首をかしげ、皿を持ったままのジムゾンが立ち止まる。
「リンゴの花じゃねぇか。こんな季節に咲くなんて珍しいな」
 瓶に顔を近づけるディーターを見て、ジムゾンはクスッと笑う。
「ディーター、それは聖女バルバラの花占いですよ。十二月四日の記念日に願いを込めてリンゴなどのつぼみがある枝を持ち帰って、一月一日までに咲けば願いが叶うと言われているんです。よく知ってましたね、リーザ」
 ジムゾンがそう言うとリーザは宿の中にワインの入った樽を運んでいるヤコブの方を指さした。ヤコブはその気配に気づいたのか一瞬顔を上げ、リーザが持っている瓶を見て何かに気づいたように微笑む。
「あのね、これヤコブさんが教えてくれたの。それでパメラお姉ちゃんやカタリナお姉ちゃんと一緒に分けてもらったの。お願い事叶うといいな。レジーナおばちゃんにも見せてくるね」
 リーザは花の刺さった瓶をもったまま、パタパタと台所に走っていく。
「なるほど、元々は果実などの収穫を占うものだったと聞いていましたから、ヤコブが知っていてもおかしくありませんね」
「元々って、今は何の占いなんだよ」
 グラスを並べ終え、ディーターは空いている椅子に座って煙草に火を付けた。その様子にジムゾンは皿を並べながらゆっくりと話す。
「聖女バルバラは死の恐怖を和らげる守護聖人であり、全ての愛を神に捧げた方なんです。恋占いでもあるんですよ。その占いは」
「ふーん、何を願ったのかね。恋占いはまだリーザにゃ早すぎるような気がするけどな」
 ディーターはそう言いながら窓の方を見て、眩しそうに目を細めた。死の恐怖を和らげる守護聖人。これからの舞台にはまさにふさわしいかも知れない。
 この先のことを考えながら、ディーターは煙と共に大きく息を吐いた。

「薪はこの辺りに運べばいいのかな」
「いいよ、ニコラスさん。ニコラスさんはこの村のお客様なんだし、ゆっくりしててよ」
 行商人のアルビンと共に新年が明けるまでこの村に滞在するという旅人のニコラスは、いつものように緑のマントと帽子をつけたままヨアヒムが薪を運ぶのを手伝っていた。その後ろをペーターが同じように薪を運んでいる。
「ペーターも。何かこれじゃ、僕が皆に手伝わせてるみたいだよ」
 ヨアヒムがそう溜息をつくと、ペーターは一瞬キッとニコラスの方を見た後、ヨアヒムに向かって振り返った。
「僕だって何かやらなきゃ。遊んでばかりだってリーザに思われたくないもん」
 その様子を見て、ヨアヒムは何となくペーターが張り切っている理由が分かった。
 ペーターはニコラスに負けたくないのだ。リーザはよくニコラスに懐いている。多分ペーターはそれが面白くないのだろう。自分も子供の頃、そんな風に躍起になったことがあったような気がする。
 ふと見ると、ペーターの左の人差し指に血がにじんでいた。木の破片でも刺さったのだろうか、時折痛そうな顔をして指を押さえている。
「ペーター、ちょっとこっちにおいで」
 ヨアヒムはニコラスが見えなくなったのを確認してから、ペーターを呼び寄せた。ニコラスが側にいたらきっとペーターは痛いのを我慢してしまう。子供とはいえ男としてのプライドがあるのはよく分かっている。
 素直に側にやってきたペーターに、ヨアヒムは目線を合わせるように屈んだ。
「頑張ってくれるのは嬉しいけど、ケガしたら僕にちゃんと教えてくれないとね」
 ヨアヒムがそう言うとペーターは少し下を向いて頷いた。
「うん。じゃあいつものおまじないしてよ。ケガが早く良くなるようにって」
 ペーターは人差し指をヨアヒムに向かって差し出した。その傷口にヨアヒムは笑いながら口を付け、指ににじんだ血を舐める。
「じゃ、痛いの痛いの食べちゃうぞー……はい、痛いのは僕が食べたから、今度はちゃんと手当てをしに行こう。薪運び以外にも今日はいっぱいやることがあるから」
「うん、分かったよ。ヨアヒム兄ちゃん」
 にっこり笑うペーターの頭を、ヨアヒムは優しく撫でた。

「大丈夫だよ、カタリナ」
 宿へ向かう途中の道をオットーとカタリナは並んで歩いていた。カタリナは新年だというのに、なんだか浮かない顔をしている。
「リンゴの花が咲かなかったぐらい、大したことじゃない」
「そうだといいんだけど」
「カタリナは放牧で昼間家を空けてることが多いから、部屋が寒くてつぼみもふくらまなかった。それだけだ」
 パメラ達と一緒にヤコブに分けてもらったリンゴの花が咲かなかった……確かにオットーの言う通り、大したことではないのかも知れない。だがカタリナの心には、それが心に小さな棘となって突き刺さっていた。
 胸騒ぎがする。
 人狼の噂が近くまでやってきて隣村でも人が襲われていると聞くと、怖くて夜も眠れない。この村ではまだ誰も犠牲者がいないが、だからこそ怖かった。
「村人が誰も襲われてないのは、ここにいる誰かが人狼だから?」
 そんな事を、誰にも言えるはずがない。
 口にしたらそれが現実になってしまうかも知れない。
 言霊の力は強い。悪いことを口にするとその通りになってしまいそうで、カタリナは漠然とした不安を抱えながらも人狼に関して何も言えなかった。
 先日フリーデルが人狼の話をしたときも、思わず口をつぐんで目をそらしてしまった。怖かったのは人狼の話だけではない。口をつぐんだ自分の様子を見た、フリーデルの目が怖かった。
 まるであの日、自分を見た人狼のような鋭い視線が……。
「…………」
 俯きながら歩いているカタリナの手を、オットーがそっと握った。
「大丈夫、俺達は絶対人狼じゃない。これだけじゃ不安かい?」
「ありがとう。そうね、私達は人狼じゃない。一緒だから大丈夫だわ」
 オットーの温かい手。カタリナはそれを握り返した。

「さて、みんな集まったね」
 白いクロスのかかったテーブルを前に、新しいピンクのドレスを着たレジーナが満足そうにこう言った。村人もこの宿に泊まっている客人も、全員このフロアに揃っている。
 テーブルにはレジーナが作った料理の他にも、皆が持ち寄ってきた物が食べきれないほど並んでいた。かまどから出された鶏は黄金色に焼き上がっているし、キャセロールに入っているスープからは暖かそうな湯気が立ち上っている。オットーが持ってきた焼き菓子は綺麗に磨かれた銀のトレーに並べられていて、ヤコブの作ったリンゴ酒は美しい装飾のデカンタに入れられておりそれだけでいつもの食事とは全く違う雰囲気だ。
 大きなテーブルにはレースがついているクロスがかけられその真ん中にはリーザが持ってきたリンゴの花も飾られており、冬だというのにここだけがまるで春のように暖かだった。
「じゃあヴァルターが乾杯の挨拶をする前に、何か報告することがある人はいるかい?」
 レジーナの言葉に手を上げたのはトーマスだった。
「俺からいいだろうか?」
 トーマスはそう言うと、宿の片隅に置かれている白い布をかぶせられた物の側に近づき、その布を一気に取った。
「本当は教会に真っ直ぐ運ぶべきだったんだろうが、まずこの村の皆に見せたかったんだ。やっと完成した」
 そこにあったのは、木彫りで作られた聖母像だった。秋からずっと取りかかっていた物なのだろう。それは厳かに、しかし優しい微笑みを浮かべながら佇んでいる。その周りを皆が取り囲み、おずおずと手を出したり祈りを捧げたりしている。
「トーマスも腕を上げたのう。素晴らしい出来じゃ」
 モーリッツがそう言うと、トーマスは小さく首を振った。
「まだまだだ。満足するものが出来るまで、ずいぶん時間がかかってしまった」
「時間は関係ない……いや、時間をかけたからこそ見えるものもある。良い物は良いんじゃよ」
 モーリッツは椅子に座ったまま聖母像を見つめていた。木こりの仕事をトーマスに譲ってからしばらく経ったが、これだけの腕があるならもう自分が教えるようなことは何もないだろう。自分が教えたことがちゃんと引き継がれているのが、モーリッツは嬉しかった。
「トーマスさん、素晴らしい物をありがとうございます」
「いや、これは……」
 何度も頭を下げるジムゾンにトーマスが何か言おうとした瞬間、少し離れたところにいたディーターと目が合った。ディーターは口の前に人差し指を立て、ニヤッと笑う。
 そうだ。元々この聖母像は、ディーターとの言い争いが元で作り始めた物だった。その顛末を知っているのはトーマスとディーター、そしてジムゾンだけだ。それを皆に言う必要は確かにない。
「他に何かある奴はいねぇのか? 早くしねぇとせっかくのご馳走が冷めちまうし、皆がマリア様に見とれてるうちに、俺が全部酒飲んじまうぞ」
「それは無理だべ。ディーターさんが一人じゃ飲みきれないぐらいワインとか持ってきただよ。じゃないと本当に一人で全部飲んじまいそうだからな」
 ヤコブとディーターの会話で皆が笑った。そこにパメラが手を上げる。
「はーい、私から皆に素敵な報告があるの。ささ、カタリナとオットーここに来て」
 パメラは二人の手を取り、聖母像の前に立たせた。カタリナは恥ずかしそうに口元を両手で隠す。それを見た皆の視線がカタリナの左手に集まった。
「えっ、もしかして」
「そうなんだ、アルビン。カタリナとクリスマスに婚約した。式は春になってから挙げようと思ってる」
 オットーの言葉に、アルビンが驚きながら口をパクパクさせている横で、ヨアヒムはふうっと息を吐くように笑う。
「オットーに指輪を頼まれてからずっと内緒にしてるの大変だったよ。でも知ってたのは、僕とパメラだけだったみたいだけど」
「ふふっ、カタリナの結婚衣装は私が作るから、楽しみにしててね」
「ありがとうパメラ。私達の次はパメラ達ね」
 カタリナがそう言うと、パメラとヨアヒム、そしてもう一人が大きな声をあげた。
「なっ!」
「えっ?」
「待っ!」
 皆が振り向いた先にいたのはパメラの父親である、この村の村長のヴァルターだった。ヴァルターは一つだけ咳払いをすると、何故かうんうんと頷く。
「い、いや。何でもない」
 その様子を見て、アルビンがクスクスと笑う。
「ヨアヒムさん、この調子じゃまだまだ許してもらえそうにないですね」
「ちょっとからかわないで頂戴、アルビンってば!」
 赤くなりながら声を上げるパメラに、また一層大きな笑い声が続いた。

「人狼なんているわけないじゃん、みんな大げさだなぁ」
 ゲルトがそう言ったのは、乾杯の後ヴァルターが「全員が揃っているから」と、最近この付近に人狼が出ているらしいという噂の話をしたときだった。今まで眠そうに皆の話を聞いたりしていたゲルトが、急にはっきりとそんな事を言ったので、皆一瞬静まりかえる。
「でも、隣村に私が到着した時もそんな話が出てましたわ。注意しておいて困る事はないと思いますけど」
 ワインの入ったグラスを持ちながら、フリーデルが答える。フリーデルは皆の間で「人狼」の話が出るたびにいつも必ず口を出す。ゲルトはマッシュポテトを皿に取りながらこう言った。
「だって、人狼がいるなら真っ先にこの村が襲われると思うよ、僕は。僕が人狼だったらそうする」
「あら、面白いお話ですわね。それはどうしてですの?」
 面白いと言ってはいるが、フリーデルの目は全然笑っていなかった。他の皆は二人のやりとりを聞きつつ、飲み物をグラスに注いだり料理を取り分けたりしている。
「だって全員顔見知りなぐらい小さな村だよ。これぐらいなら、全員一気に襲えそうじゃない?」
「人狼を恐れていないなんて、ずいぶん楽天家ですのね。もしかして、何か理由があるのかしら」
 意地悪くゲルトに詰め寄ろうとしたフリーデルの間を取りなすように、レジーナが割って入った。そして手に持っていた皿からザウアークラウトを取り分け、二人に手渡す。
「まあまあ、新年からこんな話も何だしそれはまた今度にしようじゃないか。シスターもそんな怖い顔しないで。ほら、神父様が何か呼んでるよ」
 レジーナにそう言われ、フリーデルはチラとゲルトを一瞥してからその場を離れた。それを見てレジーナが苦笑する。
「まったく、ヴァルターもタイミングが悪いね。心配なのは分かるけどさ」 
「ああ、だが現に被害は出ている。この村に来る郵便配達人も何者かに襲われたじゃないか。シスターの言う通り注意して困ることはない」
 ヴァルターがパイプに火を付けながら、溜息と共に呟く。だがゲルトはそれを見て、一つ大きなあくびをした。
「多分人狼の仕業に見せかけた盗賊とか、獣の類だよ。ふぁーあ」
「絵描きのくせに、ずいぶん現実的なんだな」
「あ、ディーター」
 後ろから近づいてきたディーターに差し出されたグラスをゲルトは笑って受け取った。その中には赤いワインが入っていて、それがゆらゆらとランプの光の下で揺らめいている。
「芸術家ってのは、もっとロマンチストだと思ってたぜ」
 そう言いながら、ディーターは持っていたグラスのワインを一気に飲み干した。そして、物足りなそうに辺りを見回す。
「別に現実主義者なわけじゃないよ。本当にいるって分かっているならともかく、見てもいないのに惑わされるのはおかしいよ。僕は人狼なんて信じてない、ただそれだけ」
「でも、もしかして本当にいたらとか考えないか?」
 さっきゲルトの話に食いついてきたフリーデルは、椅子に座ってジムゾンと話をしている。ヴァルターもレジーナも近くにはいない。他の皆もそれぞれパーティーを楽しんでいる。
 それを確認したように、ゲルトは溜息をついた。
「本当に人狼がいるなら、吞気にこんなパーティーなんかやってる場合じゃない。一カ所に固まってるなんて危険すぎるよ。それにみんな『いるかも知れない』って思ってるけど『本当にいるか』は、誰にも分かってないんだ。本当ならシスターはもっと本気で人狼を捜さなきゃいけないし、村長は皆にきつく注意しなきゃならない。僕が言ってること、間違ってるかな?」
 その言葉にディーターは確信した。
 ゲルトは『人狼がいることを知っている』
 何故そのことを誰にも告げず「人狼なんているわけない」と言うのかは分からないが、ゲルトは人狼の存在に気づいている。やはりこのまま生かしておく訳にはいかない。
「確かに、至極当然だ」
 ゲルトの言っていることは間違っていない。皆人狼の存在を恐れながらも、こんな日々が永遠に続くことを願っているのだ。自分だって人狼になる前は同じだったではないか。
 だが……。
「…………」
 ディーターの空いたグラスに、ゲルトが自分のグラスから半分ワインを分けた。そしてそれを持って軽く傾ける。
「新しい年の始まりに、乾杯」
 そう言って笑ったはずのゲルトの表情は、グラスを通して泣いているかのように見えた。

 次の日の早朝は、息も凍るぐらい寒かった。
 踏みしめた雪がキシキシときしむ嫌な感触を味わいながら、ディーター達はゲルトの家の前に立っていた。
 ゲルトを襲うのをこの日に決めたのはジムゾンだった。新年のパーティーの後は酔っている者も多く、次の日の昼過ぎまで皆休んだりしているからきっとゲルトも寝ているうちに襲えるだろうと言う理由からだった。だがドアを前にして、ディーター達は部屋の中で誰かが起きて動いているのを感じていた。
『ゲルトさん、起きてるの』
 リーザがそう囁きながらジムゾンの手を握る。ジムゾンも、不安そうにディーターを見つめている。
『引き返しますか?』
『いや、あいつは俺達を待ってる』
 ぎゅっと、ディーターはわざと大きな足音を出す。
 そして何も言わずにゲルトの家のドアに手をかけようとした瞬間、そのドアが音もなく開けられた。
「よう、芸術家」
「やあ……よく来たね」
 ディーターの言う通り、ゲルトはそこに笑って立っていた。
 いつも通り普通に笑いながら、まるで客人を招き入れるかのようにドアを開けている。ゲルトの家の中には描いていた絵があちこち無造作に並べられているが、目を引くのは一枚の真っ赤なキャンバスだった。
 ディーターがジムゾンとリーザを守るように、一歩前に進み出る。だがゲルトは微笑んだままだ。
「お前、誰が人狼か知ってただろう? どうして誰にも言わなかった?」
「どうしてだろう? 僕にもよく分からないんだ。自分がこれから確実に死ぬって事だけは分かってるのにね。それよりももっと大事なことがあるからかな」
 ちらりとゲルトが赤いキャンバスの方を振り返る。その仕草に、ディーターは手袋を外しながら鼻で笑った。
「現実主義者だなんてとんでもない。お前は馬鹿馬鹿しいほどロマンチストだ」
「芸術家だからね。それより凄く眠いんだ。早く眠らせてくれないかな」
 その会話を、ジムゾンとリーザは芝居を見るように聞いているだけだった。
 本当はジムゾンがゲルトを襲うはずだったのに、どうしても二人の間に入り込むことが出来ない。囁くことはおろか、息をする音すら邪魔になりそうなぐらいの緊張感。
「喜劇が終わったなら、後は幕を下ろすだけだ」
 ザッ……と空気が動いた。
 テーブルの上に乱雑に置かれていた絵の道具が飛び散る。
 ディーターは、ゆっくりと右手から出した爪を下から斜めに振り上げた。その動きから少し遅れてゲルトの部屋に赤いものが散る。ゆっくりと倒れるゲルトが、赤いキャンバスを見て笑った。そこには血が大量に飛び散っている。
「ふぁーあ……ねむいな。寝てていい?」
 仰向けに倒れたゲルトが、血を吐きながら笑う。
 そこでジムゾンは気が付いた。これはゲルトが用意した自分の舞台なのだ。自分の運命を知りつつその舞台を完成させるために、誰にも何も告げずそれだけを待っている。
 皆に人狼の存在を教え、生き延びるという選択肢もあったはずだ。ディーターはゲルトに『誰が人狼か知ってただろう?』と聞いた。ゲルトはそれを否定しなかった。
 自分が殺されることを分かっていながら、ゲルトは自分が死ぬことを選んだ。いや、自分自身の舞台の終わりと惨劇の幕開けをゲルトが決めたのだ。
 ならばそれを台無しにするわけにはいかない。ゲルトの人生の終幕と、惨劇の開幕の台詞は自分が言わねばならない。このまま生かしておくのは残酷過ぎる。
 ジムゾンはゲルトの側に近づき、微笑みながら十字を切った。
「聖女バルバラのご加護がありますように。おやすみなさい、ゲルトさん」
「おやすみ、神父様」
 爪で切った十字は、ゲルトの体に深く突き刺さっていた。

罪人達の船 第二章

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