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寺での生活は閉鎖的な社会

皆さんは、「寺」に対してどんな印象を持っていますか?多くの方は、「昔からずっと変わらない歴史ある場所」「お盆やお彼岸が忙しい」「真面目で堅い」などの印象をお持ちではないでしょうか。
今回は、寺の中での「家庭環境」について、ご紹介します。

親戚より檀家との付き合いが中心

寺は、檀家との関わりを中心に日々生活しています。来客=(ほぼ)檀家なので、子どもの頃から愛想良く挨拶するよう教えられ、親の友達ではなく、「親の仕事関係の人達」として関わるようになります。

また、寺と檀家は、先祖から今後も付き合い続ける関係であるため、「揉めないように」関わる必要があります。「あの店は、もう二度と行かない」みたいに、関係を切ることはできません。そのため、幼い頃から、人付き合いに対しても自然と「人とは一定の距離を保つ」「ハッキリ断らない」よう教えられ、それが習慣化します。

私は、人との関わりで「フレンドリー」「親しい」、そんな感覚があったのは小学生の頃までで、「気さくな付き合い」というのは、もはやわかりません。自分の中では、かなり打ち解けているつもりでも、大学時代に友達からは「遠慮してる」と言われていました。

寺の常識の中で生きる

寺は、もちろん宗教が根底にあるため、仏教の考え方が自然と根づきます。ただ、それが社会の常識や価値観と一致する訳ではありません。狭い家庭の中で「おかしい」と感じても、子どもが生きるためには順応・適応せざるを得ない環境です。

嫁いできた私の母親は、そこに気難しい義両親との同居で苦労していましたが、周りに愚痴をこぼす人もおらず(近所や檀家に広がるため)、私が、低学年の頃から愚痴を聞く役割でした。

正義感の強い私は、祖父母や父親に対して、子どものという立場で言うと許されることもあり、おかしいことに対してハッキリ指摘することもありました。

世間とのズレに気付けない

寺に対して、周りの人達や親戚も「立てる」感じで私達に関わってくれます。例え、こちらが常識的ではなくても、「宗教」が絡んでいるため、親戚でさえ「たしなめる」こともありません。そのため、どんどん周りからは孤立し、自発的に社会性を身に着けない限り、その「世間とのズレ」に気付かず生活することになります。

私は、寺を離れて暮らしてから、これに気付きました。しかも、世間からは「真面目で当たり前」とも思われていますので、「真面目に寺の仕事をするほど、世間からズレる」という状況に陥ります。

家庭内は機能不全家族

狭い家庭の中では、祖父を中心に関係が固定されていきます。寺は男性優位で、考え方も古いため、女性や子どもは立場が弱いです。しかし、世間体に配慮して愛想良く周りと関わるため、そんな家庭内のことは周りには気付いてはもらえません。「本音と建前」がハッキリしています。

こうやって、「機能不全家族」が完成していき、世代を超えて連鎖していきます。寺は、「歴史を踏襲して昔から変わらない」分、「変化することがない」環境です。言わば、「超閉鎖的な年功序列社会」なんですね。

機能不全家族の要因の一つに「宗教」が含まれますが、閉鎖的な空間で「特殊な思想」があることで生み出される、と私は考えています。

子どもも寺の中では歯車の一つ

私はこうやって、母親の愚痴を聞く役目、強い相手に立ち向かって改革するような役目を、家庭内で担っていきました。アダルトチルドレンですね…
「精神面で母親の面倒を見る」「煙たいことを言うヒーロー」みたいな立場です。これが、日常生活でも私の性格として定着し、損な役割を担いがちで生きづらいです。

まとめ

いかがでしたか?寺で暮らすのも人間なので、仕事として寺を必死で「運営」しながら、日常生活を送っています。そんな狭い世界の中で、大人の幸せは「子どもの成長」です。子どもはそれを察して「親の期待に応える」生き方が習慣になります。
地域、宗派、家庭によって違いや差があるとは思いますが、私と似たような気持ちで子ども時代を送った人達に、共感していただけたら嬉しいです。


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