頼ることも、親切にされることも苦手な理由
皆さんは、周りの人達に頼れますか?親切にされたら、素直にありがたく受け取れますか?私は苦手なんですが、気付いたのは大学生頃、いや…社会人になってからかもしれません。
今日は、どうしてそう感じるようになったのか、私の子ども時代を思い出しながらご紹介します。
母親からは条件つきの愛情を与えられた
私は、まだ言葉を話せないくらい幼い頃から、自立心が強く、「自分でやりたい子ども」だったそうです。親も私の気持ちを尊重しながら育ててくれていました。それが、「親の状況を察して手伝える子ども」として成長するにつれ、「母親の都合で手伝わせる」コントロールされるようになっていったんです。それが、「条件つきの愛情」です。
世話を焼かれた後は手伝わされる
自己管理ができた私は、小学校低学年でも親に頼らずに身の回りのことは自分でこなしていました。ある時、自分でできることに対して母親が世話を焼いてくれ、嬉しい気持ちになりました。
それからしばらく時間が経ってから、言われた言葉が「さっきやってあげたんだから、次はお母さんを手伝って」です。ものすごくモヤッと不快な気持ちになったのを覚えています。
それをきっかけに、「親切にされること」に対して身構えるようになりました。祖父母や両親から世話を焼こうとされても、断る習慣が身についたんです。
「親切にされたら何か理由がある」と思うようになる
成長につれ、私は「遠慮する子」として定着しました。特に、周りの大人(家族や檀家)から何か与えられそうになると、断るからです。でも実際は、「何かしてもらったら、私も何かしないといけない」「望んでないことをされて、お礼を言うのがしんどい」気持ちだったからでした。
また、遠慮することで「欲のない子」として大人から評価もされます。こうやって、私は親切を素直に受け取れず、「疑う」考え方が癖になっていきました。
弟には見返りのない愛情
弟は後継ぎであることと、末っ子気質だったこともあり、「ありのまま」で受け入れられていました。母親が世話を焼いた後に、お手伝いを強いることもありません。私は、「お姉ちゃん」というただ年上なだけで、親の親切と引き換えに手伝いを強いられることに、不公平感を募らせていきました。
勉強をしている時、ピアノの練習をしている時は、お手伝いはしなくて良かったため、「親も納得する自分の用事」に取り組むようになりました。暇にしたり、テレビを観たりして遊んでいると、手伝わされるからです。
日常生活でも面倒見が良い人にモヤッとする
社会人になって、特に感じるようになったのは、「面倒見が良い人」にモヤッとしたり、警戒する自分でした。
理由を考えてみると、条件つきの愛情を与えてきた母親に「投影」していたからです。
面倒見が良い人は、積極的に親切にしてくれます。それは、私にとっては「心理的に自分の領域に入りこまれる」「世話を焼いてくれた分だけ相手の意見を通しやすい状況」なんです。
私達親子の間では「お手伝いを断ることは悪いこと」のような思考を刷り込まされ、「断る権利」がありませんでした。こんな環境だったので、純粋な親切を受け取ることが不安に感じるというか、裏を読み疑うようになりました。
こうやって、対等な人間関係を築くことも下手で、人に頼れずに何でも1人でしようと思うような自分になっていきます。
まとめ
皆さんは、親切に対してこんな気持ちになったことはありますか?子どもにとって、1番最初の人間関係は親子関係です。親から受ける影響は、子どもの生き方にも影響を及ぼすことでしょう。私は、今現在も自分の考え方の癖に気付いては、修正の意識をする毎日です。本音は、素直に自然体で人と関わりたい、そう思っています。
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