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産婆

産婆
 ある、産婆の話である。彼女は、ベテランの産婆で、年齢は四十五歳。しかし、未婚。当初は、赤ん坊(命)を救い出すことに精魂を尽していたのだが...。彼女は或る時から、産婆業を廃業させられていた。彼女は自分が廃業させられている事を、彼女の心中に於いては、文字通りに「休業」と受け取っており、いつか又、誰かの手により、又自力により、再開出来る出来るもの、と信じていた。彼女の周囲に居る者達が、彼女にそのように思わせて居り、彼女の逆上、憤死、等を防いでいたのである。しかし、そのような思惑は、彼女を心配するその配慮に於いて不必要であった様子で、特に何の問題も起さずに、彼女は日々の生活を営んでいた。

 日曜日に礼拝がある。遠くにある希望に魅了された彼女は、毎週、その日曜日には、一人で、最寄りの教会へと出掛ける。とりわけ、何を目的としていたわけでもなく、ただ、キリスト系教会が掲げる「救い」というものが、どれ程の希望を自分に宿してくれるのかについて知りたくて、その一念の下、彼女はもう十二年もその教会に通っている。しかし、彼女は未だにその教会の主から「救い」の正体を教えて貰ってはおらず、永年の努力が彼女の欲望に助長を働くように、より、彼女は「救い」について、その正体を知りたがった。それ以外の目的とは、教会に集う者達との談笑、或る時は催し物の見物、トラスト配布と呼ばれる教会に於ける仕事、等、日により変わった。

 ある日曜日のこと。その日はよく晴れており、朝はまだ、初秋の肌寒さが残る程の季節に於ける爽快感と、彼女にとっては寂寥感があり、ハーフコートに身を包んだままで、家で出た生ごみを、彼女は、地域で決められたごみ捨て場へ持って行った。「よっこらしょ」と中身が見えない青色をしたゴミ袋を指定された場所に置いた瞬間に、彼女は思い出したかのように、もう一度、そのゴミ袋の結び目を解いた。辺りに誰もいないことは、既に確認していた。一つ、なにやら、遠くからでも陽光に反射して光って見える、金具のような物をそのゴミ袋から取り出して、その金具を、手でクルックルッと裏返したりして、確認するかのような素振りを見せてから、もう一度、中身が見えないそのゴミ袋の口を結んだ。その、取り出した物を、軽快に、ハーフコートの内に着ていたエプロンのポケットの中に入れた後で、彼女は一旦自宅へと戻った。ドアを開けて家屋へ入り、エプロンの紐を解いて、玄関を入ってすぐのところの床に、きちんと畳んで置き、外出する際の準備に於いて一通り確認をしてから、家の鍵を持ち、玄関を出た後、扉を閉める。これ等は彼女の普段の行動であったが、一つ違った内容を言えば、ゴミ袋から、彼女にとって恐らく貴重な物を取り出した事、である。その時、家を出た際の彼女の恰好とは、先程とは違った服装をしており、誰に見られても良いようにと、彼女が工夫した余所行きのものであった。頭に巻いていたターバンのような布製の髪留めを取り、白いカッターシャツを内に着て、チェックの入ったジャケットを羽織り、ジャケットに合わせた膝の下辺りまでを隠す茶色のスカート、又、黒いストッキングを履いた足には踝辺りまでを隠す踵が低いヒール、等を履き、小さなショルダーバックを態良く肩から提げている。誰も彼女を、暗黒街に、悪い仕事をしにいく前の悪党の井出達をした者とは予測せず、一般的な主婦の体裁である見做す事が出来る体裁、恰好、であった事は事実であった。しかし、彼女の心中には、誰にも知られたくない秘密が在り、その秘密とは、暗雲にまかれた黄金のように彼女にとって目立って嫌な体裁をしており、又、その雲の層の一つ一つをかいくぐる事によってその「真実」を手にすることが出来る、といった心中に於ける「秘密」を象るその構造の在り方に、誰かの手により自分と共にその「真実」へ辿り着き、その真実について自分と共に評価して欲しい、という思いも在った。そのような事を為してくれ得る他人とは、自分の周囲には一人しか居ないのではないか、と彼女は、新たな新人が出る事を期待しつつ、考えていた。

 教会へは、いつも通りに自転車で向かった。その自転車は、産婆を始めた遠い昔に、或る知人から贈り物として貰ったものであり、彼女は、贈り物として贈られた事を記念する思いと共に、又、自分が産婆を始めた事を記念する為に、これだけは、と大事に扱っている様子であった。彼女の家には、黒いカバンに包まれた産婆用の道具が、当初から見れば多少乱雑な様子もあったが、誰から見られても良いように、きちんと、体裁を整えられて仕舞われている。彼女の頭には今、その鞄の中身の道具の事、又、それ等の道具に纏わるエピソード、等について考える余裕はなくて、唯、今漕いでいる自転車のペダルの重さに、多少の労苦を覚えている自身の状態を、客観的に見ている思惑が在った。「東公園」と名付けられた、その中にはジョギング用、散歩用、の遊歩道があり、又、酷く広いと錯覚させる、公園の横を、ペダルを踏みしめながら通り過ぎて、その通りを少し行った所に、過去に何度も、お祝いの際に使用していたケーキ屋が在り、その店の前を、プンプン漂う菓子を焼く良い匂いを吸い込みながら、そのケーキ屋の前の道は平地である為に、グングンペダルに重心をのせて、拍車を掛けるようにして、スピードを上げて通り過ぎて行く、又暫く行けば、今度は、府立医科大付属の白い巨塔が見え始め、少々、ばつの悪い思いをしながら、今度は、緩やかな坂道となっており、苦しそうな面持ちを以て、やっとペダル漕ぎつけた後、ついに、教会へ着くのである。そうした日常に於ける彼女のする事(行為、衝動)に、一々反論する亡者が、心中に於いて在った。その亡者は、何をするにせよ、彼女とは正反対の言動をする者であり、彼女はこの亡者を快くは思っておらず、早く居なくなれば良いのに、と祈りと共に願っていたが、この亡者と仲良くなれはしないかと、心のどこかで期待する自身の姿も見詰めていた。この亡者の言動により、何度か、自分が悪の道へ進む道から救われた経験があった為に、必要以上には、邪険にする事が出来なかった、という彼女自身の認識も、割愛する念に助長していた事は事実として在った。この亡者とは、彼女にとっても、意味深く、親しみがある、かけがえのない存在であった事は、彼女の他に、少なくとも二、三、の人が知っていた。

 教会に着くと、いつも玄関付近で迎えてくれる牧師の姿はなく、ガランとしていた。この「いつも」というのは、彼女の幻想が含まれた表現が為す日常の光景を指すものである。彼女は仕方なく、自転車を決められた駐輪場に置き、自転車が倒れないように安定させた後で、これまでを自分と共に過ごして来た黒の小さな鞄を腕に提げ、教会の中へと入る。玄関を入ってすぐの所に、長机小さなヒーターを用意した受付が在り、そこには、その日のプログラムを記した白い用紙を持った中年の一人の女性が立っており、その女性はピンクのセーターを着て可愛らしく、又、教会内の寒さに少々身震いをする仕草をしながら、開き戸を一つ隔てた向こうから漏れて来る、礼拝前の奏楽を聞いていた。受付嬢は彼女を見ると、ニコッと微笑み、長机に整頓されたように重ねられたプログラム用紙を新しく拾い上げ、手に持っていた用紙を自分に近い机の位置に置いた後で、彼女に話す。
「大変でしたねぇ。もう大丈夫なの?私、いつでも力になるから、その時は言ってちょうだいよ。」
 余り長くは話すまい、と、心に決めていたのか、受付嬢は、彼女の気持ちに配慮しながらではあったが、言葉少なに話し掛けて、早々に会話を切り上げる準備を画策していた様子があった。しかし、彼女にはその画策が見えず、これも又、普段の会話なのだ、と彼女自身に思わせる事に、自然の流れの内に於いて、成功していた事は、誰にも知られない程に、当の受付嬢にもほのかにしかわからなかった。このような、一連の所作に於ける事柄とは、もう、あれから、何度も彼女は経験して来た事であり、今となっては、別段、長々と会話したところで、何がどう成るという気持ち等はない、という、他人の力に対する一種の諦めのようなものが彼女の心中に於いて既に芽生えており、「早々に切り上げる所作」については、より、何かを疑う、といった素振りが他人から見ても認められず、彼女の心中に於いても、その行動に対する疑惑を生む衝動は芽生えなかった。むしろ、しつこく、過去の自分の不手際のようなものを指摘されるかのような周囲の視線に対しては、やはり彼女は、嫌気がさしており、「早々に切り上げる所作」が、自分にとっても都合が良いものだとも思っていたところがあった為に、尚、より、その「疑惑」は彼女により消滅して、他人にとっては、彼女の逆上を被らない為の良い事象である、と思われていた。しかし、彼女はその過去の秘密を暴く為の契機となるように考えられる会話を余所にしたままで、自分の孤独を癒してくれ得る話し相手を欲しがっていた為に、「早々に切り上げる所作」が奏でる効果というものが、他人の思惑とは別のところに於いて、自分達にとって悪い結果を招く予兆を示す事になる彼女とのコミュニケーションの在り方について、他人は考えなければならなかったのかも知れないが、「大丈夫だろう」という自分達にとって都合の良い解釈と、彼女の日常に於ける常識的な振る舞いによる安堵により、それ以上の深刻な思惑には浸らなかった。
 彼女は「ありがとう」と礼を言い、受付嬢から用紙を受け取って、静かに、木の枠に縁取られたガラス張りの開き戸を開けて、礼拝堂へと入った。礼拝が開始する時間まで、まだ十数分あったが、既に何人かの信者が集い、態良く並べられた椅子に座って居り、かたや祈る者、かたや誰か教会員と今後の打ち合わせをする者、又、ゆとりのある表情を以て牧師と真面目に教会に於ける今日の行事、今後の計画、等について話す信者、教会員、等が息巻くようにしており、彼等は一様にして小声で話している。彼女は、それ等の光景と情景を覗き見ながら、いつもの自分の指定席へと行き、座った。「いつも」、「指定席」、というのは、彼女の勝手な思惑の内に於いて決められたものである。誰がどこに座っても良いのであるが、彼女は自分の行動、その行動を取り巻く環境、その環境により、もしかしたら新たな感動が訪れるのではないか、等という物事について、自分で決める事に拘っていた。そのようにする事が、自分にとって都合の良い出来事を招くのだと、頑なに信じながら。

 その席に座った後で、彼女は、いつものように、いつもの文句と、その時に感じ、思い付いた、悩み事について、神に対して、祈り、語り、始めた。

「...産婆を始めてからもう幾年も過ぎましたが、未だに、健康を以て、又、良い環境を以て、この仕事を続けられている事を感謝致します。これからも、どうか、災い事からお救い下さり、あなたの為の仕事が私に出来ますように、お守り下さい。又、もう十二年前になりますが、あの幼い子供、命、を救う事が出来なかった事をお許し下さい。私の力不足です。今も尚、そのような困難が在る仕事を、生業としていますが、どうぞ、あの時の、あの日々の悲しみをバネとする事が出来、今後の私生活、又、今後育まれる命の為に、尽力する事が出来ますように、私を強めて下さい。お願いします...(云々)」

 彼女にとって、煌めいた空想と、退屈な現実とがひしめきあった言葉とが、詰め込まれた祈りが、未だ終わらない内に、一人の男性が、彼女の背後に在った椅子に座り、彼女の肩をポンポンと叩く。男は、振り向く彼女を、静かな笑顔で迎えて、話し始めた。その男とは、十二年前に、この地へやって来た者であり、職業は医者だった。開業医をしていたが、経営が振るわずに、やがて「もっと大きな後ろ盾がいる」との彼の見解により、比較的大きな病院務めをするに至り、現在では、以前よりも儲けている。彼女とは、職業柄、話も弾み、又、要所で、医学的な領域に於いて、共に従事する事があった。彼女は、彼がここへやって来た当時、よく、日頃に於いて思い煩う悩み事を話しており、時には、滅多に切り出さない(と彼女が自負する)二番目の悩み事を打ち明けて、相応に、彼との親しみを作ろうと試みた時期があった。彼女は、この男を密かに気に入って居り、その感情とは、彼女自身も把握出来ない処にあった。

「どうも。いつも熱心に教会へ来られていますね。神があなたを祝福していますよ。きっと、この先も、あなたの道標に神が立っておられる事でしょう。」

 このように話を切り出した彼の目には、その時の彼女を救う穏やかさがあり、彼女は、いつになく又、その男に、心を惹かれ掛けた。しかし、どういう訳か、「ここで惹かれてはいけない」という思いが、彼女を縛り付けて、彼女に思い通りの言動を取らせる事をしなかった。彼女は、少し、はがゆさを感じていた。
「私、最近ではよく笑う事が出来る様になりましてね。それも皆、皆さんのお陰だと感謝しています。ここへ来るといつもホッとさせられるんです。何か、日頃の悩みとか、どうすることも出来ない、何て言うか、心の迷い、みたいなのを、優しく包んでくれて、悪の道から自分を救ってくれているような気がして...。(暫く沈黙した後で)本当に有難うございます。いつぞやも助かりました。」
 彼女の目は、少々、涙で潤んでいたが、すぐに気丈な様子を取り戻して、手を鼻と口に当てた後、くるっ前方を向いた。彼女の前方には、もうすぐ始まろうとする礼拝の準備を着々とする牧師の姿が在った。その牧師の横には、説教から、讃美歌、その礼拝の始終を録音するマイクのコードを持った教会員が立っており、音の調整をする牧師と何度か打ち合わせをしている様子であった。彼女は今、話した経験が嘘であるかのようにギュッと心置く深くにねじ込み、目前にしている現実を見ながら「男と話をした感動」を冷まし、又、何か別の事をその男と話したい、という欲望に駆られていた。彼女と話し終えた男は、笑顔を以て相対した後で、その席を離れた。礼拝が始まり、皆、一様に、静まった。

 牧師は、淡々と語り始めた。彼女には、その牧師が話す言葉の一つ一つが、自分の心中に於いて、図星をさされるが如く鋭いものに思えて、感動させられ、録音したテープを欲しい、と思う程であった。説教題は「日常に於ける悪魔の住処」というものであったが、その題を凌駕する程の言葉の力に彼女はうっとりとさせられていた。

「人は誰でも、その心の中に、善と悪の姿を見、そのどちらかに加担する事があります。光りか闇か、正義か悪か、灰色はない、善悪というものを人は、どのようにして解決していくのでしょうか。勿論、この地上に於いて生きる上で、です。悪が為せる業とは、時として、その人の過去からやって来る場合があります。その過去に、その過去を持つ人は思いの重点を置いて、現在よりもその過去に得た自分の感動に注目させられて、この現在に於ける言動の在り方を左右する事があるのです。その言動の結果に、他人を助けるものもあれば、又、取り返しのつかない出来事を引き起こすものも、表れていると考えます...。」
 まさに、彼女の心中に今在る懊悩の核心を人々の微笑の前で披露されるかのような、その言葉による彼女にとっての感動であった。ずっと聞いていたい、と彼女は思ったが、時間の経過により、説教に割り当てられた時間も終わりを告げなければならない事は、誰でも知っている。彼女はこの時間の経過に、現実に於ける自分の姿を見た。

 礼拝が終った後の教会内とは、雑談会が始まるように騒々しくなる。何度か教会へ行った事がある者にとっては、この光景とは知る処にあると思われる。すべての人々は、それぞれ自身の過去を携えながら、その教会内で雑談を繰り広げて、自分の話し相手に対しては、不要なその相手の過去に対する詮索を避けながら、当たりの良い内容を話題に選び、人間関係を保持する習癖があり、彼女も、その人間関係に於ける習癖には習い、彼女が思うところの問題は起さないように努めている様子であった。

 彼女は、知人に話し掛け、又、別の知人が彼女に近寄り話し掛け、井戸端の群れはその輪を大きく膨らまして行き、一種のバリアを、その会話に参加していない者達に対して見せつけるかのようであった。彼女が知る者、又彼女を知者、達は皆、彼女と会話をして、団欒を作り上げており、唯、彼女以外の者達は一様に、彼女との会話に於ける禁句を避ける事を心掛けた上で、相対していた。彼女との会話に集った者は皆、一つの話題について長々と展開させて行く事はせず、その代わりに、笑顔や体裁を以て、彼女の気持ちに応えていた。彼女は、これ迄の、このような、他人の気遣いにより為された「決められた話題」の在り方に纏わる貯蓄された経験により、そのコミュニケーションに於ける、他人が為す、自分に対する一連の言動に対して疑惑、雑念、等を抱く事はなく、一心に、この者達の誠意である、とそれ等の言動を心中に於いて受け止めていた。この「誠意」とは、彼女の妄想が創り上げたものである。

 集った者達は、一通り彼女と話し終えた後で、又、教会員としての義務を果たす者は果たし、そのまま帰宅する者は帰宅して、やがて一人になった彼女は、しみじみと教会を出て、自転車を止めてある、先程の駐輪場へと向かって行った。彼女がゆっくりとその駐輪場へ向うところに、あの男がその後を追うようにして、やって来た。

「ああ、もし、すみません、これなんですが...」と、彼が胸のポケットから取り出した物は、何かコンサートの案内のようなものが書かれた一枚の色の付いた紙であった。良く見ると、コンサートチケットである事が、彼女にはわかった。何故彼は自分にこのような物を渡しに来るのか、と心中で、顔を顰(しか)めながら彼女はその紙を見た後で、彼の表情をじっと見詰めた。

「今度、土曜日にクリスマスコンサートがあるんですが、もしよかったら来ませんか?ここでするのですが...」と彼は、得意気になりながら、又、少々照れながら、いつもの体裁と笑顔を忘れないままで、彼女に話し掛けた。

「あ、そうなんですか。ここでするの?へぇー、なんか、私、以前に聞いた時は違う所でするって聞いていた気がするんだけど、あ、ハイ、わかりました。一応、頂いておきます。(案内が書かれた紙を受け取り、鞄にしまう。)あ、あなたは行かれるんですか?そのクリスマスコンサートに。」

「ええ、私も行く予定にはしているんですが、でも、まだわからないんですよ。もしかすると、仕事がその日に入っちゃうかも知れないんで...。でも、出来るだけ、行けるようにはします。楽しそうですからね」と、話し終える辺りでは、口調を強めて、覇気を示すような素振りを見せて、彼女に告げた。又、自分も行く可能性を強める事により、彼女を安心させる為でもあった。

「わかりました。では、二人共行けることを楽しみにしてます。では。」

 彼女は、そう言って、笑顔を振りまいた後、鞄を、自転車に備え付けられていた前輪の上にあるカゴに丁寧に入れて、首尾よく、帰った。

 又、その帰り道で、彼女を、妄想を従えたあの亡者が襲った。亡者は、彼女に対して、ニタリ、と笑顔を見せ付けて、得意気になって語り始める。

「ようよう、良い感じじゃねぇか、お前達。お前は性懲りもなく、未だそんなに、あの男のことが好きなのかい?いっそ、思い切って告白でもしたらどうだ、もしかすると、あの男も実はお前にメロメロ、っていうこともあるんじゃねぇのかな。俺は、お前の為を想って言ってやってるんだぜ。わかってるよな?そう、その証拠に、あの男、ワザワザ、お前が教会を出て、駐輪場まで来たのにも拘わらず、追っかけて来て、クリスマス会一緒に行こう、なんて言ってたじゃないか。こりゃ、お近づきになりたい、ってあいつの気持ちの表れだと採っても仕方がねぇ、あ、いやもう、既にその気になっているか、お前は。俺のことは良いからよ、さっさとあの男と出来ちまえよ。その方が、お互い潔白の身に成れらぁ。無論、俺とお前は、いつまで経っても平行した道を歩むのかも知れねぇがな。まぁそれも、やってみなくちゃわからねぇ。...」

 彼女の心の中の亡者は、延々と喋り出した。ついに、積年の恨みが、はけ口を見失い続けた結果に、爆発したような、そんな状態を見せている。彼女は、何が何でも、この声通りに言動を起こす事は、避けなければならなかった。そうしなければ、これ迄の自分を支えて来た、他人に対する自分の体裁を確立する為に培ってきた信念の下に在る思惑と、その信念により同様に培われた自分の正義が、揃って崩れる事と成るという予測が簡単に付いた為と、又、何よりも、あの時の子供、赤ん坊、命、に対して、又それ等のものと仲良く居座っている自分に対して、合わす顔がなくなり、もしかすると、自分の内に宿っているかも知れない、とする何やら恐ろしい悪魔の素顔を見る事になるのではないか、と、散々彼女自身が信じ続けて来た経過が在る為でもあった。彼女は、自分について、詳細には知らなかった。

 彼女は、自宅へ戻ってから、普段しなければならない一通りの家事を済ませて、普段使用しているエプロンを身に付けたままで、山のようにあった洗濯物を洗濯機に入れる為に、両手で、抱え込むようにしてそれ等の洗濯物を持ち上げ、とと、ととっと、その腕から洗濯物が落ちないように配慮をしながら、風呂場を出てすぐのところにある洗濯機へと向かった。ようやく洗濯機の前まで辿り着いた彼女は、ふうっと一息つき、もう一度両腕に力を込めて、予め蓋を開けてあった洗濯機の中へ、沢山の洗濯物を投げ込んだ。洗剤を入れて、開始ボタンを押し、洗濯機をまわす。あれだけの洗濯物を一つも落とさずに洗濯機まで運び込めた成功への安堵と、その多量の洗濯物を持ち疲れた疲労が彼女を襲った為か、彼女は暫く洗濯機の前で立ち止まり、まわる洗濯物を眺めていた。水が、洗濯機の内とはいえ自然に下方へ流れ落ちる様を見て溜息を吐き、その下では、加工された機械が洗濯物を取り囲み、都合良く洗う為の組織を組み立てている。これ等を組み立てたのは人間であり、自然の動きと人間の動きとが、洗濯機という物の枠組みの中で、態良く織り重ねられた一種の共産を見ていると彼女は、自分が為した過去の過ちから、もう退く事は出来ないのではないか、と少々の予測を憶えていた。

 「おちる、おちる。今、こんなにある洗濯物の汚れが落ちていってるのよねぇ。この洗濯機のお陰で。洗剤もさっき、見合った分だけ、大量に入れたわ。その効果もあって、かなり、汚れを落とす効力も増して、真っ白に成る位に、今、沢山のものから沢山の汚れが落ちていってるのよねぇ。」と彼女はポツリ呟く。その洗濯機から望める金魚鉢の中では、五匹から三匹に減った金魚が、我が物顔で水の中をすいすいと泳いでいるのが彼女には見えた。辺りはしんと静まりかえる。金魚鉢に入れてあるポンプが酸素を送る際に鳴らす音だけは鳴って居たが、そのポンプの音は彼女は普段から聞いていた為に、気にならず、周囲の静けさと同化していた。しかし意識すればその音は聞こえる為、意識すれば又、彼女は、自然と人工との調和に気付き、隠し事が出来ない、という覚悟を、現実に於いて、強く覚えていた。

 相応に水の音を出しながらまわる洗濯機の中を、蓋を開けたままで彼女は、軽く足でトントンと床を蹴りながら、眺めていた。あの亡者の声が、又、甦る。

「俺の時も、こんな気持ちがしていたのか?あの時、俺は苦しかったぜぇ。お前に、桶の中にグッと沈められたままで、首を絞められて、現実が遠退く瞬間を俺は見たよ。お前の顔もあの時、しっかりと見詰めながら、お前がどういう心境で俺をあんな風にしたか、俺なりに感じ取っていたさ。きっとそれは、お前にとっても、核心に近い内容だと思うぜ。俺が、沈められながら、何も知らないとでも思ったかい?お前よりもあの時の事は、よーく覚えているのさ。お前は知らないだろうがな。まぁ、知らない、というのも、お前が、体裁よく世間様に見せる為の嘘さ。わかってるんだろう、本当は?何が何でも俺を悪人に仕立て上げて、自分を正当化した上で、お前は又、あの男に近付く事を夢に見ている。わかっちゃいるけど、やめられないな。お互いに。あの男、いやお前の『彼』は今は独身だ。あの時に女房が自殺したお陰で。お前は、しかし、よく、あの女房の状態を見続けていたよな。俺は感心するぜぇ。さぁ、チャンスだ。今こそ、積年の願いを叶えろよ。フフ...、『恨み』ではない、『願い』をな。」

 彼女は、一時の思惑により、倒れた。暫くして、光が見えた。そう、家に辿り着いた頃から、私はおかしかった。何かが、背後に居るようで、いや、心の中にいるようで、私は、ある過去を、自分から隠そうと必死になっていた。もう、随分以前からして来たこと。今ならわかる。でも、当時の私には、本当に、まるっきり、全く、わからなかったの。この事は信じて欲しい。

 目を開けると、自分の家の客間に、布団が敷かれてあって、その上に自分が寝ていた。十二年前は、こんな事なかったのに。彼女の感覚は、研ぎ澄まされていた。何もかもが解る気がしていた。彼女は起き上がり、重い筈の体は妙に軽快である事に気付かされながら、あの男に電話をかけた。彼女は妄想に浸っていた為に、必ず出てくれる、と信じていた。男が、二、三度、呼びだし音が鳴った後、電話に出て、彼女は、喫茶店で会う約束を取り付けた。彼は、初めは渋っていたが、了解した。

 教会から最寄りの喫茶店に、二人は別の地点から向かう。しかし、その距離は殆ど同じ程度であり、彼女が喫茶店に着くのと、殆ど同時に、彼も喫茶店に着いた。二人は、いそいそと、喫茶店へ入って行った。

「珍しいですね。あなたの方から私を誘って下さるなんて。」男は軽快な口調で、ウェイトレスがくれたおしぼりで顔を吹きながら言った。

「いえ、失礼なのは、承知しています。でも、どうしても言っておかなければならないことがありまして。」彼女は、自分でも、傍から見ればかなり深刻な顔をしているのではないだろうか、とその体裁を気にしながら、男に返答した。

「何ですか?」男は、神妙に、おしぼりをテーブルに丁寧に置いた後、彼女に耳と心を傾けた。傾聴の姿勢である。

「あの時、十二年前の事なんですが、私、隠していた事があって、あなたには、どうしても知って貰いたい、と思って、それで、電話なんかして、あなたに会おうと思ったんです。...ごめんなさい!あなたの子供を私、殺してしまって!」と言った後、彼女は突然顔を両手で覆い、号泣するように、泣き出した。
「いや、待って下さい、あの時の事は、お互いにもう..。いえ、決して、あなたの所為じゃありませんよ。あれは、仕方のないことでしょう。なるべくして成ったんですから。...私はあなたを恨んじゃいません。あなたは、精一杯、私の子供を助けようとしてくれましたし、あの時、あなたは、かなり多くの家から、産婆をお願いされて、とても忙しかったでしょう。私も知っていますよ。そんな中で、営業時間を過ぎてでも、私の家まで来て下さって、あなたは深夜に至るまで、懸命に、私と妻と子供の為に、尽力して下さった。それに、あなたの他での噂も聞いています。あなたは、立派な産婆ですよ。」

 この時の彼の言葉は彼女の胸を打っていた。彼女は、次第に泣き止み、鼻をグシュグシュさせながらうつむいたままで、さっきした注文通りの珈琲に、ゆっくりと、砂糖とミルクとを入れ、スプーンで軽くかき混ぜた後、スプーンを置いて、彼の目を見た。その彼女の目には、誘うものがあった。彼は、それに気付くが、彼女から目を逸らさなかった。

「有難う。そんなに言ってくれると、私、嬉しいけど、どうしていいかわからない。あの時、子供が死んだ事で、あなたの奥さんは...。でも、いつまでもこんな事言うのも、あなたに対して申し訳ないですよね。私は又、あなたに甘えていますね。こんな話をむし返したりして...。本当にごめんなさい。」

「いいえ...。」彼は、真剣に彼女の顔を見詰めたままで、彼女のテーブルに置かれた手を両手で包み、暫く黙っていた。そして、彼は、トイレへ行って来る、と席を立ち、彼女を後にした。トイレに入り、深呼吸をした後、彼は、持っていた手帳を胸ポケットから取り出して、「彼女の記録」と題されたノートに、喫茶店で会ってからこれまでの彼女の状態と言動について、詳細にメモをして、それ等の彼女の言動の一つ一つについて、その時に自分が感じた彼女に対する見解を又詳細に書き込んでいった。一通りの作業を終えた後で、手を洗ってトイレを出て、又、彼女がいるテーブルへと戻った。彼女は変わらずうつむいたままであった。彼女と彼は、その後、世間話等に花を咲かせていたが、互いに、話が長くならないように早めに切り上げ、そろそろ、と勘定をウェイトレスに頼み、喫茶店を出た。そして二人共、それぞれ、帰宅した。

 家に戻って来た彼女は、彼に会った事が心を軽くしたのか、彼に会う以前の家に居た彼女の心境とは打って変わって違ったものとなり、明るい気分を感じていた。亡者も、もうあんな形を以ては出て来ないだろう、と勝手に確信していた。いやむしろ、彼女は、自分がその亡者と仲良くなれる、とさえ、思い始めていた。永年の夢が叶う、と考え始めていた。そのようなことを思いながら、彼女の目は、産婆の道具を仕舞ってある、赤茶けた鞄に止まった。確か、以前は黒色をしていた鞄であった筈だが、その時までの時間の経過がそうさせたのか、塵が鞄に纏わりつき、彼女にはその鞄の色が赤茶けたように見えていた。しかし、彼女の妄想もその時共に働いていて、一層、赤茶けたように彼女に見せていたことも事実であった。今朝、ゴミ袋から取り出した金具が、その鞄の上に、真新しい様を以て置かれてある。彼女は、自分がそのように置いたにも関わらずに、その真新しさに少し辟易する。その金具とは、女性の暗闇を覗き込み、赤ん坊の状態を見る事と、出産する際の道筋を都合良くする為のものであったが、今の彼女には必要のないものであり、否、ずっと以前から必要のないものであった。彼女は、その辺りの事実について薄々感づいており、熟考の末に悲劇のヒロインを作成する一種のエキスパートとも成って居り、その思惑の膨張は誰にも止められず、又、膨張させる為の彼女の思惑の一つ一つは自然に湧き起こり続けていた。命の源泉を見計らう為のその金具は、彼女の心に神秘的な良心を植え付ける契機と成るかのように、彼女の前でいつまでも立ち止まり、彼女に断続的な不安感を与えていた。しかしその「不安感」とは、現実に於ける物事を彼女が思う度に、その形を変容させるものとなり、日替わりで、安心にも変っていた。彼女は、十二年前から、化粧をした事がなかった。彼女の素顔を知る者が、既に居る、と彼女が確信していた為である。木曜日に、彼女は精神カウンセリングを受けに、府立医科大付属の、精神科を有する病院へ通っていた。彼女は、十二年前から精神を病んでいた。妄想に囚われるのも、その為であろうとされていた。彼女は、男から招待されたクリスマスコンサートへは、行かない事に決めていた。他人の目があり、又彼を焦らす為でもあり、より良い遊び場が、自分達にとって在る、と考えていた為でもあった。このように彼女が考える事は、誘ったその男は既に予測しており、唯、彼女の反応を窺う為だけに投げ掛けた文言であった事に、彼は少々、気が咎めたが、これも仕事の内である、と再度、気を引き締め直し、彼女の経過を見守る事に尽力した。

 彼女の主治医である男は、又自宅へ戻り、「ちょっと職場へ行って来る。彼女の事で、少し進展があったから。」と、妻に言い、「お前も一緒に行くか?」と冗談半分に笑顔で子供に問い掛け、「行かない」と、いつも通りに子供が言うのを聞き届けてから、玄関を出た。玄関を出てすぐに妻が駆け寄って来て、「これはいいの?」と、彼女についてメモ書きされた手帳をその男に見せたが、それは要らない、と男は言い、又妻は「早く帰って来てね」と付け加え、そのまま家の中へ戻って行った。

 男は、妻が家へ入るのを見届けてから、一つ、溜息を吐いて、職場である病院へ向かった。病院にある自分の部屋へ行き、見慣れた机の引き出しを開けて、一冊のノートを取り出した。十一年間に渡り、記録し続けて来た、彼女と、彼女に纏わる事柄が、体裁よく、紙面に整えられていた。最後の行に、男は書き加えた。

「彼女はやはり、あの時の記憶を、自分に対して隠蔽している。その場限りの嘘を吐く性癖があるのかも知れない。しかしそれは他人に対してなのか、どうなのか、については、未だはっきりした事はわからないが、もしかすると、それ等について考慮する必要があるかも知れない。彼女は、段々と、心身共にあの頃から回復して来ている。しかし、当時のあの記憶を思い出させようと外部から試みても、彼女は思い出す事が出来ずに居り、その言動に嘘は見当たらない。しかし、そうした事が理由となり、彼女をこの社会で、一人で生活させる事は、第二、第三、の犠牲者が出る可能性が認められ、早急に、彼女の為の対処を採る必要がある。私は、書類送検だけでは物足りない、と感じる。しっかりとした管理下の下で、彼女の生活、いや、人生を送らせる必要がある、との見解を以て、僭越ながら、貴殿に、彼女の対処について依頼したい。」
として、直様、部屋を出てから、警察、検事局、へと足を運び、雄弁を語った。
 十二年前の若いままの彼女は、その後まもなくして、いなくなった。


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